松も時なり、鐘も時なり

増田朋美

松も時なり、鐘も時なり

季節感がおかしくなりそうな暑い日だった。それでは、全くなんでこんなに暑いのかよくわからないほどの暑さでもあった。なんか知らないけど、だんだん暑さが厳しくなって居るのかなと思う。そんなわけだから、おかしなことが起きてしまうのかもしれない。政治やスポーツ界で、様々な不祥事が相次いで居るが、とんでもない依頼というのは、杉ちゃんたちのところにもやってくるというわけで。

「えーとねえ。まずはじめに、この着物は、訪問着にはならないということを理解してもらわないといけないねえ。」

杉ちゃんは腕組みをしていった。

「ならないんですか?だって、振袖の袖を切れば訪問着としてまた使えるって雑誌のどこかに?」

依頼した女性は、着物というものを全く知らないと思われる女性だった。

「そうなんだけど、この振袖は、全体に柄が配置されている、絵羽柄と言うものでは無いんだ。ほら、この着物は、松の柄を何度も繰り返して入れている小紋柄だ。そういうわけで、このお着物は袖を切ったとしても、訪問着ではなくて小紋になる。」

杉ちゃんは、急いでそういう事を言った。

「こもんってなんですか?」

と女性は、急いで聞いた。

「だから、同じ柄を何度も繰り返して入れてある着物のことだ。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうなると、訪問着とは同じような着方はできなくなる。訪問着は、改まった外出に着用するもんだが、小紋は、気軽な外出に着用するものだ。訪問着は、クラシックのコンサートとか、年上の方とお食事に行くときに着用するもんだけど、小紋は友達同士の集まりとか、そういうときに着用する着物だよ。だから、全然違うの。合わせる帯も、訪問着は袋帯を合わせるが、小紋は、名古屋帯とか、昼夜帯を使うんだよ。」

「じゃあ、小紋と、訪問着で、同じ帯で通すことはできないのですか?」

と女性が聞いた。

「できないわけじゃないけどね。本綴れというブランドの袋名古屋帯を使えば、どんな着物でもあわせられるという伝説があるけどねえ。でも、それはあくまでも伝説で、本当に本綴れの帯を締めて、礼装とカジュアルウェアとで、同じ帯で通す事ができたという事を聞いたことは無いぞ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「それでは、その本綴れというものを入手すれば、小紋でも、訪問着でも使えるんですよね。それなら、訪問着に直してください。」

と女性は強引に言った。

「むりだよ。訪問着と小紋は、ぜんぜん違う着物だから、同じ帯をそのままということは、まずできないよ。それに、本綴れというのはね、リサイクルで入手するのは相当難しいよ。一本の帯を作るのに、10年近くかかるそうだ。一日数センチしか織れないというくらいだからね。そのくらい、本綴れは手間のかかる織物だから。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女は、申し訳無さそうに言った。

「ごめんなさい。着物は何でも、リサイクルで安く買えると思っていたので、そんな簡単に入手できるとは知りませんでした。」

「まあ、そういうことだな。着物なんていらないモノの代表選手みたいになっているから、すごい安い値段で入手できるけど、でも本当は、ものすごい手がかかるものだってことを忘れないでね。この着物も、訪問着にはならないので、訪問着がほしければ、別の訪問着を入手すればいい。」

と、杉ちゃんは彼女に言った。

「そうですか。わかりました。そういう事なんですね、何でも振袖であれば、袖を切って、訪問着というものに変えられるのかなと思っていたんですけど、それは違うんですね。」

「はい。違いますよ。だからむやみに、振袖を改造してどうのこうのとか、そういう事はできないこともあるってことも、覚えておいてね。まあ、お前さんも、これで着物の事は、1つわかっただろ?それで全く何も知らないということから脱したじゃないか。それで良かったということで、まあそれで覚えておけ。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「ありがとうございます。流石に、こんな派手な着物を、気軽な友人との集まりに来て行くことはできませんよね。小紋というのがそういう着物であれば、いくらなんでもこれは使えないですよね。こんなの、派手すぎますものね。でも今日和裁屋さんにあえてよかったですよ。着物の勉強になりました。」

「はい。着物を覚えてくださいね。日本人であれば、着物は大事なものだ。着物は大事な民族衣装だぞ。それについてなにも知らないなんて恥ずかしいったらありゃしない。着物の種類とかちゃんと理解してね。」

杉ちゃんがにこやかに笑った。

「本当に今日はありがとうございました。振袖が、大事なものだってちゃんとわかりました。私、もう少し着物について、勉強してみます。今日は本当に教えてくださって嬉しかったです。ありがとうございました。」

女性は、とてもうれしそうだった。杉ちゃんも、それを理解してもらえて良かったと言った。

「じゃあ、私これで帰ります。この振袖は、改造はしないで、大事な思い出として取っておきます。ありがとうございました。」

と、女性は、目の前に出されている振袖を持った。

「ああ、ついでにたたみ方も学ぼうな。こういうふうにきれいにたたむんだぞ。こういうふうにな。」

杉ちゃんはテーブルの上に乗っている振袖を丁寧に畳んだ。そして、置いてあった畳紙を広げて、それに包んだ。

「はいこれでよし、着物のたたみ方は意外に簡単だから、それも覚えてね。」

「はい、わかりました。着物の知識が少し増えて、嬉しいです。」

女性は、にこやかに言った。

「そうそう、着物の知識くらい、ちゃんと持っておこうな。」

杉ちゃんは、急いで着物を彼女に渡した。

「本当にありがとうございました。着物は大事なものですものね。大事にします。」

彼女は杉ちゃんに頭を下げて、杉ちゃんの家を出ていった。彼女を見送ってから、数分後。

「杉ちゃん、もう10時はとっくに過ぎたけど、どうして来ないんだ?いつもなら、インターフォンを、五回鳴らして来るはずじゃないか?」

と言いながら、伊能蘭がやってきた。

「ああ、そうなのね。ちょうど、着物の袖を切ってくれという依頼があって、応答していたらこんな時間になっちまったよ。」

と、杉ちゃんは言って、すぐに買い物に行く支度を始めた。

「で、買い物には行くのかい?」

蘭が聞くと、

「ああ。行くに決まってるじゃないか。どうせ、なにか作んなきゃいけないし。人間ご飯食べなくちゃ、生きていかれないだろう?」

杉ちゃんは即答した。

「わかったよ。じゃあすぐタクシーを呼ぶから待っていて。」

蘭が急いでタクシーを呼んだ。二人は、やってきたタクシーに乗り込んで、ショッピングモールに向かった。タクシーの運転手は、着物で来ているお客さんはなかなかいないので、何だか面白いです。と、にこやかに笑っていた。

「お客さんたちは、なんでそう日常的に着物を着ていらっしゃるんですかね?車椅子で着物きている方なんて、そうはいませんよね。なにか理由でもあるんですか?なにか、習い事でもしているんですか?」

運転手がそう言うと、杉ちゃんたちは、

「別になにか理由があるわけじゃない。着物着ていたっていいじゃないか。洋服がすべてだって言うことは、まず無いはずだぜ。きもの着てるからって特別扱いするほうがおかしいんだ。」

「僕達は単にきやすいから着ているだけですよ。」

と、答えたのであった。

「そういえば、以前、着物を着ていた方を乗せたことがあったんですけどね。」

運転手は、そんな話を始めた。

「やっぱり男性の方で、どっかの俳優さんかと思われるほどきれいな人でした。どこか芸能事務所にでも入ってらっしゃるのかな。なんか、すごく豪華な着物を着ていらっしゃって。ただ、なんか疲れたような感じで、紙みたいに真っ白い顔されてましたけどねえ。ああいう方なら、着物着ててもわかるんですけどね。多分、着物を着ているような、身分の方でしょうからね。もしかしたら、仲間だったとか?」

「あの、その人物は一人でタクシーに乗っていたんですか?」

蘭が聞くと、

「いえ。違いますよ。もうひとり、着物を着ていた方と一緒でした。その方は、堂々としていて、すごくきちんとした感じの人でしたよ。その方が、運賃を払ってくださいました。」

と、運転手はしっかり答えた。

「そうですか。一体何をしに行ったのか、運転手さんご存知ありませんか?」

蘭が改めてそう聞くと、

「いえ、それはわかりません。乗せたのは、富士市の中央図書館の前でしたけどね?」

と、運転手は答えた。

「中央図書館?一体何しに行ったんだろう?」

蘭は急いで言った。

「まあ、なにか用があったんじゃ?」

杉ちゃんは答えると、

「どんな?」

と蘭は聞く。

「だから、なにか用があったんでしょ。借りたい本でもあったんじゃないの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いや、あの波布のことだから、ただで本を借りることができる施設へ行くことは無いと思うけど、、、。」

蘭は、すぐに答えた。

「それに、水穂まで同行させて何をするつもりなんだ?」

蘭が一生懸命考えていると、運転手が、

「お客さん、着きましたよ!」

と、タクシーを、ショッピングモールの前で止めた。二人は、運転手に手伝ってもらってタクシーを降りた。蘭は、水穂さんのことばかり考えていて、帰りも乗せてくれるかと頼んだのは杉ちゃんだった。二人は、とりあえず車椅子を自分で漕ぎながら、店に入った。いつもどおりに、食料を買って、お金を支払って、カバンの中に大量の食料を入れた。そして、また同じ会社のタクシーを呼び出して家に帰った。杉ちゃんは、また運転手と喋っていたが、蘭は何も喋らないで、水穂さんの事を考えていた。

「おう蘭。いつまでもそれを考えていちゃだめだぞ。」

と、杉ちゃんは言った。

「どうしようもないことだってあるんだぜ。ジョチさんに助けてもらわないと、水穂さんだってできないこともあるさ。多分、なにかできないことがあって、それで手伝ってもらったんじゃないのか。お前さんだってできないこともあるだろう?」

「そうだけど。なんで僕ではなくて、あの筋の悪いやつに頼んだんだろう。何も意味もないと思うけどな。」

蘭は、自宅に入って、すぐにテーブルの前に車椅子を動かして、そう考え始めた。

「それは、しょうがないことだろ。誰でもできないことはあるよ。例えば、着物を直してほしいやつは、着物屋に行くのと同じだよ。」

杉ちゃんは、買ってきたパンを食べながらそういった。

「そうかも知れないが、なんであの男に頼んだんだろうか。」

蘭はそればかり考えているようだ。いつまで経ってもそこから立ち直れない蘭に、杉ちゃんが、

「じゃあ蘭が自分で確かめてみれば?」

と言った。そうだねえと言って蘭は、入道樋門公園入口のバス停に行った。そして、富士山エコトピア行のバスに乗って、水穂さんの事いる製鉄所に向かった。製鉄所の最寄りのバス停は、終点の富士山エコトピアである。そこで運転手に手伝ってもらってバスを降り、急いで製鉄所の玄関に車椅子を走らせていった。

しかし、エコトピアから、製鉄所までの道は、健康な人ならなんてこと無いのだが、車椅子の人間にはちょっと行きづらい場所でもあった。少しばかり道が狭くて、道路は凸凹していた。蘭は苦労しながら、車椅子を動かして、なんとか製鉄所の玄関前にたどり着く。

「どうしたんですか。こんなところに。蘭さんがこちらに来るなんて、よほどのことが無い限り来ないでしょうね。」

と、声をかけられて、蘭はハッとする。

「貴様、水穂と一緒に、図書館にでかけたそうだが、いちいち何をしに行った?」

蘭は、声をかけたジョチさんこと曾我正輝さんに言われて、すぐに言った。

「ええ。あのときは、水穂さんと一緒に、長襦袢を買いに行きましたけどね。インターネットで買うのが好きな人ではないので、水穂さんと一緒に、呉服屋に買いに行ったんです。それが何だと言うんですか?」

ジョチさんはそういうのであるが、蘭はどうしてもこの人の話し方が、なんだか嫌だというか、言い方がきついというかそういう気がしてしまうのだった。だから、ジョチさんは嫌な気持ちではないとしても蘭はすごく嫌になってしまうのだった。

「それだけの話ですよ。もう気にしないでください。蘭さん一々一々そんな事気にしていたら、身が持ちませんよ。僕が水穂さんに何をしたと言うんですか?」

ジョチさんは、蘭を困った顔で見た。

「たったそれだけの話しか。でもお前のことだから、なにかしでかしたんじゃないだろうな?」

蘭は急いでそう聞いてしまう。

「だから、気にしないでくださいよ。蘭さんは気にし過ぎなんですよ。みんな、日常生活ちゃんとやってるだけですよ、ただ、水穂さんの事は、楽にさせて上げるように、そうしてあげているだけです。蘭さんだって、できないことはあるでしょう。誰かにやってもらうことはあるでしょう。それと同じことです。」

ジョチさんは呆れた顔をして蘭にそういうことを言った。

「蘭さんがそうして水穂さんのことを気にしすぎている間に、時間はどんどん経ってしまいます。それよりも、もっと他の事をするべきだと思うんですけどね。なにか無いんですか?人の事をそんなに気にしすぎている蘭さんは、よほど暇人なのでしょうな。それよりも、蘭さん、もっと生活が充実するといいですな。」

ジョチさんは、蘭に言った。蘭はとても悔しそうなかおをして彼を見たが、ジョチさんは相変わらず涼しい顔をしている。

「理事長さんまた来てください。水穂さんがまたやりましたよ。畳の張替え代、どうしますかね。」

「ああわかりました。すぐ行きますから、待っててくださいませ。」

利用者の一人がそう言いに来た。ジョチさんは、すぐ行きますと言って、製鉄所に戻ってしまった。蘭は、一人取り残されたような気持ちがして、困ってしまった。それは悔しかった。足が悪いということは、水穂さんがなにかあったとしても飛んでいくことができないのだ。蘭は、誰もいなくなった製鉄所の玄関先で、大きなため息を着いて、そこで呆然としているしかできなかったのだった。

一方の杉ちゃんの方は、また着物のことで相談を受けていた。何だと思ったら、今度は、女性ではなく男性であった。

「それで、お前さんが、和裁屋に何のようだ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。そうですね。女性ものの着物を、男性ものに仕立て直すことはできますでしょうか?」

男性は、着物を一枚見せた。確かに白黒の市松格子の着物である。このような柄であれば、男性でも着物として着ることができるかもしれない。杉ちゃんは、急いで、着物を取って、

「ああ、そうだねえ。まあ、お前さんのサイズであれば、多分仕立直しできると思うよ。着物は、男でも女でも仕立て方があまり変わらないのでね。」

と言った。

「ありがとうございます。着物を着て見たいと思っていたのですが、間違って女性モノの着物を買ってしまったので、どうしようか悩んでおりました。そのときに和裁屋さんがいてくれて良かったです。」

と、彼は言った。

「はあなるほどねえ。それでどうして、着物を着てみたいと思ったの?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい。着物を着るのは、茶道を習い始めたからなんですが、茶道って奥が深いですね。なんでも、いろんなことが学べて嬉しいです。」

もう一度彼は言った。

「でも、和裁屋さんが正直歩けない方だったなんてびっくりしました。僕は、」

「はあ、言わなくていい。歩けないやつに和裁なんかできないとでも思っていたんだろ?歩けないやつは、手で何でもするんだよ。だから、歩けなくても和裁はできるんだ。」

と、杉ちゃんはそれを遮って、彼に言った。

「そうなんですね。着物の事はまだまだわからないことだらけですが、少しづつ覚えていきたいと思います。それでは、仕立直し、やってくださいますか?いくらになりますでしょうか?」

「まあ、ほんの少し仕立てを変えるだけだから、2万くらいでいいや。」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。わかりました。」

と男性は二万円を杉ちゃんに渡した。

「それでは、よろしくおねがいします。」

「ハイよ。」

にこやかに笑って杉ちゃんは、それを受け取った。ではお願いしますと言って帰っていく男性を見送って、杉ちゃんは一生懸命着物を縫い始めた。着物を縫うのは、杉ちゃんにはなれすぎているくらいなれている作業だが、その当たり前の事を心を込めて、実行していくことだと思った。

一方、製鉄所から、自宅に戻りながら、蘭はバスの中で、水穂さんの事を考えていた。どうして自分は自分のことしかできないんだろうなと思う。ジョチさんのように、なんでもできる人が羨ましかった。なんでジョチさんのような人が、水穂産を庇護することができてしまうのだろうか。確かに、ジョチさんは自分と違って、国会議員を味方につけることもできるし、他の大物を味方にすることもできる人だ。じぶんだってそれができるようになればいいのだが、歩けない自分には、できないことだ。蘭は、当たり前の事を当たり前にやることが、大事なことだというのは、なんでこんなに悲しいこともあるのだと思って、大きなため息を1つ着いた。

みんな、なにかしたいとか、そういう思いを持っているのだろう。でも、それができないで、思い続けるしかできない人も居るし、それを無視して自分のすることを一生懸命続けている人もいる。そして、できる人に頼るしかできないということも、いやそのほうが多い。蘭は、どうしてそうなってしまうのかわからないけれど、とにかくなんでも自分のすることをしなければならないと思ったのだった。

松も時なり、鐘も時なり。

どこかで、お寺の鐘がなった。五時を告げるかねだろう。人間がいろんな思いを交錯させながら生きている間、ときというものは、静かに流れていくのだった。それは平等かもしれないが、人間にとっては、そうは思えないのが、日常と言うものだった。




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松も時なり、鐘も時なり 増田朋美 @masubuchi4996

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