第5話・恋人でもしていいことと悪いことがある!

 メメント・モリ、という言葉がある。ラテン語で「自分の死を忘れるな」という意味の警句だ。

 私は思う。そんなん、言われんでも忘れられんわ。

男の人とすれ違うとき、あの二の腕でラリアットされたら死ぬな。とか。

ふくよかな人とすれ違うとき、あの体躯から繰り出されるツッパリ食らったら一撃で死ぬ。とか。

 眼の前の人が突然ヒステリックを起こして刃物を振り回して殺されるかもしれない、とか。

誰かを見たら自分の死を連想してしまう。道ゆく人でも、同級生でも、先生でも。人間は怖い。

死に方を想起しなくて済むのは……ほんの少しの知り合い。母、夜鶴のお母さん、引きこもり女白澄、そして――

「なん、で? 仕事は?」

 ――今、目の前にいる、夜鶴。この世界で最も信頼していると言っても過言ではなかったのに、どうして私の心拍数は、メメント・モリと叫んでいるのだろう。

「だって、みゃーちゃんが嘘くんだもん、私も嘘吐いちゃった。体調悪いから、今日休みますって、マネージャーさんに」

「嘘? 私が?」

「白澄さんの家に行くって、言ってくれなかった」

 細くなった夜鶴の双眸から、粘着質な視線が漏れて全身に絡みついて、先の会話を思い出す。

『今日はこのあと、お店でバイト……だよね?』

『そうそう』

 ……。

 確かに私は、バイトの前にここへ来ることを言わなかった。でもそれを嘘と捉えるか普通!?

「でもね、それはいいの。そんなことより――」

 夜鶴が一歩、私に近づいて、思わず一歩、後退あとずさる。も、両肩をガッチリと鷲掴みにされ、それ以上の身動きは取れなくなった。

「――白澄さんの部屋って、扇風機が回ってた?」

「は?」

 だいぶ、話が飛んだ。その会話にどんな意味があるかはわからない。それでも、答えないわけにはいかない。黙秘をする気も、させてもらえる気もしない。

「扇風機……」

 部屋には、あった。直接風を浴びるよりも、空気の循環を目的に配置しているっぽいサーキュレーターが確かにあった。だけど……

「回ってなかった」

 四月の終わり、ようやく寒さが抜けてきて過ごしやすい気候になってきた。寒くもなく暑くもなく、適温。職務がないことに不貞腐れて部屋の隅で静かにしていたはずだ。

「そう、エアコンは?」

 もちろん設置はされていたが、駆動音はなかった。間違いなく暖房はついていなかったし、冷房が必要になるのはもっと先だ。

「ついてなかったよ」

「じゃあ変だね、この髪の毛、どうしてこんなところに付いてるのかな?」

 耳元でそう呟いたと思えば、ゆっくり離れた夜鶴は、指先で一本の長い髪の毛を摘んでいた。

「部屋の空気がそんなに動いてないならさ、こんな風にもたれかからないと、こんな風に誰かさんの髪の毛、付かないんじゃないかな」

「……それは……」

 これは今……どういう状況なんだ? 夜鶴が何かを追及していることはわかる、だけど終着点はどこだ?

「否定、しないんだ。じゃあ、浮気だね、みゃーちゃん」

 夜鶴は手の甲で、私の頬を撫でた。春には似つかわしくない、冷たい温度。

「そうだね。もし白澄に寄りかかられたことを浮気とするなら、そうなる」

「っ……」

「で、どうする? そんな浮気女とはさっさと別れた方がいいんじゃない?」

 一瞬怯んだ夜鶴の瞳は、すぐさま圧を取り戻した。口を噤んだまま深呼吸をすると、ハリボテの笑顔を浮かべる。

「そうはならないよ、みゃーちゃん。たとえ浮気したとしても、みゃーちゃんは何も悪くないもん」

「そう、じゃあ私は帰るから。夜鶴も間に合うようなら事務所行きなよ」

 これ以上ここで話をしていても、なんだかこじれていくだけだと感じ、その場を去ろうとするも。

「待って」

 右手首を掴まれ、阻まれ――

「んんっ!?」

 ――引き寄せられ、唇を。奪われた。

「なっ、おまっ、なっ、なん、なにして……」

「こ、恋人だもん、挨拶みたいなもの、だよ、ね」

 今までの威圧感はどこへやら、耳まで顔を真赤に染めて、もじもじしながら夜鶴は答える。

「恋人でもしていいことと悪いことがある!」

 強引に手を振りほどくと、呆気なく私を解放した夜鶴。早足で帰路につく私の背中に、声を張り上げて問いかけた。

「別れたくなった!?」

「なってない!」

「みゃーちゃん!」

「なに!」

「大好き!」

「…………」

 何も答えられないまま、ひたすらに歩を進めた。

 わからない。夜鶴がわからない。

 本当に私のことが好きなら、私が望むように行動してくれればいいじゃないか。

 どうして私を困らせるようなことばかりするんだ……。

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ぺしみす。~キミがフるまで愛でるのをやめない~ 燈外町 猶 @Toutoma

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