40話 夜が明ける
「キュゥ?」
「トゥファ、いきなり食べちゃ駄目だよ」
涎でねとねとになった僕は、トゥファにそう言いながら、リイチにもらった布で身体を軽く拭く。トゥファの涎は、人間や動物と違って嫌な匂いはなく、寧ろ花の蜂蜜に近い甘く少し爽やかさのある香りがしている。
でも、べとべととして、正直心地は良くない。
「食べられた時死ぬのかと思いました……!」
「本当ですぞ! 拙者の治癒能力で間に合うかどうかだと!! 龍殿も悪いお方だ!」
リイチは半べそになりながら、僕の身体から涎を優しく拭ってくれ、ユウシは僕の周りを飛び回っている。マサナリ殿下はトゥファの周りを何度も回っている。
そして、一番肝心なセンセンはというと。
「まあ、誰しもやられる、龍の挨拶だ。俺も昔はやられたもんだ」
少し前までの厳しい雰囲気はなくなり、なんとも懐かしむような様子で、トゥファを見ていた。どうやら、龍仙師から生まれた龍はその親の龍仙師をこのようにして甘噛みするらしい。これは初めましての挨拶で、「お前を食べないよ」という信頼の証とのこと。
それなら、先に教えてほしいとも思うが、龍仙師の先輩たちは面白がって、大事なことを聞かないと教えない傾向がある。正直、絶対に良くないと、僕は思うのだけれども。
ただ、今はそれよりも少し気になることがあった。
懐かしそうにトゥファに対して目を細めるセンセンに、僕は勇気を出して質問する。
「センセン……さんの、龍は?」
「ちょ、リュウユウ、それは」
僕の質問に、リイチからの静止の声が入る。しかし、センセンは「リイチ、構わない、いずれ知ることだ」と自嘲気味に笑うと、空をゆっくり見上げた。僕もまたその視線を追うように見上げる。既にいつもは夢の中にいる時間なのだろう、今までに見たことない暗さである。
「……俺の龍はイーモウ。まるで、この空の黒さよりも艷やかな黒をした、美しい水墨画のような黒龍だった。もう会えないけどな」
センセンの表情はわからない。けれど、語尾に連れて、少しばかり辛そうな声に、僕はなんと声を掛けるべきか分からなかった。
広がるのは、まるで硯に溶かれた墨が満ちたような空。艶やかさを現す光は美しい。
これよりも美しい黒と言われた龍は、さぞや美しい龍だったのだろう。
「夜が明ける。俺の出番はここまでだ。リイチ締めてくれ」
「……うん、わかったよ」
センセンはもう話すことはないと言わんばかりに、元々入っていた箱へと戻っていった。リイチはその箱の蓋を、釘を素手で殴って、一つ一つ留めていく。
ふと東を見れば、日が昇り始め、薄っすらとした赤さが遠くに見えた。
「センセンさんと会ったこと、二班の人に伝えても?」
粗方涎を拭き取った僕は、箱に語りかける。
ギーッ
酷い引っ掻き音。どういう意味だろうかとリイチを方を向くと、リイチは僕に向かって顔を横に振る。どうやら、駄目らしい。
「わかりました、でも、僕が前の班長のことを聞くことは、許してください」
箱からは何も聞こえてこない。好きにしろということなのだろう。トゥファがのそのそとやってくる。龍を出せたということは、僕はこれから西へと向かうことになるだろう。太陽が登る方向から逆に進めばいいと、僕は水平線の向こうにいる赤に目をやった。
「あれ……?」
先程まで鮮やかだった赤が、少し暗くくすみ始めた。
「……リュウユウ殿、すぐに出発だ! 雨雲が! 雨神様が我慢の限界のようだ!」
マサナリ殿下が叫びに、もう一度よくその赤を見る。もくもくと灰色の煙のようなものが塊になって、暁を遮っている。
これは雨雲だ。太陽をくすませている正体は、今まだお呼びではないものだ。
「み、皆、トゥファに乗って! あ、マサナリ殿下とユウシは僕の胸元に!」
僕の言葉に皆慌て始める。僕は軍服の胸元を開けて、マサナリ殿下とユウシを掴み、その中に入れる。普通に飛んだら飛ばされる可能性があるからだ。僕はトゥファに乗り込む。その際、鞭をトゥファの角に絡め、うまく反動を使って背中に乗る。リイチはセンセンが入った箱を慣れたように軽々背負うと、自分の跳躍力で僕の後ろに乗り込んだ。僕にしっかり捕まるリイチを確認し、僕もまたトゥファにしっかり捕まる。
「トゥファ、雨雲に追いつかれないように! 逆方向に行け!!!!」
「キュイっ!!」
トゥファは威勢よく鳴くと、ドンッものすごい速さで砂漠の上を飛んでいく。その速さは、想像以上のものだ。
「マサナリ殿下! 雨雲はどこから!」
「扇鶴国の鶴島からだ!」
鶴島。昔、寺子屋で覚えた地図を思い出し、その位置関係を思い出す。龍髭国を挟んで扇鶴国の東西の線対称にある熱砂楼連邦。
このまま飛べば、辿り着けるはずだ。
ちらりと後ろを見る。雨雲は、その形をゆっくりと大きくしているのが見える。
「トゥファ! 全速力だ!」
「キュイキュイ!!」
楽しそうに鳴くトゥファは更に速度を上げていく。まるで風になったように、周りの光景は歪んで通り過ぎていく。
ただひたすら真っ直ぐに。
自分の腰に回されたリイチの腕が強く腹に食い込むが、そのあまりの速さに僕は楽しくなっていた。
(これ、楽しい!)
夜が少しずつ明けていく、墨から朱、黄、水が美しく溶けて混ざりあった世界を、僕は風を浴びながら進んでいった。
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