シンデレラじゃない。ジュリエットじゃない。

直井千葉@「頑張ってるで賞」発売中

シンデレラじゃない。

 シンデレラの魔法を解く十二時の鐘の音のようだった。


 時刻は十九時十八分。晩秋ともなると既に日は落ちている。

 外を歩く人々は慌てて引っ張り出した厚いコートを身にまとっていた。

 鋭く突きさすような夜気から目を逸らすように俯いている。


 しかし、マリとハヤトのふたりはそんな寒さなどまるで気にしていない。

 霧ヶ峰のエアコンが恋人の吐息のように熱い空気を吐くリビングで、マリはハヤトの上にまたがり、後わずかで芸術的な夜の完成を迎えるところだった。


 今は舞踏会にだって見劣りしない部屋に、平凡なインターホンの音が響く。


 ふたりの男女に緊張が走った。

 ハヤトの軀の上で揺れていたマリの動きがぴたりと止まる。

 先ほど軽口で話していた最悪の事態が訪れたのだと直感したのだった。

 ふたりにとってそれは決して起こるはずはなく、また起こってはならないことであった。


 マリはあどけない少女らしい表情を絶望に歪ませた。この特別な夜が音を立てて崩れていくように思えた。

 ハヤトはマリのすぐ側で気弱に目を伏せていた。口は災いのもとだとかいう言葉を思い出して、意味もなく後悔をしていた。


 ふたりは今、マリの家にいた。未成年であるマリは一人暮らしを許されていない。マリ自身も願ったことはない。彼女は両親のことを愛していたし、家を出ることなど考えてもいなかった。

 ただし、マリにも隠し事のひとつやふたつは当然ある。

 彼女の母親はマリの黒い長髪を美しいと言うが本当は短く切ってしまいたいと思っていたし、まだ早いと言われたがこっそり母の化粧品をみたこともあった。

 そして「今ハヤトが家にいる」というのもそのひとつである。


 マリは彼女なりに知恵を巡らし、今日という特別な日のために万全の計画を練っていたはずだった。平日であるため、マリの両親は当然ともに仕事があるという話だった。いつも先に帰宅するマリの母親も、今日は大事な会議があるために帰宅時間はどんなに早くともまだ一時間は後だと聞いていた。さらにマリの計画の完璧なところでは、帰宅前には連絡がくるはずだった。

 だから、マリの母親がこんな時間にインターホンを押すわけがないのだ。


 マリには何が起こっているのか分からなかった。しかしカメラ付きインターホンは、何らかの運命のいたずらがあったことを示していた。そわそわと家の前で佇む母親の姿。若く美しく、溌剌と仕事も家事をこなす、マリの自慢の母親。母親にとっても自慢の娘でありたいマリにとって、この秘め事は何としても最後まで隠し通したいことであった。


 どうにか打開できる方法はないかと頭を悩ませるマリとは対照的に、ハヤトは落胆の色を見せながら、もう事実を受け入れているようだった。マリは腹が立った。ハヤトは普段から諦めの早い人物ではある。マリのわがままにもいつも「わかった、わかった」とすぐ折れてしまう。しかし、こんな時ばかりはもう少し頑張る姿勢を見せてくれてもいいものではないかと思ったのだ。それはマリのためにもなったし、マリの母親にも、ハヤトのためにもなるはずだからだ。少なくとも、マリはそう考えていた。

 こうなった時のハヤトは頼りにならない。マリは半ば狂乱気味にまずハヤトを押し入れに押し込もうとした。ハヤトが家にいるのはおかしいから隠す。マリとしては至極当然の道理であったが、ハヤトは年上然として「こういう時には堂々としていた方がいい」と提案した。


 マリは一瞬悩んだ。ハヤトの方が人生経験は長い。自分にとってこの秘密が無遠慮に暴かれることは耐えがたい苦痛であるが、年長者の功に従うべきではないか。

 こうした時、マリは渋々ハヤトの意見に従うことがままある。普段わがままを受け止めてくれるからこそ、いざハヤトが意見を言う時には耳を傾けるべきかもしれないと考えるのだ。


 ハヤトはマリの意見を待ちながら、ピアノの上に置いてあった写真立てを弄んでいる。マリがまだ五歳だったころの写真が入っていた。マリがおかっぱ頭をして大泣きしている。好きな男の子と同じ髪型をしたいと駄々をこねて、両親の猛反対にも関わらず盛大に拗ねて我儘を通した直後の写真だった。結果、かわいくないと大泣きをしたのだ。しかし、なぜかそれを母親はかわいいと喜んで写真に残したのだった。

 マリにとっては恥ずかしくてたまらない思い出だが、母親はそれをピアノの上に飾るほど気に入っている。

 思えば、我儘を通して痛い目を見た一番最初の記憶はそれだったかもしれない。


 マリは窓ガラスに映る自分の顔を見た。口をとがらせて、思い通りにならないことに苛立っているように見えた。

 マリは改めて考え直して、ハヤトの提案に不貞腐れた表情をしながら頷こうとした。

 その時だった。

 もう一度、軽い無機質なインターホンの音がした。


 感情のない催促の音はマリには特段不気味に思えた。

 鼓動の音が絶命までのカウントダウンのように聞こえる緊迫感。

 お化けとかくれんぼをしたら、きっとこんな風に違いないとマリは思った。その恐怖はマリが子どもに戻ることをよく助けた。見つかったらすべて終わりに違いないと、降って湧いた妄念に取り付かれた。

 もう長い目で見て有益かどうかなどどうでもよくなったのだ。


「いいから隠れて!」


 マリがヒステリックに叫んだ。

 ハヤトはマリの主張を溜め息とともに受け入れた。マリはテーブルの上にあったロープやロウソクなどをハヤトにありったけ持たせて押し込んだ。ハヤトが見つかる時は、すべてがばれてしまう時であるから、それで構わない。


「私が良いって言うまで絶対に出てきてはいけないのよ」


 それからマリは手早く隠蔽を行った。時折押し入れの中からぼそぼそと文句を言うハヤトを怒鳴りつけ、おろおろとリビングを彷徨った。

 三回目のインターホンが鳴ったとき、マリはついに諦めた。

 後は運命のいたずらが自分に起こることを祈るしかないと思った。





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