ジュリエットじゃない。
沈黙を続ける玄関の前でマリの母親、ナツミは首を捻っていた。
家にいるはずのマリが呼び鈴を押してもなかなか出てこない。家にいることは間違いない。ひとりのはずだが、時々誰かに向けているような怒ったマリの声が聞こえてくるのだ。まさか友達と電話をしていて気付かないということはないだろう。
普段であればのんびりと待ったナツミだったが、今日に限っては切迫した事情があった。この後の会議で必要な資料を忘れて取りに来たところだったのだ。さらには家の鍵を持って出ることまでも忘れた。それで何度か呼び鈴を鳴らさざるを得なかった。
もう一度押すか迷っていたところ、突然我が家のリビングの電気が消えた。それをきっかけに一階のあらゆる部屋の照明が順に落ちていく。指をインターホンから離すと、丁度玄関の扉を開いてマリが体を半分のぞかせた。
「お帰りなさい。随分早くなったのね」
呼吸を荒くしてマリが言った。それ以上は何も言わない。疑問に思ったが、ナツミはひとまず用件を説明することにした。
「ごめんね。帰ってきたわけじゃないの。どうしても必要な資料があるんだけど、おうちに忘れてきちゃってそれを取りに戻ってきたの。だから、この後もすぐにまた会社に戻らなくちゃだめなの」
「戻る!? 戻るの!?」
今にも飛び跳ねそうな勢いでマリが言った。しかし、すぐに冷静になって声を改めた。
「……いえ、資料ね。私、取ってくるよ? どこにあるの?」
不自然に取り繕った声だった。何かを隠していることは明らかだったが、ナツミはすぐに問い詰めることはしなかった。ただし、タイミングを見計らっていた。
「ありがとう。でも、マリには多分分からないと思うから、大丈夫よ」
「……うん、分かった。あとママ、鍵持っていくのもまた忘れていたわ。しっかりしてね」
「ごめんね。ちゃんとする」
張り付くようにして玄関に立つマリを気にしながら、玄関の扉を開く。夕食時だというのに家の中は真っ暗で、開演前のオーケストラのような静けさに包まれていた。
「どうしてこんなに真っ暗なの?」
マリに聞くと、しどろもどろな返事があった。
「あの、実は停電になってしまったらしくて、電気がつかないの。その、ごめんなさい」
「あら、そう? 隣のおうちは点いていたけれど……」
いつもは素直なマリの嘘にナツミは困惑した。味方のいない弱々しい嘘だった。ナツミは電気のスイッチに手をかける未来を想像した。明かりがつく。いつも通りの我が家が戻ってくる。いたたまれない様子のマリが目に涙を浮かべている。マリにかける言葉を考えて、蝋燭の火を吹き消すように想像を振り払った。
マリの周りに舞台袖のような暗闇が落ちている。街灯の明かりがのぞき込むようにしてマリの顔を照らしていた。今にも泣き出しそうな顔をしている。表情を見てはっとした。親の勘か、無意識に気づくことがあったのか。ナツミは大体の事情を察した。
そして、自分もマリくらいの年の頃に同じようなことをしたと思い出した。あの時の自分も随分杜撰な嘘をついた。自分はすっかり大人だと勘違いしていたのだ。
ここはマリの嘘に合わせようとナツミは思った。自身の経験からくる根拠のない判断だった。賢いこの子は気付くかもしれないが、その気付きもまた大切なのだ。そうして成り立っている世界というのは間違いなくある。
「電気がつかないなら仕方ないわね」
ナツミは持っていたスマートフォンをそっと鞄の中に押し込んだ。その必要はないのだが、音を殺して靴を脱いだ。
マリが弱々しく言った。
「ママ、やっぱり私がとってくるわよ。私はすっかりもう暗いのに慣れたもの」
ナツミは少し考えて、首を横に振った。ナツミとしてもマリに頼みたいところであったが、やはり難しいだろう。見つけること自体は不可能ではないだろうが、どれだけ時間がかかるか分からない。
「ありがとう。でも、書類はたくさんあってそのうちのひとつだから、ママにしか分からないの」
「そう……」
「すぐ取って、すぐ戻るわ」
足を進めると、不安そうな顔でマリが後ろをついてきた。
ナツミはどんな変化も先に察知しなければならないと、気を引き締め闇に目を凝らした。
リビングに入ると知らない振りをする方が難しいほどだった。
まず匂いが違った。普段食卓には並ばないジャンクな匂い。夜目も多少利くようになってきた。それで分かるほどに、明らかにものが増えていた。しかし口には出さない。片付けることは出来なかったのだろう。マリの動転ぶりが手に取るように分かる。せめて会社を出るときに連絡をすれば良かったと後悔した。
ものに躓かないことだけにはよく気を付け、真っ直ぐ書類をしまっている棚に向かう。
棚を前にしてようやくスマホのライトを点けた。
「あった?」
怖々と後ろからマリが尋ねる。ナツミは片手で器用にファイルの中身を確認していった。
すべて見終えてナツミは小さく唸った。ない。どこにしまったか考え、もうひとつの鞄の方にしまったことを思い出した。
「ごめんなさい。こっちじゃなかったわ。多分鞄の方ね」
「そう……早く見つかるといいわね」
そわそわとどこかを気にした様子でマリが落胆した。
多分鞄で間違いないはずだ。こうなったら次は鞄をひっつかんで確認は外でしよう。
そう思って、ナツミは足早に鞄をしまっている隣の部屋へと移動した。
その時不幸な勘違いがひとつ起こっていた。
マリは母親が隣の部屋へ入っていく瞬間を見逃していた。もしそれを目撃していたのなら叫んでしまったに違いない。マリは次に鞄を探すと聞いて、母が自分の部屋に向かうと思い込んでいたのだった。それで一刻も早くリビングから離れたかったマリは一足先にリビングを出ていた。
「ママ……?」
自分の後を母がついてこないことに気づいて、マリが細い声で言った。
たどたどしい歩みで慌ててリビングに戻る。リビングから和室へと続く引き戸が開いていることに気づいて小さく声を漏らした。ハヤトのいる部屋だった。
マリは無意識に駆け出した。
すると、一秒もしないうちに体が宙に投げ出された。
プラスチックの固い音。テーブルとプラスチックのぶつかる大げさな音。痛む足。
床に置きっぱなしにしていた何かに躓き、マリの体が浮いた。
マリは自分に起こったことをまるで認識できなかった。母がハヤトに気づくかどうかで頭がいっぱいだった。マリは床に叩きつけられる直前、引き戸の隙間から母がハヤトの隠れる押し入れの前にいるのが見えた。目を大きく見開いた。
ナツミが押し入れを開けたのと、マリが地面に激突したのはほとんど同時だった。
「マリ!?」
背後からした派手な音に、ナツミは驚き振り向いて言った。
マリにとっては幸運なことに、押し入れの中をナツミはまだ見ていなかった。
しかしマリにとっては最悪なことに、自分の娘が怪我をしたかもしれないと思ったナツミは咄嗟に部屋の電気に手をかけてしまった。
蛍光灯の籠った音がして、少し遅れて電気がついた。
すべて白日の下に晒された明るい部屋にマリの悲痛な声が響き渡る。
「駄目! 押し入れの中は見ないで!」
それで、マリの怪我の状態を窺おうとしていたナツミの視線が逸れた。無意識に押し入れに視線が向いてしまう。
中にあったものを見て、ナツミが顔を引き攣らせた。
ここにいるはずのない人物がそこにいた。
窮屈そうに身を縮こまらせている。
その手に持っていたのは、数字の形をしたロウソク。カラフルなロープ。
ナツミの夫、ハヤトが恥ずかしそうに頬をかいていた。
マリが絶望に満ちた声で叫んだ。
「パパの馬鹿! 出てきちゃ駄目って言ったでしょ!」
華やかな装飾で彩られたリビングの中、マリは悲しい気持ちでいっぱいだった。
今日は大好きなママの誕生日だったのに!
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