アフター・ハッピーハロウィン

LUCA

アフター・ハッピーハロウィン




 その時、二人の喉から漏れ出た声が重なり、そして小さく木霊した。


 「はぁぁ、しんど……」



 本当は渋谷も原宿も、最近の流行りもわからない。短い動画で奇妙奇天烈な踊りを撮影し、それをSNSに投稿するのも意味がわからない。


 早く帰って本の続きを読みたい。大好きな作家が紡ぐ世界に没頭したい。したいのに……。


 「綾乃! 今日の渋谷のハロウィン、何の仮装して行くか決めた?」


 「あ、ううん。まだ決めてないよ。香織は?」


 「まだ決まってないんだったらさ みんなでお揃いの仮装で行こうよ! 最近流行りの、あのセクシーなやつでさ! 愛美たちが人数分用意してるらしいから」


 「え、でもあれ、ちょっと寒くないかな?」


 「大丈夫大丈夫! 女子は露出してなんぼだし、今しか出せないんだから!」


 「う、うん。わかった! それで行こう」


 断る勇気なんて私にはなかった。万が一断ったらどうなるかなんて、容易に想像がつく。いや、想像なんてしたくなかった。


 「それにしてもさ、綾乃はいいよねぇ。ルックスもスタイルもいいんだからさ。今回の仮装も、絶対似合うんだろうなぁ。なんで彼氏作んないのか、永遠に謎だもん」


 私は幸運にも、容姿に恵まれた。男子からはチヤホヤされてきたし、女子からは憧れの的として崇められてきた。高校に入ってからは髪を染め、メイクを施し、できるだけ最新のブランドのアイテムを用いる。高校に入ってからも、私は可愛い自分を演出し続けている。


 いや、厳密にはのだ。


 これは本当の自分ではない。本当の自分はもっと地味で、波風立てずに生きていきたいタイプである。


 大好きな作家が紡いだ本の世界に没頭し、好きなアニメやアニメのキャラクターの「推し事」をし、これらについて趣味の合う人と語り合いたい。


 これらは決して隠すことではないし、恥ずかしいことをしているわけではない。もっと堂々と、「好き」を楽しめば良い。


 しかし、「仲間外れ」にされるのが怖かった。


 私は小さい頃から、周囲の人間が仲間外れにされ、しまいにはいじめを受ける姿を何人も見てきた。次は誰か? 次は自分か? 自分に順番が回ってくるのが怖かった。


 だから私は本当の自分を隠し、周囲の目を伺いながら生きてきた。そして、今回も。


 「じゃあ放課後、18時にいつもの場所に集合ね!」


 「うん、分かった。またね!」


 18時集合か。大好きなアニメが放送される23時までには、なんとか帰ることができそうだ。







 「先輩すみません! ここの数字間違って入力してました! 自分じゃ分からないので、訂正していただけますでしょうか?」


 「今日俺家族と用事があってさ。悪いんだけど、この業務引き継いでくれないか?」


 「中野くん、取引先との打ち合わせなんだが、お願いできるかね?」


 決まって定時間際になると頼まれごとが舞い込んでくる。これを、俺の中では「夕方の風物詩」と呼んでいる。


 世の中には二通りの人間がいる。頼まれごとをする人間と、される人間だ。もちろん、俺は後者である。


 公認会計士となり、そこそこ大きい監査法人に入所して15年が経った。大半の業務ならば責任者として携わることができ、最近では後継者の教育責任者も任されるようになった。


 このあたりの年齢になると、どの業界に属している人間でも概ね共通した問題にぶち当たる。「中間管理職問題」、すなわち「上からの理不尽な指示と下からの突き上げによる板挟み問題」である。


 これに加え、俺は従来から「断わりきれない性格」を心に宿している。これは俺が優しいからとか、とりわけ仕事ができるからなどではない。俺が断ることによって、どこかしらの波風が立つことが何よりも嫌なのだ。


 しかし、今日は俺にとって特別な日であった。結婚記念日である。今の妻とは結婚して今日でちょうど10年目。しかも、今の俺にはこの結婚記念日をどうしても祝わなければならない理由があった。したがって、今日は残業をしている場合ではない。


 「あ、あの。今日は……」


 「先輩、この書類早めに提出しないといけないんですよね? だったら、分からない自分より分かる先輩がやった方が早いですって!」


 「子供の習い事が長引きそうでさ。奥さんが迎えにいけないから、俺が迎えに行かないといけなくなっちゃって。というわけで、よろしくな」


 「私は今日、別の取引先の方の接待をしなくてはならなくてな。これからの打ち合わせの取引先の方も蔑ろにはできないから、ここは一つ、中野くんに任せたよ」


 みんなそれぞれ事情があるんだな。俺が断ったら後々波風が立ちそうだな。俺さえ我慢すればすべて丸く収まる。俺が……、俺が……。


 「わかりました」


 日付が変わるまでには帰宅してやる。





 「うへー、すごい人の数だねー!」


 「こんな時間からもうみんな仮装してるよ!」


 「私たちも負けずに仮装しなきゃ! ね? 綾乃!」


 「う、うん! かんばろ!」


 ハロウィン当日の渋谷は、いつもに増して人の波の動きがうねうねと主張していた。ここに混ざらなきゃいけないんだ……。考えただけで気が滅入る。


 「どこで着替える?」


 「うーん、どこも人が多そうだよね」


 「あ、私良い場所知ってるよ。付いてきて!」


 香織がそう言って歩き出すと、みんなもぞろぞろと付いていく。慌てて私もその後を追っていく。


 大型ショッピングモールの中に入る。一体どこで着替えようというのか?


 「ほらここ! 中は……、誰もいない!入ろ!」


 着いたのはショッピングモールの中にある多目的トイレだった。


 「去年のハロウィンの時見つけたんだ。ここ、ショッピングモールの中でも隅っこの方だから、意外と人が少ないから、今年ももしかしたらと思ったら……ビンゴ!」


 「香織やるぅー! さぁ、さっさと着替えて街へ繰り出しましょ!」


 「でもここ……」


 「ん? 綾乃なんか言った?」


 ここは他の人たちの迷惑になるんじゃないかな? そう言おうとしたが、ぐっと喉元へ押し込む。黙っておいた方がいい。黙っておいた方がいいのだ……。


 「ううん……。なんでもない」







 「今日も悪いな、残業させちゃって。じゃあ、おつかれー」


 今日も断りきれず、依頼されたことを全て終わらせるために残業する。オフィスに残ったのは俺を含めて2人だけとなった。


 順調にいけば、22時までには終わる。それから急いで帰宅し、23時までには帰ることができるだろう。集中しろ、集中しろ。絶対に終わる。絶対に終わらせられる。


 残業に備えて買っておいたブラックコーヒーを飲み干し、業務に取り掛かる。


 「えっ……嘘……」


 業務もラストスパートに差し掛かったあたりで、唐突に声が聞こえた。声のする方を振り向く。俺の他にもう一人オフィスに残っていた、2つ後輩の涼森の声だった。


 「どうした涼森? なんかあったのか?」


 「なぜかパソコンが固まっちゃいまして……。いろいろ試してはいるのですが、復旧しないんです」


 「データのバックアップは?」


 「それが、一気にやっちゃおうと思って、取ってませんでした……」


 「それは急ぎの業務なのか?」


 「明日の取引先との打ち合わせで用いる予定でした。でも大丈夫です! 今からやれば、明日までには間に合いますから!」


 「間に合うって……。どれくらいかかりそうなんだ?」


 「なんとか朝までには……」


 「おいおい、身体壊すぞ。仕方ない。俺ができる範囲は手伝うから、状況を教えてくれ」


 23時まではまだまだ余裕がある。トラブルは誰にだってあるのだ。こういう時、先輩として何ができるか。後輩の負担を減らさなければ。とにかく、できるところまで、できるところまで……。


 「間に合わないや……」


 「なに弱気なこと言ってんだよ。俺ができるところまでサポートするから、絶対終わらせられるから。頑張れ」


 「業務のことではないんです」


 「え?」


 「実は今日、娘とハロウィンパーティーをする約束があって……」


 「娘って……、たしか涼森って、シングルじゃなかったっけ?」


 「そうです。もう小学4年生なのでだいぶ一人でも過ごせるようにはなってきているので大丈夫だと思うんですが、今日は約束をしてしまっていたので……」


 「なんでそれを早く言わないんだ! 今から帰れば、まだ間に合うだろう。娘さんのために、早く帰ってあげるんだ!」


 「で、でも仕事が……」


 「仕事は替えがきくけど、娘さんの母親は絶対に替えきかないだろ? 母親の代わりなんていないんだよ。だから、涼森は早く帰ってあげて」


 「中野さん……。ありがとうございます、本当にありがとうございます!」


 そう言うと、カバンと椅子にかけていたジャケットを手に取り、足早にオフィスをあとにした。


 「母親の代わりはいない、か。父親の代わりもいないはずなんだけどな。またやっちまったなぁ……」


 俺はスマホを開き、連絡する。


 「ごめん。帰るの遅くなる」







 「綾乃かわいいーっ!」


 「スタイル良すぎっしょ!」


 「こりゃ男が放っておかないわ」


 みんなが口々に私に対して称賛を送る。街を少しだけ練り歩いたら、すぐに帰ろう。なにより、寒いし……。


 「一回みんなで写真撮ろ! 撮った写真はみんなのSNSのアカウントに載せてね。特に綾乃はフォロワー数が多くて影響力あるんだから、よろしく!」


 言われるがまま、私も含めて写真撮影が始まった。その写真はすぐに私のスマホにも送られてくる。私に決定権などはない。大人しく、私のSNSのアカウントにもその写真を投稿した。


 ドンドンドン。


 着替えと写真撮影が終わり、多目的トイレを出ようと荷物をまとめているところに、誰かが外からノックする音が聞こえた。


 「あー、はいはい。ちょっと待ってくださいねー」


 「なんだよ急かすなよウザいなー」


 ドンドンドン。


 よほど急いでいるのだろうか、さっきより音が大きくなっている。


 「なんだよ、もー!」


 一人がドアを開ける。ドアの前に立っていたのは、幼児を抱いた母親の姿だった。同時に鼻をつく臭いがこの場を支配する。


 「すいません、緊急事態なんです! オムツから漏れちゃって……。ここ使ってもいいですか?」


 「えー、まだ荷物まとめられてないけどなー」


 「まぁ、いいんじゃない? 早く街に繰り出したいし」


 何人かがその母親を睨みつけながら、私たちは多目的トイレを出ていく。私は心の中で「すみません」と呟いた。口に出せないのがもどかしく、悔しかった。


 「うひゃー! さっきよりも遥かに人が多いや!」


 「ほら、あれ見て! 凄いコスプレだね!」


 「きゃー! あの人イケメン!」


 早く帰りたい、寒い、人混み怖い……。練り歩く人の群れは、さながらゾンビ映画に出てくるゾンビたちの行進だった。路上で撮影会をしている者。お酒を飲みながら騒ぎ立てる者。おそらく関係のない人にまで絡んでいく者。いつから、ハロウィンはこんな無秩序でまとまりのないイベントになったのだろう。死者のためのお祭りで、自らが死者のように行進するお祭りになったのだろう。


 それからどれくらい街に練り歩いただろうか。若い女性のグループが仮装して歩いていれば、少なくとも男性たちの視線を浴びる。その顔がどれもニヤついていて、ただただ気色が悪かった。足が痛い。寒い。家に帰りたい……。


 「おっ、君たちかわいいね。それって、今流行りのコスプレじゃん」


 突然、複数の男性のグループに話かけられる。私のいちばん苦手なタイプの男性たちだ。


 「そうなんです! かわいいだなんて照れちゃうー!」


 「こんなにかわいかったら、放っておいても他の男たちから次々に狙われちゃうね。その前に、俺たちが予約しちゃおうかな」


 「えー、嬉しいですー! じゃあ、どこかに場所を移してお話しますかー?」


 「おっ、君なんて凄く似合っててかわいいね! 彼氏いるの?」


 「ちぇー、やっぱり綾乃モテモテじゃん! この子かわいいでしょー?」


 「そんなことないですよ……。他にかわいい人いっぱいいるし……」


 「謙遜しちゃうんだ! ますますそそられるよねぇ。 これから俺たちと楽しいことしようよ」


 ぐいぐいと腕を引っ張られる。怖い……苦しい……帰りたい……。頭がおかしくなりそう……。


 逃げたい……逃げたい……一刻も早くこの場から立ち去りたい……。家に帰りたい……お父さんとお母さんに心配かけたくない……。


 でも……でも……。この場から逃げたら、明日以降私の居場所はないかもしれない。仲間外れにされるかもしれない。嫌だ……嫌だ……嫌だ……。


 「ねぇほら、一緒に行こうよ」


 また別の男性が私のカバンを掴もうとする。 その手は、私のカバンに付けられていたクマのストラップを掴んだ。それは……、お母さんから貰った大切なストラップ……。


 ブチッ。


 男性が無理やり引っ張った勢いで、カバンからクマのキーホルダーが引きちぎれてしまった。


 「あ? なんだこりゃ? 取れちゃった」


 男性はそう言うと、笑いながら手に残ったクマのストラップを地面へと投げ捨てた。


 その時、私の中でずっと張り詰めていた糸のような何かが、プツンと切れる音がした。







 時刻は0時を回っていた。


 依頼されていた業務は概ね片付き、あとは涼森のデータの復旧を残すのみとなった。


 しかし、に関しては、守ることができなかった。


 妻との結婚記念日と、子供とのハロウィンパーティーだ。


 子供ができたことをきっかけに、俺と妻との間には少しずつ溝ができ始めていた。仕事が忙しくてなかなか育児に参加できない俺と、育児のために仕事を辞めざるを得なくなり、育児ばかりの日々となった妻との間にすれ違いが生じた。


 しかし、子供ももうすぐ5歳。いつまでも冷え切った夫婦の姿を見せるわけにはいかない。そこで、結婚して10年を迎える予定となる今年の初め頃から、お互い少しずつ歩み寄る努力をした。


 俺は仕事が休みの日は子供ともっと触れ合うようにし、平日も時間と体力が許す限り家事もするようにした。

 妻も、仕事で収入を得てきてくれる俺を尊重し、出来る限りのサポートをしてくれた。


 そして、結婚記念日当日。今年はそれに合わせてハロウィンパーティーもしようと計画してきた。妻も子供も嬉しそうな顔をしていたのを思い出す。


 しかし、それをぶち壊してしまった。


 今日も結局帰りが遅くなるという連絡を入れたが、既読になったままとうとう返信が来ることはなかった。


 俺が頼み事を断れなかったがために。俺がもっと効率よく仕事をしていれば。部下のマネジメントをしっかりとやっていれば。俺が……俺が……。


 もしも結婚記念日とハロウィンパーティーに無事参加できていたら、冷え切った夫婦仲が完全に修復され、また新しいスタートとして幸せな家庭を築き直すことができたのだろうか。


 実現していたら、まるで小説みたいだな。なんで俺は今オフィスにいるんだろ。なんで会計士なんかになったんだろ。


 他の人は羨んでくれる。エリートだねって言ってくれる。でも本当は会計士になろうと思ってなったわけではなかった。何度か落ちても最終的には試験に合格できたのは、きっと運が良かっただけなんだ。


 本当は……本当は小説家になりたかった。


 プロの小説家にはなれなくても、SNSなんかにちまちまと投稿し、誰か一人の心にでも残る文章や物語を書きたかった。だから今でも、会計士をしながらSNSに文章を書き続けている。


 今の俺は、夢だった小説家にもなれなかったどころか、家族との約束さえも守れなかった。

 皮肉なもんだな、こんな状況なのに。こんな状況なのに、今ならすごく良い文章が書けそうだ。


 「人のために生きている。それは本当の自分なのかな。外面だけが立派な偽の自分が、本音も言えない自分を覆い隠している。まるでハロウィンが終わった夜の汚れた静寂のよう。偽の自分の仮装を脱ぎ捨てる。散らかったゴミと一緒に片付けられたなら。どんなに楽かな。今日より明るい明日が待っているかな」





 気付けば、私は人の群れから脱出し、あまり人気のないところまで来ていた。


 逃げたい、逃げたい、逃げたい。その一心でここまで走りきった。もう息が続かない。日付が変わって11月の初め。薄着のコスプレでは十分に寒い。走って身体が暑いにもかかわらず、歯はガタガタと震えていた。


 この震えは寒さだけではなかった。怖かった。苦しかった。そして、悔しかった。クマのストラップを握りしめ、ごめんね、と呟いた。


 少し先に明かりが見える。コンビニのようだ。とりあえず、明かりのあるところのほうが安心できる。そこまでフラフラと歩いた。


 まだ仮装したままの姿である。コンビニの中にまで入るのは忍びなかった。ここで息と心が落ち着くまで休もう。


 明日からのことは、もう何も考えないようにした。ひとまず、両親に連絡する。しばらくしたら帰宅するからね、と。


 「綾乃はかわいいね」


 「なんで彼氏ができないか不思議」


 「将来は女優かモデルだね」


 みんな私のことをこう言ってくれる。嬉しくないわけではない。むしろ、私なんかをこうも良い風に言ってくれて有り難い気持ちだ。


 でも、みんなの前で見せている私は本当の私ではない。偽りの自分なのだ。


 本当の自分はもっと物静かで、小説やドラマでいうと、「休憩時間はいつも本を読んでいるような子」である。


 趣味だって、大好きなアニメやアイドルがいて、休日はネットの世界に入り浸るような、いわゆる「オタク」なのだ。私は「オタク」であることに誇りを持っている。

 しかし、昔と比べたら幾分マシになってきたとはいえ、世間はの目はまだまだ冷ややかなもの。ともすれば、イジメの対象になってしまう。悲しいことだが、これが現実である。


 イジメを受けてきた友達を何人も見てきた。その度に、私はしてあげられなかった。いや、正確にはできなかったのだ。イジメの矛先が次は自分に向くかもしれないから。


 私は必死に自分を隠してきた。偽ってきた。本当の自分に、よくできた偽の自分という皮を被り、周りに合わせる生き方をしてきた。


 だけど、もう疲れた。何もかも嫌になった。これがハロウィンだったら、それが終われば何もかも脱ぐことができるのに。


 気を紛らわすために、いつも見ているSNSを閲覧する。しかし、流れてくるのはハロウィン関連の内容ばかりだった。うんざりする。思い出したくもない。仮装して練り歩くことに、何の価値を見出だせようか。


 ハロウィン関連の情報ばかり目に入ると、気が紛れるどころか滅入ってしまいそうだったので、SNSを閉じようとする。


 その時、とある文章を目にする。普段なら流し見していた、フォローしている人物の文章。しかし、今の私にはなぜか、心の奥まで浸透していくのが分かる、力強い文章。なぜだろう。なぜ私は今、涙を流しているんだろう。


 すべてを読み終わり、しばらく余韻に浸ったあと、SNSをそっと閉じる。


 そして、自然と喉元から言葉が出た。意識したわけではない。ため息をつくように。息を吐くように。自然と。ただ自然と。


 「はぁぁ、しんど……」





 オフィスを出て、フラフラと歩く。仕事が終わった開放感はまるでない。ただ疲労感だけが鉛のように重くのしかかる。


 いまだ妻からは連絡が返ってきていない。きっともう寝ている。今から帰宅しても、子供を起こしてしまいかねないだろう。途方に暮れるとはこういうことをいうのか。


 「中野さんは優しいですね」


 「なんでもそつなくこなしてすごいですね」


 「会計士だったら食うのに一生困らないね」


 俺が今までに腐る程言われ続けてきた言葉。実際はそんなことないのに。


 優しいのは、波風立てたくないから。そつなくこなすのは、単なる器用貧乏だから。会計士は、たまたま勧められて運良く合格したから。


 言われて嬉しくないわけではない。ただ、これらは「本当の自分」を認められているわけではないと分かっている。だからこそ、本心では喜べないのだ。


 本当は優しくなんてない。自分のやりたいことをしたい。他人のためではなく、自分のために生きたい。


 本当はそつなく何でもこなせるわけではない。器用貧乏と羨ましがられることもあるが、なにか一つ大成するわけではない。


 そして、その器用貧乏も相まって、趣味の一つである「書くこと」に関しても、もう何年も大成していない。小説家になりたかった夢を諦めているわけではない。しかし、俺はもういい歳だし、養うべき家族もいる。いつまでも夢を追っている場合ではないのだ。


 家に帰宅するわけでもなく、かといってどこか目的があるわけでもない。ただフラフラと当てもなく歩いていると、その先にぼんやりと明かりが見えてきた。


 歩き疲れた。少し休もう。明かりの主であるコンビニに入る。中に入る際、ハロウィン終わりなのだろうか。入口近くで仮装をした女の子とすれ違った。結構露出が多い。寒くはないのだろうか。


 気を紛らわすためにホットの缶コーヒーを購入する。普段なら気になる店員の素っ気ない態度も、今日は何も感じなかった。


 コンビニを出て、缶コーヒーで一服する。買ったばかりで、温かいというよりは幾分熱さの方が勝っていたが、憂鬱を少しでも胃に流し込みたかった。熱いコーヒーをぐいっ、とあおる。コーヒーの苦さと共に、憂鬱も流れてくれれば良いのだが。


 スマホを取り出す。先程SNSに投稿した文章に対する反応を確認する。

 すると、いつもはコメント一つすら付かないところ、一件のコメントが届いていた。


 昨日までの俺だったら、それが賛でも否でもどちらでも、それを何度も何度も読み返すくらい喜んでいただろう。コメントが付いただけで嬉しいものだからだ。


 しかし、今は違った。どうせ俺が書いた文章になんて誰も読んでくれない、反応してくれない。むしろそれが普通だと思っている。

 そして、もう夢を追うのはやめようと思い始めていた。それはついさっきから、である。


 それなのに。それなのに、こんなに嬉しいコメントが来ると、また頑張りたくなるではないか。また誰かに文章を届けたくなるではないか……。


 嬉しいはずなのに、嬉しくない。天邪鬼のような心情を、いかに形容しようか。こんなことになるならば、いっそのこと誰もコメントしてくれなきゃいいのに。そうしたら、辞める決心がついたのに。


 どうすれば良いか分からない。そんな複雑な心情の元、自分でも意図してない言葉が喉元から溢れ出た。


 「はぁぁ、しんど……」







その時、二人の喉から漏れ出た声が重なり、そして小さく木霊した。


 「はぁぁ、しんど……」


 声の主である二人が、もう片方の声の主と思しき人物の方を同時に振り返る。


 「え?」


 「え?」


 「あ、え? なにか言いました?」


 「え? いや、たぶんだけど、同じようなこと言ったのかな? 声重なってたし」


 しばし沈黙が流れる。二人して二の句が継げないまま、顔を見合わせていた。


 「ふふっ、なにそれ!」


 「ふっ、何が可笑しいんだよ!」


 「あなたも何かしんどいことがあったんですか? 顔もスーツもよれよれですよ?」


 「君こそ、こんな時間にこんな格好でなにしてんの? というか、寒くないのかい?」


 「めちゃくちゃ寒い。上着とか持ってないんですか?」


 「今着てるやつしかないけど、これで良かったら貸すよ。おじさん臭いのは我慢しろよ」


 中野は着ていた上着を綾乃へ渡す。さすがに風邪をひかれたら困るという心理であって、決して良い格好をしようとしていたわけではなかった。


 「ありがとう、おじさん。で、今日はなにか嫌なことでもあったの?」


 「うーんまぁ、それなりにな。大人には色々あるんだよ。君も、そんな格好でどうしたんだい? 察するに、ハロウィン帰りだと思うけど、早く家に帰った方がいいんじゃないのか?」


 「女子高生にも色々あるの。なんだか、疲れちゃって」


 「そうなのか。今の若い子も大変なんだな。家は近いのか?」


 「ううん。電車で帰らないといけないんだけど、もう終電もないし、タクシーで帰ろうと思ってる」


 「ここらへんでタクシーっていったら、駅前くらいか。でも、もう遅い時間だから停まってるか分からないけど」


 「その時は……どうにかして帰るよ」


 「夜道を一人で、しかもそんな格好で歩くのは危ないだろ。俺がタクシーの配車アプリで呼んでやるよ。ここのコンビニでいいか?」


 「いや、それは悪いからいいよ。ただでさえジャケット借りてるのに、今知り合った人に、そこまでさせられない」


 「補導でもされたら困るだろ? 別に気にしなくていいよ。なんか偶然に優しいおじさんに遭遇したと思えば」


 「おじさん、優しすぎ。なにか裏があるでしょ? 言っとくけど、抱くには早すぎるよ」


 「そんなんじゃないよ! 捕まっちまうだろうが! あと、別に俺は優しくなんかない。本当の俺は、全然良い人なんかじゃないんだよ」


 「ふふっ、なにそれ。じゃあ今は「偽物の自分」を演じてる、ってこと?」


 綾乃からそう指摘された中野は、なにか鋭い刃物のような物でひと突きされたような、そんな感覚に陥った。

 「偽物の自分」を演じている。たしかに、本当の自分は優しくなんてない。しかし、今目の前にいる女性に親切にしているのは、決して「優しさ」から出てきているものではなかった。では、この親切心の正体は何なのか。今の中野には答えが出せなかった。


 「演じてる……かもしれないな。実は今日、いや、これまでもそれで苦労してきたんだ。本当、嫌な性格だよまったく」


 「ふーん。よく分からないけど、たぶん今の私もそうなんだ。本当の自分はそんなんじゃないのに、みんなから偽りの自分を褒められる。そんなの、嬉しくも気持ちよくもなんともない。だからね、もう自分に正直に生きようと思ったんだ」


 綾乃は先程SNSで見た文章を、頭の中で反芻していた。外面だけ立派な偽の自分が、本音も言えない自分を覆い隠している。まさに、今の自分ではないか?


 他人の顔色をうかがい、その場その場を取り繕うことにより、結果として自分の身を守る。それの何が楽しいのだろうか。


 今しがた、ハロウィンで賑わう渋谷の街を練り歩いてきた。みんな仮装をしていた。そして、私も。結局、仮装して練り歩くことに対して、少なくとも私は何の価値も見出すことができなかった。


 今私はそれと同じ状態にあるのではないだろうか。本当の自分を、偽の自分という仮装で覆い隠す。私はこれまで、この偽の自分という仮装をした状態で生きてきたのだ。偽の自分で生きてきたこれまでの人生に、何の価値を見出だせようか。


 「そうか。おじさんだから、今の若い人の気持ちなんて分かりっこないが、たぶんその方がいいと思うぞ。君はまだまだ若いんだし」


 「だからさ、おじさんも自分に正直に生きれば? 人生いつからでもやり直せるもんだよ。って先生が言ってた」


 「はっはっは! 先生の話とはいえ、女子高生にそんな大切なことを言われるとは! でも、ありがとう。ちょっと気持ちが楽になった気がする」


 中野は思わず大きな声で笑った。心の底から自然と笑ったのは久し振りだった。


 「えへへっ! なら良かった! あーあ。おじさんと話してたら何だか落ち込んでたのが馬鹿らしくなってきちゃった。また明日から頑張ろ。日付変わっちゃったけどね」


 綾乃も釣られて笑う。こんな深夜に、コンビニの前で、コスプレをした女子高生とスーツを着たおじさんが笑い合っている。奇妙な光景だな、と綾乃は思ったが、それ以上は考えないようにした。


 「無理しすぎないようにな。あ、タクシーが来たぞ。お金はあるのか?」


 「うん、大丈夫。何から何までありがとうございました。ジャケットお返ししますね」


 中野は綾乃から、ほんのり良い香りのするジャケットを受け取った。

 コンビニの駐車場に停まったタクシーに近づき、綾乃はそれに乗り込もうとした。


 「あ、最後にひとつだけ。私にはお気に入りの物書きさんがいるんだけど、その人が今日、すごく素敵な文章を投稿してたんだ。「偽りの自分を脱ぎ捨てて、ハロウィンが終わったあとのゴミと一緒に片付けられたら、どんなに楽かな」って。私にも、今日より明るい明日が待っていてくれるかな。……って、ごめんなさい。急にこんな話しちゃって。だけど、今日の私には心の奥底まで染みてきてさ。じゃあ、元気でね! おじさん!」


 「あ、あぁ……。気をつけてな……」


 今の中野には、徐々に小さくなっていくタクシーを、ただぼんやりと見つめることしかできなかった。心臓の鼓動が早くなっているのが分かる。


 さっき言ってた文章、俺のではないか?


 抜けかけていた魂を無理やり身体に戻し、正気の戻った指先でスマホを操作する。


 先程投稿した文章に届いていたコメントの主を確認する。身体が震える。中野はその身体の震えを止めることができなかった。そして、目から溢れてくるものも。


 コメントの主は「Ayano」というアカウント名であった。中野はその人物の投稿を確認してみる。すると、昨日の日付で、複数人の仮装を施した女の子たちの写真が投稿されていた。


 その中のひとりは、ついさっきまで話していた女の子であった。


 「……もう少し……もう少し頑張ってみるか……」


 中野は自宅にある方へと走り出す。まずは家族に謝罪から。寝ている場合は、朝イチで。帰宅することに対しは、もう少しの憂鬱も残ってはいなかった。早く帰ろう。家族の元に。


 これからは、家族と自分のために生きよう。そして可能ならば、今後も誰かの心に残る文章を届ける活動をしよう。有名になんてなれなくていい。誰か、誰か一人でも。一人でも多くの人へ。




※ 




 @あかなし


 「人のために生きている。それは本当の自分なのかな。外面だけが立派な偽の自分が、本音も言えない自分を覆い隠している。まるでハロウィンが終わった夜の汚れた静寂のよう。偽の自分の仮装を脱ぎ捨てる。散らかったゴミと一緒に片付けられたなら。どんなに楽かな。今日より明るい明日が待っているかな」


 @Ayano


 今まさに、私がこんな感じです。本当の自分を偽りの自分で隠しているような……。こんな仮装なんてすぐに脱ぎ捨ててしまいたいのに、ゴミと一緒に片付けてしまいたいのに。でも、これを見て決心しました。私はもっと自分のために生きていこうと思います。素敵な文章をありがとうございます。

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アフター・ハッピーハロウィン LUCA @lucashosetsu1

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