(四)

 紺野と二人で初めて溶鉱炉を見た時のことは、今でも忘れられない。

 風光明媚の対極にある工場内は、温度も匂いも私たちが知る世界とは違う空気で満たされていた。剥き出しの配管、照明は必要最低限。しかしその薄暗い中にあって、どろどろに溶けた鉄が放つ赤い光は他を圧倒していた。大きな鍋から吐き出される赤、細い通り道を流れていく光。あの光だけが、眼前に広がる巨大な設備全ての存在意義だ。私は見学デッキから周囲を見渡し、隣に居る紺野に「すごいなあ」と呑気な声を掛けた。

 しかし紺野は黙っていた。ただただ、赤い鉄の輝きに魅了されていた。金属同士が擦れるけたたましい音にも、巨大な虫歯を治療するような鋭い音にも気付いていないように、両目を見開いたままじっと身動き一つしない。もしも私が声を掛けなかったら、彼は何時間でも同じ場所に居ただろう。

「おい、紺野」

 私にわき腹を小突かれると、やっと彼は息を吹き返してこちらを向いた。

「遺影にしたい」

「はあ?」

「俺、溶鉱炉の写真を遺影にしたい」

「馬鹿か。縁起でもない」

「だって、今まで見た中であれが一番眩しい」

 彼の被写体はここにあった。こんな、はるばる湾岸まで来なければ見られない場所に。遠くから眺めることしか出来ない、どろどろと溶けた鉄の川。

 たったそれだけの理由で、紺野は工場の親会社に就職した。しかし、彼が本当に溶鉱炉内での職に就けたとは思えない。募集要項を見る限り、いわゆる本社勤務の総合職だろう。それでも彼は、出来る限りあの眩しい光に近づいた。

 そうして社宅の庭先でひっそり首を吊り、一人きりで死んだ。足元に落ちていたカメラには、暗闇が写っていたという。

 



 誠一くん。

 声がしてようやく私は我に返った。スマートフォンの画面いっぱいに、あの日見たのとよく似た真っ赤な光が輝いている。紺野が撮った溶鉱炉。これでは何を撮ったのかわからない。ただ煌々と輝く赤い鉄だけが、私のスマートフォンを燃やさんとばかりに光を放っている。

 これがお前か。お前の遺影か。私は声にならない声で呟いた。どうして彼が、始終被写体を探していたのかがようやくわかった。何でも器用に美しく撮れてしまう男には、手に負えない輝きが必要だった。どれだけ追い求めても思い通りにならない光。形を捉えられない鮮烈な光が。

 だから紺野は自分の顔を撮らなかった。彼にとってその顔は、何より暗く見飽きた顔だ。

「泣いていいよ、誠一くん」

「……泣いてませんよ」

「嘘つき」

 隣からあやめの腕が伸びて来て、私の頭をそっと彼女の方に傾けた。景色がゆらりとぼやけ、眼前を涙が流れて行く。もう、いい大人になったはずなのに。何もかも心の奥に仕舞い込み、大人になったはずなのに。大人になればなるほど、心は次第に脆くなる。白い彼女の指が、私の髪を撫でる。スマートフォンを握る手を優しく包む。

「……あやめさんが居てくれてよかった」

「そう?」

「あなたは俺にとってー……。多分、紺野の溶鉱炉と同じだから」

 彼女は聞き返さなかった。もし聞き返されたとしても、私は答えられなかっただろう。ただ、彼女になら泣き顔を見られてもいいと思った。涙を拭うのも忘れ彼女を抱き締め、やがて私たちは静かに唇を重ねた。

 瞼の裏に、ずっとあの赫灼かくしゃくとした溶鉱炉の姿が焼き付いていた。それは明かりを消した寝室で、ふくべのように白いあやめの体を目の前にしても、決して消えることなく燃え続けた。

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