エピローグ 問答、暗転、執着

 闇の中を進んでいた。


 どちらが上で前なのか、どちらが下で後ろなのか。


 僕は立っているのか、這っているのか、それとも流れているのか。


 なにも、わからない。


 体の感覚も、遠い記憶の残滓のようだ。


 ただ直感的に理解できるのは、僕はどこかを移動しているということだ。


 それが能動的なものなのか、受動的なものなのか、判断するすべは僕にはなかった。


 僕はいつのまにか動いていて、それ以外を知らなかった。


「よう。俺の声が聞こえるか?」


 闇の中に、異物が生まれた。


 僕ではない誰か、明確な他者の声が響く。


 この瞬間、僕は自分に体がある感覚を思い出した。


 声の主の姿は見えない。声がどこから響いてきたのかもわからない。近いような気も、遠いような気もする。


 僕の戸惑いをよそに、闇の中の声は軽い調子で言葉を続けた。


「ここは暇なんだ。少し話そうぜ」


 なぜだろうか。その声は初めて聞くような気も、聞き慣れているような気もする。


 そしてどこか、薄ら寒いものを感じる。けれど、その感覚が何を意味するのか、僕にはわからなかった。


 僕は話をしてみることにした。喉が震える感触はなかったが、僕の声は闇に響いた。


「ああ、構わない」

「お前、自分の名前を思い出せるか?」

「名前……あれ?」

「思い出せないか。まあそうだろう。ここがどこかもわかるまい」

「あんたは、ここがどこかわかっているのか?」

「正確な呼び名は俺も知らん。だが、ここが通路であることは知っている。ある場所から別の場所へ人を送る道だ。その途中で余計なものは洗い落とされる。名前も、記憶もな」

「あんたは自分の名前をまだ持っているのか?」

「さあ、どうだろうな」

「僕たちは、どこから来て、どこへ向かっているんだ?」

「前の人生から、次の人生へ」

「輪廻転生というやつか……」

「そういう呼び名もあるらしいな。まあ、生きている人間が知りようもない死後のことを想像した概念だ。正確さは保証しない」

「僕たちはどうしてここにいる?」

「そりゃあ死んだからだろうよ。前の人生が終わったから次の人生に向かうために準備をしているのさ。魂とやらにも質量保存の法則みたいなもんがあって、この世を循環しているんだろう。はっ、教会でご高説を垂れていた連中をここに連れてきてやりたいぜ」


 その話は突飛なようでいて、どこか地に足の着いた説得力があった。他に判断材料がないこの状況では、この声以外に信じるものがなかった。


「さて、そっちの質問に答えたんだ。今度は俺の質問に答えてもらう」

「質問って……さっきあんたも言っただろう。僕は自分が誰かもわからないんだぞ」

「心配するな。記憶がなくても答えられるタイプの質問だ。提示された状況でお前ならどうするか。それを考えるだけだ」


 悪寒が再び走る。しかし、会話を切り上げるきっかけもなく、僕は問答を続けることにした。


「わかった。答えるよ」

「そうだな……第一問。お前は腹を空かしており、目の前には同じく腹を空かした鶏がいる。手元には一切れのパンと、食材を調理するのに必要な道具と知識がある。お前ならどうする?」

「……パンを切って、僕と鶏で分けて食べる」

「なぜ?」

「鶏を生かしておけば、卵を産むかもしれないだろう」

「なるほど。そういう考えもあるのか。では、第二問。お前と、足を怪我して走れない友人の前に、凶暴なライオンが現れた。手元には拳銃が一丁あるが、ライオンを仕留められる保証はない。お前ならどうする?」

「……拳銃でライオンを撃つ」

「……そうか。第三問、これが最後の質問だ。海の真ん中で沈みそうなボートに、お前と、お前の友人、お前とは仲が悪いが友人とは仲が良い人間の三人が乗っている。ボートは三人が乗り続ければいずれ沈む。手元には拳銃が一丁ある。海に生身で出て生還する手段はない。お前ならどうする?」

「……拳銃で自分を撃ち、海に落ちる」

「なぜ?」

「自分と仲が悪い人間を殺して友人と二人で生き残っても、友人とそれまで通りの関係ではいられないだろう。なにより、人殺しになってまで生き残りたくない」

「そうか。よくわかった」


 問答の間、正体のわからない悪寒はずっと止まらなかった。闇の中の声は、最後の返事からしばらく沈黙している。数秒か、数十秒か。しばらくして、再び闇に声が響いた。


「……はあ。やはりお前はつまらんな」


 ドン、と横合いから突き飛ばされるような感覚があった。


「え?」


 ずれる。


 さっきまでいた通路、移動していた道から、はじき出される。


 落ちるのか、飛ばされるのか、流されるのか。


 再び意識が疑問符で満たされる。混乱する僕に、最後に声がかけられた。


「結局のところ、お前は自分の幸福のためにリスクを背負う覚悟が足りんのだ。そんな人間がいくら生まれ変わったところで何者にもなれはしない。犬畜生か虫けらにでもなるのがお似合いだ」


 声は闇の中に消えた。


 いや、消えているのは僕の方か。


 自分がなにものか、意識がどんどんうすれていく。


 そして、なにもなくなった。



「ふう。つまらん幕切れだったな。あんなクズに邪魔されるとは。まあ過ぎたことを気にしても仕方ない。今回は運がなかったと諦めよう」


 後ろは振り返らず、先だけを見据えて通路を進んでいく。


 通路の果てに、懐かしい光が見えた。


 二回目はあった。ならば三回目があるのも道理だろう。


 何度失敗しようと、何度でもやり直せばいい。この魂が満たされるまで。


 光に意識が溶けていく。俺は存在しない口元がつり上がるのを感じた。

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