良作が出来た。本当は「ユキムシ」っていうタイトルにしたいけど、そんな題名の小説じゃあそもそも読まれないからどうしようかな。んー、あとで考える。

林堂 悠

第1話 ユキムシ

 10月の苫小牧とまこまいの外にはユキムシが飛ぶ。

 その虫はコバエくらいのサイズであって、しかしながら、コバエのように一心不乱になって飛び回ることはなく、ふわふわ、ほのぼの、しんしんと、優雅に宙を舞うのが特徴だ。


 ユキムシの尻は、真白い。

 体の3倍か4倍はある毛玉を尻から生やしていて、いつもそれを重たそうに抱えているものだから、飛ぶ姿、まるで雪のようである。



 さて、散歩道を歩くひとりの男の肩に、1匹のユキムシがくっついた。


 男はすぐに気が付いたのだが、それこそコバエなどの不快な虫がくっついた時みたいに、しっしと払いのけることはせず、さてどうしたものかと戸惑い、ただ歩調を緩めて、様子を伺った。


 男は仕事を辞めて、東京から、地元であるここに帰ってきたばかりであった。二十五歳の年である。


 だからこそ、服にくっついたユキムシを手で払いのけると、その真白い毛玉が潰されて、チョークの落書きのような跡が残ってしまうことを、幼少の経験から知っていたわけだ。


 そんなわずらわしさが男を戸惑わせたことは事実であった。

 しかし、男には仕事もなく、用もなく、ただ途方に暮れて、散歩道を歩いているだけ。


 誰に会うわけでもないし、家も近い。

 

 気にする必要はないか。


 そう結論を下すまでに要した時間はわずか数秒であったが、男が導き出したその結論とは、服が汚れてもいい、というものではなく、このままユキムシを肩に乗せたままでも構わない、というものであった。

 

 ふわふわで可愛らしい姿に、愛着をもったのである。


 男が歩く散歩道は、木漏れ日を許さない程茫々に生えた栗の木と共に、約10㎞先まで続いている。人が歩くための道は幅が2m足らずで、綺麗に、といっても、随分とひび割れを起こし、その隙間からは、黄褐色の、枯れた雑草が、しょげた頭を覗かせているのだが、田舎の散歩道にしては、という前置きをした上では、充分に整備されている方である。


 度重なるが、男は地元民故、この道の終着点を知っている。

 なんてことない住宅街に出るだけだ。

 

 木陰に覆われた暗い道。散乱した栗のイガイガを踏み続けていると、いつか靴底を貫通して、それが足の裏に到達して、……痛い! 血まみれになるのではないだろうか、などという不毛な心配をしたりして、時々後ろから迫る自転車を気にかけながら、何もないと知るゴールに向かって歩いているのである。


 男はこの散歩道の景色に自分の人生を重ねて、深く溜息をついた。


 男の心を木陰のように覆うものの正体は、昨年の出来事。


 離婚である。


 些細ささいいさかいの積み重ねというありきたりな原因であった。

 

 絶えない夫婦喧嘩、飛び交う罵声と批評。その中で最も男をナイーブにさせた妻の一言は、


「女の人を見下している」


 という指摘だった。


 男には極めて古臭い価値観があったのだ。


 「男」は「女」を守るものであり、「女」は「男」を支えるもの。


 そんな思想が些細な生活や言動ににじみ出てしまうことは言うまでもなく、妻の反感をつのらせ、絶縁されたわけだ。


 男は後悔した。

 三日三晩寝込み、猛省したこともあった。


 終いには精神まで病み、仕事を辞め、結果、この散歩道にたどり着いたわけである。


 自分だけが、時代の道徳に追いてかれている。


 これは、男のそんな悩みが解消されるまでの、短い物語である。



 3㎞地点までいくと、栗の木は徐々に本数を減らし、かすかな木漏れ日が射すようになった。


 栗の木の枝から生る葉は一葉一葉いちよういちようが大きく、その自重によって、だらんと、大型犬のベロのように下へ垂れ下がり、絶えず風に揺らされている。


 カサカサカサと、葉と葉のこすれる音。

 

 冷たい北風が強く吹くと、その音は一層と増し、歩道に映る木漏れ日の形も万華鏡まんげきょうのように激しく変化する。

 

 男は肩にとどまったままのユキムシを見て、自分はどう変わるべきかを問うてみたが、必死に服にしがみつくだけのフワフワを見ていると、妻が家を出ていく時に忘れていったファーコートの毛の部分が、エアコンの風にあたって揺らされていた景色を思い出し、すると、やけに冷静になって、虫にまで救済を求めるとは、どれだけ堕ちたものかと、この日初めての笑顔を浮かべた。


 また北風が、今度はゆっくりと、男の肌をなぞるように吹いた。


 その風には明らかな女の匂いが混じっていて、男は咄嗟に顔を上げた。反射的な動きから自身の動物的な卑しさを察知し、再び気分が堕ちてしまったのは一瞬のことで、目の前にいたのは男の中学時代の同級生であった。


 その同級生は、みどりという名の女で、実は、男がこの地、苫小牧に帰るにあたって、新居を探してくれた女であった。背は決して高くないが、猫のようにぱっちりした瞳が小さい輪郭を更に際立たせ、等身は白人のそれを思わせられる。「男」なら誰もが羨むほどの美貌の女だ。


 新居といっても、男に収入はない。築30年以上のおんぼろアパートである。

 東京から北海道への引っ越しにあたって、今時はオンライン内見という術があるものの、実際の目で見るのが一番だと考えたみどりは、事実、口だけそう提案するのではなく、わざわざ男のために不動産まで出向き、何件もの家を代理で見て回った。

 そうしてみどりは、男から提示された僅かな予算内で、出来る限りのアパートをみつけたのである。


 男とみどりは、元同級生といえど、学生時代は特別に仲がよかったわけではなく、つまりは旧友とも、親友とも、ましてや当然、元恋人ともいえる間柄ではなく、この年の始め、つまりは今から10か月前に開催された同窓会にて、互いにバツイチになったことを告白することで意気投合しただけの、いわば、関係性の薄い、ただの友人である。


 しかし、それでいて、何故みどりは、わざわざ男の家を代理で探し回るような労力をいとわなかったのか、あるいは、男も何故、そんな相手に自らが住むことになる家の選定を任せたのかは、作者にとってはもちろん、そして世間にとっても恐らく意外なことに、その理由には、性的好意からくる動機は含まれていないのであった。


 いや、たしかに、微塵みじんも含まれていない、といえば誇張表現にはなる。


 散歩道でふたりが鉢合わせた時、男は、みどりから香る女の匂いに、自身の動物的な本性を垣間見た。また、みどりは、田舎だからこそではあるが、その美貌故、学生のころはちょっとした有名人であった。男ももちろん、みどりを美人と評価している。故に、みどりのことを微塵も「女」として見ないわけではない。


 みどりの方も、同窓会で再会した男に対して、「男」としての評価を勝手にして遊んだりした。

 雰囲気に落ち着きがあるし、背が高いのは良いなぁ。でももう少しガッチリしてればなぁ。と評価した。

 故に、男のことを微塵も「男」として見ないわけではない。


 では何故、これ以上に性的好意が膨れ上がることがないのか。

 あるいは今のところの本題である、関係性が薄いふたりに築かれた信頼の所以ゆえん、とは。


 それは、みどりが人生において抱えてきた独特で晦渋かいじゅうな問題と、男の悩みとが、ジグソーパズルのように、複雑な形状をもって合致したからなのであった。


 説明する。


 みどりは、自身の美貌を理解している女であった。

 もちろんそのことを他人に対して本意で言うことはしないのだが、ただ、理解はしていたのだ。


 いや、正確には、理解しなければならないほどに、その生涯に渡って、散々と捧げられた異性からの求愛や、同性の嫉妬に、悩まされてきたのである。


 ひどい時期には1日に2人も3人も、しかも、中には六十歳近い老人にまで、熱心な愛を伝えられるのである。みどりの意向によっては警察沙汰になるレベルの、……少し低俗な言い方となるが、やばい奴、の数も両手の指には収まらない。


 若いうちからみどりにとって、異性からの求愛は、恐怖と類義になった。


 更に追い打ちとなるのは、この悩みを「贅沢な悩み」と卑下されることである。


 例えば、「男」からの貢物が多いことを相談してみれば、


「いいね、みどりは可愛いから。貰えるもんなんて、貰えるだけ貰えばいいでしょ。私なんか一生懸命OLして、それでもバッグひとつ買えないよ」


 と言われる。


 みどりには罪悪を感じる心があるのだ。

 異性からの貢物。如何に高価だとしても、そんな「物」で自分の恋心を、ある意味、対価として献上するような真似、さらさらするつもりがなく、ただ罪悪だけが、コップに満たされてゆく水のように、募っていく。だから受け取りを拒否するのだが、その断り方を少し間違えれば、やばい奴が生まれてしまう。


 例えば、化粧の話題になってみれば、


「でも、みどりは化粧なんかしなくていいでしょ。コンプレックスとかなさそう」


 と言われる。


 実は、若干、鷲のようにうねった鼻が気に入っていないみどりであったが、そう答えれば反感を買うばかりである。

 

 世間は、みどりが抱く悩みに理解を示さず、思うがままの嫉妬と皮肉を送り、みどりを悪者わるものにした。いやしかし、これに関しては、少なくともみどりにとってはそう感じたと、補足しておこう。


 いわゆる「持って」生まれた人間の悩みとは、自慢に映るものなのだ。

 それが努力によって得た場合でも、変わらない。

 金持ちがいい例だ。

 富裕層が富裕層だからこその悩みを世間に訴えたところで、反感を買うばかりである。

 努力をした人間も、「持って」生まれた人間も、自重を強いられるのが世間。

 しかも、おかしなことに、そういう人間に対して嫌味をいう人たちは、自分たちはもっとつらい思いをしているんだ、配慮しろ、というニュアンスでものを言うが、金がないことを憂うフリーターや病んだホームレスを見れば、もっと努力すればいいのにと一蹴したりするのだから、まるでわがまま貴族である。


 もっとも、作者もそっち側の人間ではあるが。


 次第にみどりは、そういった問題の緩和かんわのため、本能的に、他者への奉仕を自制し、いわゆる通俗の「女子力」というものを放棄した。


 奉仕をすれば、いとも簡単に求愛されるからである。

 すると、大概受け入れることが出来ず、結果、相手を傷つけることになるからである。


 本来のみどりは、人のために何かしてあげることに多大なる喜びを覚えるたちの、母性に満ちた、女らしい女であった。して、そんな本来の自分が好きであった。


 そんな折に同窓会の場に現れたのが、男であった。


 男は「女の人を見下している」という元妻からの指摘に悩んでおり、つまりは女との接し方が分からなくなっていたところである。


 また、やはり、令和の時代の二十五歳にしては相当に古臭い価値観を抱いており、一生の愛の誓いを裏切った身という罪悪を、人一倍に感じているところでもあった。義理堅い「男」なのだ。


 たかが離婚。やりなおせばいい。


 筋を通して生きることをモットーにする男にとって、そのような世間の同情は耳に入らないのである。


「もう一生、女はつくらんな」


 同窓会の場で、男が言った。

 店は一風変わったバーで、ダーツやビリヤード、黒髭危機一髪などの玩具なんかまで設備されているユニークな場所だ。


「えー? じゃあほら、私は? こんな可愛い子、他にいないよー?」


 みどりは、すっかり得意になっていた護身術を発揮した。

 こうテストすることで、「男」の反応をたしかめるのである。

 もちろん本気で言っている風にはみせない。

 こんなネタで少しでも自分になびく気配を察すれば、求愛は時間の問題。つまり、仲良くなることは出来ない。

 厄介やっかいになる前に、とんずらをこくのだ。


「お前みたいな女子力ない女、ごめんだね」


 男は、焼酎しょうちゅうの水割りを片手に持つみどりをみて、そう言ったが、これもまた、女を見下している所感なのだろうかと思慮し、内心はっとして、焦燥を紛らわすように、急いで焼酎を喉に流し込んだ。


 みどりはその後も、男に対して様々なテストを試みた。

「男」の嘘に対しては敏感なみどりであったが、男がみせる一言一句、挙動からは、それが感じられることはなかった。


 二十五歳の同窓会。まだまだ大学生のノリのような一面もある。


 各自の酔いも最高潮になった頃、駄菓子の、ひも状の、長い長いグミを、「男」と「女」でそれぞれ両端から食べていくという罰ゲームが提案された。


 トランプゲームの勝敗の結果、男とみどりが選ばれるわけだ。


 周囲の手拍子の中、男とみどりがグミの先端を咥える。


 ふたりの思惑には、恋など、ない。


 ドキドキわくわくして、じりじり食べることなど、ない。


 恐らくこのゲームの世界大会が開催されれば、圧倒的な記録をもって、このペアが優勝することだろう。

 

 もう恋はしない。

 女を見下す俺に、恋をする資格などない。


 そう考える男は、周囲を笑わすことの方に器量を割いて、一瞬の間にみどりの口元までいき、すぐにキスのような形になった。エロスのないキスである。


「次は舌入れてやるからな」


 照れも笑みもなく冗談を言った男に、みどりは初めて、過去の恋人や元夫以外の「男」に対する信頼を覚えたのである。


「言ったな? じゃあもう一本やろうよ」


 雑に扱っても文句を言わず、男友達のようなノリをみせるみどりに、男は、木漏れ日のような、目のあらい光をみたのである。つまりは、今のままの自分を受け入れてくれる「女」に、偽りのない自分のり所を確保したのである。「男」と対等に扱える「女」の発見に、「見下している」という指摘の意味が成すものの、変化を感じたのである。



 さて、ふたりの馴れ初めはこんな感じである。


 随分と話を戻して、栗の木の散歩道、ユキムシを肩につけた男と、みどり。


 このふたりは、ことごとく趣味嗜好しゅみしこうも合うもので、好物でいえば漬物や厚揚げ豆腐に、牛タン、酒でいえば焼酎、して、極めつけが散歩である。


「あっ」


 と、みどり。


「おう」


 と、男。


 ふたりは数秒見つめ合って、すると、またまた北風が強く吹いて、近くの木から栗がひとつ、地に落ちた。


 そしてまた、


「あっ」


 と、さっきとまったく同じ声量と抑揚で言って、落ちた栗の方を注目したみどりは、栗ご飯が作れるかもしれない、と考え、落ちた栗の下に向かったのだが、既に小動物に食い漁られた数々のイガイガを目にして、とても不潔に感じ、やめて、せめて蘇ってきた童心を満足させるために、イガイガを割って遊ぶ程度に留めた。


 木の根元でしゃがみ込むみどりを見て、男は理由の分からない幸福感に駆られた。

 しかし、それは純粋に、「女」がみせるかわいらしい光景を見た時の「男」の反応であった。

 

「栗ご飯作りたかったなぁ」


 みどりはもう、テストなどしない。

 栗を割っている時に、ふと、自分の姿がぶりっ子のように映っていることを懸念したが、だとしても、男が自分に好意を寄せてくる危険も、皮肉を言ってくる危険もないことを思い出し、安心して素の自分をみせる。


 いや、「自分をみせる」という表現は不適切だろう。

 正しくは「自分でいれる」だ。


「栗ご飯?」


 みどりの至って素朴な欲求は、男にとって少々疑問で、インパクトのあるものだった。

 東京暮らしが長かったこともあってだが、外に落ちている栗を食すという概念に、プリミチヴな人間の思考を発見し、感銘を受けたのである。


「うん。でもダメだね。もうほとんど食べられちゃってる」


「……みたいだな」


 男も木の根元までいき、小枝を上手に扱ってイガイガをほじくっているみどりの横に、並んだ。


 ここでようやく、みどりは、男の肩にくっついているユキムシに気が付いた。


「あっ。ユキムシ」


 みどりは指を指した。


「ん? あぁ、うん」


 男もちらと自分の肩をみた。


 会話も何も、膨れるようなことではない。


 みどりはすぐにイガイガいじりに戻って、男もすぐ、それに目を直した。


 この沈黙に対して、ふたりは気まずさを感じるところではない。


 病んだ男と、素をみせるようになったみどりがそろえば、むしろ、この沈黙とは、水が下へ流れることと同義のような、それほどまでに自然な現象であり、また、特に互いに素面しらふであるときに限ってだが、日常であった。


 しかし、最近のふたりには、たしかな気まずさが存在することも事実であった。


 男とみどりとが恋仲関係であると、もっぱら噂が絶えないのである。


 スタイルのいい若い男と、美貌の女である。

 はて? 友達? ふーん。

 世間がふたりの友情に懐疑的になるのは、仕方のないことだった。


 これが、みどりにとってはコバエのように鬱陶しいことであった。


 みどりは男と違い、恋をやめているわけではないのである。


 先ほど、ふたりが性的好意を増すことのない理由を長々と語ったが、もっとも簡潔に、分かりやすくいうのであれば、みどりにとって男は、タイプではない、と表現するのもいささか的をているところもあり、また、異性の求愛が恐怖と類義であるともいったが、もちろん、当人の好みにフィックスする「男」がいれば、恋心は揺さぶられるのである。


 何もみどりは、去勢きょせいされた犬や猫のように、完全に性欲を失ったものではない。


「女」が「男」を取捨選択する。美貌な「女」だからこそ、この自然の摂理が、より顕著に表れているだけのことである。


 この10月頃、みどりは、離婚以来久しぶりとなる、いい「男」に出会っていた。(呼称はAとする)


 しかしこのAは、所有欲の強いたちの「男」で、みどりが男と仲がいい様子を見て取れば、暴力を辞さない覚悟をちらつかせるほどの、一途いちずな愛をもった「男」であった。

 みどりは一度だけ、男友達の存在について説明を試みたが、男の名前を出しただけでも明らかな不機嫌を見せられ、早々に諦めてしまったこともある。


 みどりは八方ふさがりとなった。


 もちろん男に対して、迷惑だとか、邪魔だとか、そのような利己的な感情を抱くことはない。


 ただ、男が引っ越してきてからというもの、ふたりはこれまで毎日のように酒を飲んでは、バツイチ同士の恋愛観、愚痴を語り合い、ことごとく価値観が合致するものだから、その共感という幸福の喪失に、あるいは楽しい日常の剥奪はくだつに、罪悪を感じていたのである。


 ——これは、恋を得るための犠牲。仕方がない。

 私は、いい。

 まだ、恋という得たものがあるのだから。

 でも、……男にとっては、日常が奪われただけ——。


 更に、みどりにとって生まれて初めてである男友達という存在は、彼女にとってある種の救いであった。


 自身の美貌故に、四六時中、異性から性の対象として捉えられてきた人生。

 いつだって自分は「男」にとって、数いる「女」の美しさと比較される、骨とう品のような存在。

 

 隣にいる男だけが、初めて同じ「人間」として自分を扱ってくれた。


 ——あぁ、でも、手放さないと。

 男友達と恋人の双方を大事に抱えて生きていくことなど、出来ないんだ。

 私はAにとって、そして、世間にとってもそう、Aだけの「もの」にならないといけないんだ。もちろん完全に嫌なわけではない。少なからず、それを望んでいる私がいるのも本当のところだ。Aへの恋心は本物だ——。


 そこまで考えて、みどりは男に、最近の自分たちが疎遠そえんになってきていることについて、謝罪の意を込めて、話をしようと思ったのだが、恋人の別れ話のような雰囲気になるのが予見されて、すると、急に馬鹿らしく感じ、可笑しくて、気恥ずかしくて、咄嗟に言葉を変えた。


「それ、ユキムシ、いつまで肩に乗せてるの?」


「なんで?」


「べつにー? なんとなくだけど、ねぇ、なんで乗せたままなの?」


「俺もなんとなくだけど、まぁ、ほら、かわいいじゃん」


「ふーん……」


 して、再びの沈黙。

 カサカサカサと葉の擦れる音。


 ここに今度は、ガサ、ガサ、ガサ、と、ふたりのもとに、落ち葉を踏む音が近づいた。


 近所に住む五十歳近くの婆さんであった。随分と若い恰好で、両脇にピンクのストライプが入った黒色のジャージ姿である。


「この辺はねぇ、もう全部食べられちゃったり、取られちゃったりで、拾えないのよ。栗。」


 そう声を掛けられて、みどりはゆったりとした所作しょさで立ち上がった。


「そうなんですね~。じゃあ来年はもう少し早く来ようかなぁ」


 田舎の散歩道にて行われる、ただの世間話。

 しばらく続いた。

 専ら栗の話である。


 男は、よくもまぁ栗の話だけでここまで愉快になれるものだと、内心小馬鹿にしたが、再び見つけたプリミチヴな光景に美しさも感じ、この風情を壊さないようにと、いっさい会話に入らないようにした。


 ようやく栗の話が終わってからである。

 婆さんは、男とみどりを見比べるかのように、黒い瞳を右へ左へ動かして、至極当たり前の感覚を以って、世間を代弁した。


「しかし、いいわねぇ。こんな美男美女のカップル。なんだかね、ほら、そこでふたりで座ってた景色なんて、なにかのドラマみたいだったわよ。お兄さん、やるわねぇ。こんっなに可愛い子、絶対大事にするんだよ」


 しわの目立つあたたかい笑顔。

 ふたりにとっては皮肉な風情である。


 思わず、男とみどりは目を合わせ、互いに苦笑いを浮かべた。


 みどりは噂の肥大化を懸念し、少しだけ焦燥して、柔らかく否定の言葉を述べた。


 男も同じ気持ちで、みどりに対する罪悪感に駆られた。

 同時に、婆さんの言葉に引っかかることがあって、肩のユキムシを見た。


(こんっなに可愛い子、絶対大事にするんだよ。)


 男は、なるほど、やはりそうだよな、と思った。


 可愛いものとは、その事実ひとつだけにも価値があるもので、守らなければならないもの。


 それが「男」の勤めであり、本能、と考えたのである。


 しかし、「女の人を見下している」。


 その上で、自分はどう改まるべきなのかは、いまだ解決に至らないのであった。


 婆さんが、それでは、と、別れの会釈えしゃくをした。が、男の視線の先にいたユキムシに気が付き、またあたたかい笑顔を浮かべて、男の近くに歩み寄った。


「虫ちゃんがついてるわ。ユキムシね。かわいらしい。これね、手で払っちゃうと服が汚れてしまうから、ほら、こうやるのよ」


 と言って、婆さんは、ユキムシの背中の、小さな小さな羽根の部分だけを、ピンセットで摘まむかのように優しく、繊細せんさいに、爪の先で拾ってみせて、ふわっと、それを宙に返した。


 ユキムシは一瞬、そのまま地へ堕ちるようにを描いたが、吹いた北風に流されて、遠く遠くへ、姿を消していった。


 いよいよ婆さんと別れ、ふたり、取り残されると、互いの意思は決まっている。


「それじゃあ、またね」


 と、みどり。


「おう」


 と、男。


 この世に男女の友情は成立するのか、否か。


 よくある論争。


 これは、意味のないことなのである。


 答えは明白。


 男と女が一緒にいれば、「性」。


 世間が、認めないのである。



 そうして、ふたりが散歩道で別れた日から、ふたつきが経った。

 年末である。


 男とみどりは互いの交流に罪悪を感じながらも、我らは友達、みどりの恋ひとつで完全に関係を断つことにもまた不条理が感じられるもので、それこそ浮気の密会のように、緻密ちみつにリスク管理をした上で、こっそり家で会って飲んだりはしていた。

 当たり前だが、今までのように、ふたりで外で飲んだり、買い物をしたり、散歩をしたりは、ない。


 しかしながら、噂とは、時の経過によって霧消むしょうするどころか、むしろ、一人歩きによって、より確固たる虚実に変貌するものである。


 この年末の日、男は、親族の集まりに参加していた。


 仕事をしていない男に対して親族たちは、同情やら、鼓舞こぶやら、叱責しっせきやら、様々な言葉を送った。


 その内に、恋の話となる。


「お前さ、みどりちゃんと付き合ってるってマジ?」


 男と同世代の従兄が言った。


 すると、男が返す前に、男の母が反応した。


「みどりちゃんって、あの中学の時のみどりちゃんかい? えぇ? 本当に?」


 従兄と母が発したやけにテンションの高い声色から、男の姉妹たちも叔母も祖母も、ただならない興奮を感じ取り、場は一気に大盛況となった。


 男は必死に否定をしたが、突如として妙な不快感と疑問が湧き起こり、口が止まった。それは、勝手な噂と憶測で盛り上がり、みどりに迷惑を掛ける親族たちの、あるいは世間の行為に対してではない。


 事実ではないにしろ、男女の恋話にしては盛り上がり過ぎだと感じたのだ。

 男が、過去の結婚も含めて、これまで恋多き「男」であったことから、比較対象となる「親族の反応」が多かったために感じた思いでもある。


 従兄がSNSを開いて、みどりの写真を拾い、みんなに見せて回った。


「えぇ? ちょっと、本当に? モデルみたいじゃない!」

「おいおい、なんでお前みたいなニートがこんな、……騙されてるんじゃねえか?」


 しかし、何も男は、親族たちが見せる反応のいっさいが分からないわけではない。


 美貌の女を手中に収めた「男」とは、はくがつくものである。

 競争の激しい「女」を手に入れたのだ。それは、金なり、技術なり、性格なり、何らかの才に禿筆とくひつしていることの証明になるといっても過言ではない。


 また、病んでいる男が新たな恋によって再起してくれるかもしれないという希望的観測が、親族たちの喜びを助長させていることも事実なのだが、しかし、それをもってしても、やはり男の恋の相手が恐ろしいほどの美貌の女という事態の方が、彼ら彼女らのテンションをハイにさせている一番の要因なのであった。


 しかし、最近の男はずっと、あれについて考えているのである。


「女の人を見下している」


 ならば、自分は、どう変わるべきか。


 まるで、「女」を骨とう品のような「もの」と考えて、しかも、それが誰にも指摘されない様子で、それでいて、女を見下してはいけないと言う世間に矛盾を感じ、男は不快感と、なんともいえない不安に駆られたのだ。ここにきて、男は偶然、みどりが人生の中で抱いた疑問に辿り着いたわけである。


 男は、全然一層、答えが分からなくなった。

 ——女の人を見下してはいけないとは、いったい、どこの誰が、どの口で、言っているのだろう——。


 男は帰ってから、とにかく急いで、みどりにメールを送った。


「田舎はこええな。俺の家族まで、俺とお前が付き合ってる、ってよ。もういっそ結婚するか。」


「いいね。明日婚姻届書くべwww」


 ジョークである。


「とりま、しゃーない。くだらねえけど、しばらく会うのはよそう。落ち着くまで。」


「り」


 そうして男とみどりは、これからしばらく、接触を断つことになった。

 


 さて、最後である。


 男が離婚をしてから、つまりは、元妻から例の指摘を受けて、早2年。


 10月の苫小牧の外には、ユキムシが飛んでいる。


 この頃、男の家に、ひとりの「女」が入り浸っていた。

 

 名前は舞子まいこといって、十八歳の学生である。


 舞子は、世間一般的な感覚で言っても、美貌の女、とは評することの出来ない女であった。まぁ、どれだけお世辞にお世辞を重ねても、それでようやく、「普通」だろう。背は小さくて、細身で、目は細く、少々吊り目。


 舞子と男は、恋仲関係にはない。


 相も変わらず職にも就かない男が、家の近所で飲み歩いていた時に、たまたまバーで居合わせたのが出会いで、男が酔いながら吹聴ふいちょうする男女関係の在り方について同情してしまったたちの、不幸な女であるが、もっとも、きっかけだけでいえば、男の容姿に惚れてしまったことが一番の要因だ。


「俺は、恋をする資格がないんだ」


 舞子はそんな言葉を聞きながらも、どうにもこうにも止まることが出来なかった。

 何故なら、それが恋だからである。


 モテない舞子にとって、男の端麗な容姿は貴重で、病みながらも一本筋を持っている姿に男らしさを感じ、また、こんな自分に、自身の弱さを赤裸々に吐露してくれることが不思議で、たまらなかったのだ。


 極めつけに、男はこう言う。


「女を骨とう品みたいに、その美しさだけで評価する。それでいて女を見下してはいけない?」


 自分の容姿に自信がない舞子にとっては、運命の男だと、そう感じてしまっても、何らおかしくないのである。


 舞子は男に多大なる奉仕を始めた。


 この人を立ち直らせて、本当の恋人になりたい。


 好きで好きで、たまらない。


 舞子は、毎朝、起きては口淫し、昼は飯を作り、時々鬱をさらけだす男をみては親身になって話を聞き、夜はまた飯をつくり、求められるだけの性行為をした。


 時々、居ても立っても居られないほど、無性に不安になって、薄い掛布団の中、華奢きゃしゃな手足をうねらせ、身悶みもだえし、涙を流した。


 一方、男の方はというと、その舞子の姿に、また、訳が分からなくなっていた。


「もう、いいんだよ。そんなにしてくれなくても」


 罪悪に呑まれ、男が舞子の奉仕を拒絶すると、


「いいんだよ。してあげたくて、してるんだから」


 と、舞子は男の拒絶を拒絶する。


 慈愛に満ちた言葉である。


 それを聞いて男は、ようやく、少しだけ、自分の頭の中でがんじがらめになっている疑問の糸が、ほぐれていくのが分かった。


 ——あぁ、慈愛に満ちた「女」、こんなにもはかなく、あわれで、プリミチヴで、美しい。

 そんな、俺は、……好きなのかもしれない。

 やはり俺は「女」に対して、女らしさを求める「男」なのだ。

 変わることなど出来ないのかもしれない。

 あぁ、……ごめんなさい——。


 男は世間に懺悔ざんげした。


 舞子に対して自身の恋心が動くのが分かった男は、


(そろそろ、恋をする資格を取り戻そう)


 と考え、少々前向きになったが、いやはやもう、この物語も、終わりである。



 またふたつきが経ち、年末になった。


 この年の親族の集まりは、盛大なものであった。


 男の友人や、姉妹の彼氏、従兄の彼女、祖母の老人会仲間まで。


 まさに大宴会。


 そこでまた、恋の話となるわけだ。


 昨年、この場にいたメンバーは、男とみどりの進捗に興味津々であったが、彼ら彼女らの期待が満足されることはない。


「そういえばお前、みどりちゃんはどうなったんだよ!」


 と、男の従兄。


「あ、そうだそうだ、なんか前いい感じだったんだろ? でも、何ヶ月か前にみどりが男とゲーセンにいるの見たぞ。もうとっくに別れたんだべ?」


 と、男の友人。


 男はちびっと焼酎を一口して、ただ、心の準備をした。


 舞子の存在をみせたとき、皆から嘲笑ちょうしょうされることが分かっていたからである。


 しかし、まぁ、愚かかな。そんな男の覚悟をもってしても、全然事足りず、男が目指す正しい「男と女の在り方」は、玉砕ぎょくさいの知らせをもって告げることになる。


「だから、みどりはそもそも違うって。今、まぁ、付き合ってるわけじゃないんだけど、他に女がいる」


「なんだ、やっぱそうだよな。で、は? もう他の女いるの? お前ニートなのにすげえな」


「ニートで悪かったな」


 男がそう言って、会話が途切れると、少しの沈黙が挟まる。

 その間に、男はまた急いで、焼酎を飲んだ。


「写真、ないの?」


 よし、きた。


 男はグラスを置いて、ポケットから携帯を取り出した。


 ——さぁさぁ、また見せつけてみろ。

 醜悪な女を見下せ。あるいは醜悪な女と恋仲になるような、俺を。

 女を見下してはいけない?

 うるせえ。

 そんなの、物の言いようだ。

 俺は舞子のような、慈愛の心に満ちた女に恋する「男」だ。奉仕に喜びを感じる「男」だ。

 奉仕される側の俺と、奉仕する側の舞子。はたからみれば、俺の姿は、女をもののように扱う偉そうな「男」であろう。

 だが、違う。

 舞子はそれを望んでいるのだ。そして俺は、その慈愛に対して、等しく慈愛を返す。

 つまり、「男」らしく、舞子を守るのだ。

 

 女を見下してはいけない?


 へっ。


 ひとこと言わせてほしい。


 勝手に「女」を、ひとくくりにするな。


 俺だけが、舞子という個人を愛せばいい。

 俺だけは、舞子という個人を見下さない——。


 わざわざ見せなくてもいい写真を皆に見せたのは、男なりの決意表明だった。


 テーブルの中央に置かれた男の携帯を、アリの巣の中身でも覗くかのような好奇な目で見る親族たち。


 して、室内は一気に、しんとなった。


 それを見た皆、頭に浮かんだことは、


(あぁ、なんともいえない、どうしよう)


 という思いである。 


 男の姉妹が咄嗟に、このままではいけない、と考え、共感性羞恥に駆られながら、


「あー、いいんじゃない?」


 と口火をきった。


 しかし男は男で、このままでは皆が可哀そうだ、と思い、準備していた言葉を述べる。


「いやいや、顔はそんなかわいくないけどね。でも、まぁ、とにかく優しくしてくれる女なんだ」


 男は自分の言葉によって、皆の顔から、気まずさの一辺が剥がれたのが分かった。


 すかさず男は、舞子が今まで自分にしてくれた奉仕の数々を語り、彼女のすばらしさを熱弁して、時が経てば、ようやく恋の話も終えて、一旦は事なきを得たのであった。


 0時を過ぎた。

 祖母や老人会メンバーといった年配の人間は、すでに寝室に入ったり、帰ったり、姿を消している。

 

 12月の苫小牧は、死を感じさせられるほどの極寒である。


 煙草を吸うためには、そんな地獄へいかなければならない。


 億劫で、5時間近くもニコチンを絶っていた男だったが、お湯割りの酔いもあって、いよいよダウンジャケットを着こみ、紙煙草とライターを握って、外に出た。


 玄関の押戸を開けて、次に二重玄関のスライドドアをゆっくり開くと、寒波が勢いよく、男の顔を痛めつける。


 そのまま右の方へ、つまり、家の側面に回れば、車庫がある。そこは幾分か、寒さをしのげる場所である。


 庭の砂利道を歩くと、時々、張っていた氷が割れて、パキポキ、パキ、と、人が関節を鳴らしたときのような気持ちいい音が鳴る。


 そうして男が角まで着いたときである。


 従兄と、男の友人とが、コンクリート製の車庫に低い声を反響させて、話をしていた。


「あれ、どうだった?」

「正直、反応に困りますよね」


 男と舞子についての話である。


「な? まぁしかし、仕事もしてない奴に対して、飯作って、家の掃除して、洗濯して、とはねぇ……」

「それがどうしたんですか?」

「いいや、ただ……だなって。羨ましいわ」

「たしかに。でもちょっと、ブスはきついですよねwww」

「おいお前www それは最低だろwww」


 男の心は、氷のように、いとも簡単に、割れた。


 ただ、ここにいてはいけない。


 その判断だけは、やけに冷静に取れて、息を潜め、振り返り、自分がつけた足跡になぞって、音を発さぬように中へ戻った。


 タクシーを呼んで、まるでとんぼ返りするときのような緊迫で、逃げるように、いや、確実に、おんぼろのアパートに向かって、逃げた。



 男は早々に、恋を諦めることに決めた。


 あの時、男の心が、氷のように簡単に砕かれた理由は、美醜に関することではない。


 世間は、「男」に「女」が出来た時、第一に、「女」の美術品的価値を鑑定にかける。


 その在り方については疑問に思いながらも、男は、仕方のないこととして受け入れていた。それが人の本能である、と。


 しかし、


 舞子に与えられたその称号こそが、男の心を粉砕した言葉なのであった。


「女の人を見下している」


「女」に「女」を求める、あるいは、その女らしさに美学を感じるというのは、やはり、世間にとって、悪手らしい。


 終いには、女らしい女である舞子本人までもが「都合のいい女」と侮辱される。


 男は、世間に懺悔した。


 女に女らしさを求めて、ごめんなさい。

 舞子が女らしい女で、ごめんなさい。



 10月の苫小牧、外にはユキムシが飛んでいる。


 その虫はコバエくらいのサイズであって、しかしながら、コバエのように一心不乱になって飛び回ることはなく、ふわふわ、ほのぼの、しんしんと、優雅に宙を舞うのが特徴だ。


 さて、散歩道を歩くひとりの男の肩に、1匹のユキムシがくっついた。


 男はすぐに気が付いたのだが、それこそコバエなどの不快な虫がくっついた時みたいに、しっしと払いのけることはせず、さてどうしたものかと戸惑い、ただ歩調を緩めて様子を伺った。


 して、ゆっくり吹いた北風に、女の匂いが混じっているの感じ取り、男は反射的に顔を上げた。


「あっ」


 と、その女。みどり。


「おう」


 と、男。


 ふたりは数秒見つめ合って、互いに笑顔を浮かべた。

 しかし、みどりの方は、とても居心地が悪くなって、すぐに顔を暗くする。


「ほんと、くだらないね」


「そうだな」


「私さ、もうAと別れるかも」


「へぇ」


 恋とは、ギャンブルのようなものである。

 得るときは尽く得て、失うときは尽く失う。


 また北風が、今度は強く吹いた。

 近くの木から、栗が落ちる。


 ふたりはそれに注目して、また笑った。


「栗ご飯、つくっちゃるか? どうせまだ仕事もしてないんでしょ」


「おぉ、いいね。助かる」


 ふたりの思惑には、恋など、ない。

 男は今後も、みどりに女らしさを求めず、逆もまた然りなのだ。


 栗の木の根元にいき、ふたりは、しゃがみ込んだ。

 以前よりも時期がちょうどよく、ほどよく実った栗がたくさん落ちていた。


 みどりが持っていた布製のエコバッグに、それを10個ほど詰めて、そのまま、散歩道の方にではなく、木々の生い茂る道なき道を抜け、やがて、二車線の、変哲のない通りに出た。


 奥の方にはコンビニの看板が見える。


 その道すがら、ふたりは、あの友人に、ばったり出くわした。


「え? お前ら、……より戻したんか。ってか、おい、いいのかよ。……あ、いや」


 男は、友人が舞子のことを口走りそうになってどもったのが分かった。

 舞子のことを都合のいい女と言われた際に同調し、舞子をブスだと、ちゃんと、男のいないところで言った友人である。

 そして、みどりの前で、舞子の名前を出すのはまずいかもしれないと判断した友人である。


 男は友人に対して、常識のある人間だな、と評価した。


「あれはもう別れた。ブスだったからな」


 男は常識を逸れた。


 友人は、男が放った最低な理由に衝撃を受けて、ちらとみどりの方を見てから、若干眉をひそめて言う。


「お前、クズだなwww」


 男の友人はみどりとも顔見知りで、少し世間話をしてから、


「じゃあそろそろ」


 と、別れを切り出した。


 しかし、男の友人は、1歩だけ足を前に進めたところで、すぐに立ち止まった。


「あ、肩にユキムシついてんぞ。かわいいなあ」


「あぁ、これな。装飾だよ」


「ハハ。おしゃれだな。じゃあな」


 改めて去っていく友人の背中を見送る男とみどり。


 その友人の進む先に、コバエのような姿かたちの虫、ユスリカが、群れをなして飛んでいる。


 友人は鬱陶しそうに顔を右に左に動かし、手で空を斬り、しばらく経ってから、群れのうちの1匹が服にくっついていたことに気が付き、左肩の辺りを大袈裟に手で払った。


 男はその姿を見て、安堵した。

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良作が出来た。本当は「ユキムシ」っていうタイトルにしたいけど、そんな題名の小説じゃあそもそも読まれないからどうしようかな。んー、あとで考える。 林堂 悠 @rindo-haruka

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