第5話 ナーディヤ

 潮におしひしがれて、わたしは水のなかに沈まされる。塩で痛み、目をつむる。でも、あらがいたいとは思わない。ただ力を抜き、息をひそめる。一瞬、からだが縦横に翻弄される。それを、流星のようなすばやい腕が抱き留める。固く抱き締められて、わたしはただ身を任せる。そのひとはわたしを抱いたまままっすぐに泳ぎ、砂浜にわたしを届ける。

 赤い貝殻が散らばる浜で、わたしは目を開ける。

 だいじょうぶ?

 荒く息をつき、砂に手をついてオランがわたしに訊く。

 ……ええ。ありがとう、オラン。わたしをたすけてくれたのね。

 少女は顔をくしゃりとゆがませ、大きな目がきらきら光る。

 よかった。

 オランはおおきく呼吸しながら、笑み崩れた。

 ほんとうにきょう初めて海に入ったの? すごく落ち着いていた。

 ええ、でも、どう動けばいいかわかったわ。

 ……そうみたいね。

 はは、と笑いながらせき込む。

 ごめんなさい、だいじょうぶ?

 わたしが心配して訊くと、彼女は両手を砂に投げだし、口を仰向けてけらけら笑った。白い真珠のような歯。太陽を受けて光る肩。

 彼女が操る舟に乗り、隣町を目指す。彼女はわたしよりすこし年上の弟を呼び、操船の助手にする。カヌーは必ずふたり以上で操るのだ。ハウラはほっとしたようすでそれを見送る。碧の海は穏やかで、けれど目的地の方角には斜めに風が吹き、オランは帆の角度を綱や腕木で操って、自分の体重をかけて方角を調整し、すうっと舟を進ませる。弟は舵となる櫂をこともなげに支え持つ。かれはハウラに、わたしと口をきいてはいけないと固く言いつけられている。幼いころはなにが起きているか理解できなかったけれど、もうかれらがなにをしているか理解できている。緻密に織ったラフィアの帆がぱんと張り、からだに感じるぶんには弱い風を、わたしたちと舟を動かす力に変える。

 かれらが操るのは三角の帆。このクムル島でももっと南だと四角帆だというが、三角の帆は、父さまがよく出かけているサワーヒルの港市や、父さまが来たアデンと共通する。底にくり抜いた丸太を使ったくり舟で、水平に伸びた二本の腕木にくくりつけられた、舟と平行に走るアウトリガーを持つ。アウトリガーのおかげで、父さまのような商人が使うダウのように太くおおきな船体でなくても、外洋の荒波のなかでも安定する。

 乳白色の帆を張り、腕木の手を広げて碧の海を滑るように進む舟は、広い青空を飛ぶ鳥のようだ。晴れて、澄んだしぶきを輝かせて順風を進むすがた。それをからだを使って自在に操る漁民たち。かれらは、数百年前、遠い東の果てから、このような舟だけをてだてとして、移り住んできたという。渡り鳥のように途方もない距離を移動し、けれど、二度と東には戻らないひとびと。その、過ぎ去って戻らない過去を、くだけて濡れ光る珊瑚のように宿した、オランのひとみ。

 彼女は町で母おやと魚を売っていて、ハウラと知り合ったという。漁民でも、女だけでは漁に出ない。結婚していれば夫とともに、あるいは未婚であれば父おやの手伝いで舟に乗り、ひととおりのことは習うというが、母おやが彼女の操船のわざを惜しんで、隣町に送り届ける舟を探していたハウラにかけあったという。

 女じゃないとだめだって、ハウラが言っていた。

 彼女はふしぎそうにわたしを見る。

 七歳のわたしはうつむく。

 殿方ばかりのところにいてはだめだって。

 よそから来た町のひとたちはそういうひとが多いね。ヴェールをかぶって、面をして。買い物するのもひとりではだめで。学校に行くんでしょう?

 ええ。クルアーンを覚えるんですって。

 わたしは顔を上げ、うれしさを押さえきれずにさけぶ。

 クルアーンを頭からつま先までまるごと覚えて、そうできたら、教えの意味を教えてくれるんですって。

 ……たいへんそう。

 帆の陰と光、両方に入って、オランはまぶしげにわたしを見る。

 でも、やるわ。

 七歳のわたしは言い、ひとりでうなずく。

 


 老ウラマーは父さまと同郷で、もとは商人だったというが、事業を息子に譲って学校を始めた。クムル島に移り住んできたムスリムたちは、父さまのように土地の女を娶り、珊瑚石の家々や礼拝所を建て、教えと商いを守った。かれらはダウの船に乗って富を運び、帳簿を付ける文字を持ち、クルアーンを読誦し、日に五回礼拝する。

 オランがその家まで届けてくれる。遠浅の渚で、舟を磯に上げることはせずに碇を下ろし、カフタンを着て途方に暮れるわたしを、オランがおぶって砂浜まで運んでくれる。胴に巻き付けた布をたくし上げて、細い脚を露わにして水のなかを進む。磯漁りをしている女や子どもたちがわたしたちを見る。

 オラン! あたらしい妹かい?

 顔見知りらしい中年の女性に声をかけられて、オランは苦笑いする。

 うちじゃあこんなきれいな服は着せられないよ。シハーブさまの娘さんだ。

 へえ。アラブの商人の。お金持ちだね。

 おおきな声だが、女はわたしには一瞥をくれただけで、すぐにオランのほうを見る。漁民たちは、あまり富やちがう生業の人間に関心がない。潮や風の具合をすこし話し、オランは陸にわたしを下ろす。手を差し出されて、わたしはおずおずと彼女の手に触れる。ぎゅっと握り込まれ、わたしは安心する。彼女が迷いなく、しかしわたしの歩調に合わせてゆっくりと、街を歩いていく。わたしはきょろきょろする。午睡の時間で、あまり道にひとはいないが、自分の町と同じく、珊瑚石を砕いた漆喰の壁、彫刻を刻んで鉄錨を打ったマングローブ材のドア、透かし彫りを施されたバルコニーを持つ家々が立ち並んでいる。猫が日陰をするすると通り抜け、玄関のわきに作り付けられたベンチでは、男たちが談笑している。ヤシの葉で屋根を葺き、木と粘土、草で壁を固めた家もある。作りかけの凍石の器が積まれた石工の家や、象牙を磨く工房の前を通る。

 ウラマーにはむすめがいて、家の二階に通してくれる。オランは、出されたココヤシのジュースを飲むと、また迎えに来るよ、と言って行ってしまう。

 そうして、学校が始まる。クルアーンを習う少女は、多くてわたし以外で三人ほどで、たいていウラマーと同じ町に住んでいる。わたしが舟に乗ってここに来るというと、みな驚く。

 よくお父さまがお許しくださったわね。

 ……おおきくなったら、サワーヒルに行くの。そこではみんなクルアーンを暗誦できるんですって。だから、わたしもそうできるようにしなさいっておっしゃったわ。

 わたしはすこし得意になって言う。まだ結婚の意味を理解できる年齢ではない。

 授業はウラマーのむすめが立ち会い、ウラマーの読誦を聴くことから始まる。かれの声は滔々と流れる河のようで、わたしたちはうっとりする。音を表す文字を習う。木の書板に書き付けて、繰り返し練習する。文字と、音を、意味のわからないまま暗記する。ふだん話すことばとはべつのことばで、でも時折、ウラマーが意味を教えてくれる。父さまが話すことばにちかい。

 授業は週に二回で、それ以外は家で過ごす。わたしは学校の日を心待ちにする。天気がよいことを祈る。晴れて、風がつよくも凪でもなければ、碧の海に出て、鳥のように飛ぶことができる。はためく帆や、きらきら光る彼女たちの肌や、舟の下を通る色あざやかな魚を見ることができる。授業はゆっくりとすすみ、わたしはもどかしい。父さまのクルアーンを見せてもらって、学校で教わった箇所以外を読み進める。むずかしいことばで書かれていて、意味はよくわからない。けれど、口に出して音を楽しむ。羊皮紙を綴じたクルアーンは、流麗な書体で書かれていて、句頭が花模様になっている。

 時間はゆっくりと過ぎていく。見よう見まねで、オランの弟がやっていることをしてみる。かれが大きくなったら、わたしを送る舟には乗れなくなるのだ。珊瑚礁や岩を避け、舟を浜に近づける練習をする。櫂は重く、わたしは最初、うまく操れない。岩にぶつかる。しぶきで濡れる。でも、オランはけらけら笑い、こうやるんだよ、と身振りで教えてくれる。からだ全体を使って体重をかける。潮の流れや、風向きによって変わる舵の角度を、なんども示してくれる。しだいに、皮膚で感じる水や空気の力に沿って、からだを動かすことに慣れてくる。目や耳や手ばかりでない全身を使うが、ここも学校だった。

 弟サーリヤが男の子の学校に通い始め、わたしたちは家でクルアーンのことや、弟が習っているべつのこと――算術や医学、法学について話し合う。かれが話すことを聞いて、わたしもそういうことを学びたいと思うけれど、女の子に許されているのはクルアーン学校だけだ。代わりに、母さまやハウラに、刺繍や織物を習う。そのおかげで、インドやペルシャから来る織物や絨毯はどれだけの手間とわざが使われているか理解する。手芸でも、数えたり計算したりする必要がある。弟の話す算術とつながる。母さまは織物が苦手で、メリナの女性に知り合いがいれば、おまえに教えてもらうのに、と言う。

 メリナのひとのほうが織物が得意なの?

 そうよ、メリナは複雑な紋様を織って、目のくらむような肩掛けを着るの。

 クムル島には、二十を超えない数の民族がいて、けれど話すことばはちかしい。相互に話が通じるちかさだ。母さまのようなサカラヴァは、島の西部、乾燥し暑い地域に暮らす。メリナは中部の高原地帯に暮らしていて、米を育てて暮らしているという。サカラヴァの民もメリナから米を買うから、母さまは行商のメリナ人を見たことがある。

 母さまはサカラヴァの村長のむすめだ。牛を産するおおきな村で、買い付けにきた父さまに見初められた。

 母さまの生まれ育った村に行ってみたいけれど、父さまはだめだと言う。

 イスラームの教えに沿った村ではない。男たちがおまえに気安く話しかけるだろう。

 ……そう。

 不満げなわたしに、父さまは笑った。

 おまえは知りたがりだな。勉強熱心なのはよいことだ。慈悲深き君の忠実なしもべとなるだろう。だが、教えを守って、きちんとした身なりでいよ。甘いことばは使ってはならぬ。よこしまな者が付け入るだろう。

 甘いことば?

 男を誉めそやしたり、優しさを示したりすることばさ。男というのは愚かで了見が狭い。すこし甘いことばを使っただけで、そういうことを言った女人を得ようとするのだ。

 父さまもそう?

 父さまはからからと笑った。

 そうさ。だから母さまをここに連れてきて、村に帰ることも許さないのだ。

 許してさしあげればよろしいのに。

 だめだ。わたしは嫉妬ぶかいのだ。

 ……ひどい。ご自分はサワーヒルにも、アデンにも行って、たくさんきれいなものを見ていらっしゃるのに。

 わたしは部屋の調度を見渡した。刺繍のびっしりと施されたクッション、蝉の翅のように薄いモスリンの帳、透かし彫りの入った紫檀の櫃。銀の盆に、中国から運ばれた、透き通った白磁に染付の藍色の花が咲きひらく鉢。ぜんぶ島の外から来たものだ。鉢に盛られたオレンジの房をむしゃむしゃ食べながら、父さまは目を細めた。

 それは、わたしがアラビアの男だからさ。危険な目にたくさん遭っても、なんとかできるから出かけていく。おまえや母さまはそうはいかぬ。わたしは、家族がダウに乗って嵐に遭ったり、盗賊に殺されたりすることを想像しただけで、胸がつぶれてしまう。だから、教えを守ってほしい。

 水盤で手を洗い、白い手巾で口を拭き、父さまはわたしをじっと見つめる。

 ……はい。

 善い子だ、ナーディヤ。

 父さまはおおきくうなずく。

 今度本を買ってきてあげよう。詩がよいか、物語がよいか……。

 わたしは飛び上がって喜んだ。

 ほんとうに!?

 おまえがこんなに勉強熱心なら、わたしももっと本を集めておくべきだった。いまは貸してやれるものもあまりないしな……。

 父さまはいろいろ本をお持ちでしょう。あの櫃にたくさん本が入っていました。

 父さまは眉間に皺を寄せた。

 あれはだめだ。子どもに読ませるには不適切でな……。船乗りからあることないこと吹き込まれたことを、バグダードの商人がそのまま信じて書いた本で――

 おもしろそう。

 だめだだめだ。女が木に実っている話などが……

 おもしろそう。

 だめだ……。

 父さまは目を反らし、櫃に鍵をかけてしまった。サーリヤにはその本のことは内緒だ、とささやいて。



 父さまは何ヶ月も家を空けたり、クムル島のなかに出かけて数日ごとに帰ってきたりすることもあったが、おおむねこの家では客人に等しかった。わたしはかれの言うことにうなずいて過ごしたが、かれはわたしがあまり忠実なしもべではないことを理解していた。サーリヤもわたしも、帰ってきてはたくさん見たことのないお土産を渡してくれる、朗らかで時に鋭利なかれを歓迎した。だが、母さまはかれに対して常に無関心だった。話しかけられなければ自分から話しかけることもせず、引き留められなければ中庭に行ってしまう。ものがなしい旋律の歌を、ほほえみを浮かべながら歌い、花のしげみの下で眠っていることが多かった。十を過ぎたころには、わたしはそれがなんなのか理解していた。つまり、このふたりは仲が悪いのだ。特に、母さまは父さまを拒んでいるのだ。父さまも、それを変えようとは思っていない。あるいは、わたしが気づかないところ、物心つかないうちに、そうしようとしたことがあったのかもしれないが――……

 父さまは、母さまに媚びるようなことも、怒鳴りつけることもなく、あきらめたようにふいと視線を反らす。そして、わたしやサーリヤと話す。かれの話はおもしろく、奇想天外で、結局わたしはかれに『インドの驚異譚』と呼ばれる船乗りの物語集を読み聞かせてもらったが――途中でクルアーンのたとえ話を入れたり、詩を引用したりして、厭きさせることがなかった。父さまのお話や本から、わたしはたくさんのことを学んだ。人間には善い面と悪い面がある。うつくしいものを愛するこころと、悪しきものに耽溺する弱さがある。文字は、連綿とそれを伝える。クルアーンのできたころからずっと続く教えのことばも、その前のはるかいにしえのことばも、文字に書き記されてわたしに届けられる。

 オランは、文字を知らないのに、どうしてお話を知っているの?

 わたしは、順風に帆をはらませ、まっすぐ前を見つめるむすめに訊く。

 なあに、急に。そりゃ、母さんや父さん、ばあさまから聴いたからだよ。

 彼女は振り返ってわたしを見る。

 このごろ彼女は、舟に乗っているあいだ、布を腰回りにしか巻かない。胸がふくらんできて窮屈だから、と言う。自分の村の女たちも、改まった場か、ムスリムと話すときしか胸を覆わない。

 礼を失していると思うけれど、わたしはつい彼女の胸を見てしまう。家の女たち、ハウラやクンフズのものを見つめたりしたことはないのに。自分はまだぺたんこだけれど、彼女のような変化が、いずれ自分にも起きると思うと、どきどきする。彼女の両の乳房のあいだに、汗がとどまって光るのを見る。

 夜眠る前や、漁でただ風を待っているときに、よく話を聴くよ。

 へえ。

 彼女は物知りだ。ウラマーよりも、父さまよりも、海のこと――風や潮や、舟のことや、魚、海老、貝や鳥について知っていて、なんでも教えてくれる。名前、習性、人間の得になる時機、どうしてそのすがたなのか、漁師が主役の物語や歌を交えて教えてくれる。

 イカやタコ、ナマコに出会って怯えるわたしに、やさしく教えてくれる。おいしく食べられるらしい。

 ナーディヤは、なんでも喜んで聴いてくれるから、話すと楽しいよ。

 オランはささやく。

 そう? よかった。

 わたしはほっとする。

 送り迎えだなんて、退屈でしょう。午後は待っていなければならないし。

 彼女は、ウラマーの町にいるあいだは、浜の日陰で昼寝をしているらしい。

 ううん。休めるから楽だよ。毎週楽しみなんだ。今度ナーディヤに、どんな話をしてあげようかって考える。

 目を伏せて、彼女は言う。わたしはうれしくなり、にこにこ笑う。

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征服されざる千年 冒頭 鹿紙 路 @michishikagami

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