第2話 価値ある芸術②

 「おや、まだ生きていたんですね。」

 大量に飲んだ睡眠薬のせいで、しゃべることはおろか、表情すらも作ることのできない青年に向かって、満足そうな笑みを浮かべながら紳士は言った。

 「どうですか、いまのご気分は。・・・生まれてきたことを怨み、これまでの人生を後悔し、絶望の果てに死を選ぶ。・・・なんて素敵なことなんだ。これこそ本物だ。」

 紳士は高ぶる気持ちを抑えきれず叫んだ。そして、青年にまだ息があることを知った紳士は、まるで、二人の思い出を語るかのように話しはじめた。

 

 「まずはご安心なさい、ここに残された絵は、全部私が買い取らせていただきます。そして、すべての絵を世の中に送り出しますから。私はずっと前から、あなたが自分の絵を路上で売り始めたころから、目をかけていたのです。あの頃のあなたは、身寄りもなく、天涯孤独で、自分の描き出す絵に自分の存在価値を見いだそうと一生懸命でしたねえ。やがて、世間知らずで、少し自惚れ気味な、あの素敵な奥さんと出会って、可愛いお子さんにも恵まれた。この時期にあなたが描いた絵は、なにかを打ち破ろうと力強く、そして、深い愛情に恵まれた清らかさに満たされ、観た者に心からの希望と安らぎを与える、初期の作品群として売り出すつもりです。そう、あの時に、私が買ったあなたの絵ですよ。あなたが画家になることを諦め、最後のフリーマーケットと思って出店していた、あの時の絵ですよ。でも、あの時は、私も少し焦りましたよ。せっかく見つけた芸術の原石が、みずから芸術を捨ててしまうなんて、あまりにももったいない話です。だから私は、あんな風にあなたを刺激して、また芸術だけで生きていこうと決意するように仕向けたのです。あの日以降のあなたは、芸術家として、本当に素晴らしかった。」


  紳士は高ぶる昂揚感を鎮めるように深呼吸をした。

 

 「私に認められたことで希望をいだいたあなたは、くる日もくる日も絵を描き続けましたねえ。でも、絵はまったく売れなかった。やがて、生活に困った、あなたのお若い奥さんは、夜の街で働くようになった。それでもあなたは、何かに憑りつかれたように絵を描き続け、絵のこと以外は何も目に入らなくなっていったのです。あなたが徹夜で絵を描いていたその日の朝、疲れ果てて家に帰ってきた奥さんが見つけたのは、浴槽に浮かんだアヒルの玩具と、底に沈んでいた息子さんだったそうじゃないですか。この出来事を境に、ご両親のもとに戻られた奥さんも、今では新しいご主人とお子さん達に囲まれて、あなたとの生活なんて、まるでなかったかのように、幸せに暮らしているらしいですよ。」

 完全に昏睡状態に陥っていたと思われた青年の体が、わずかながら動いた。

 「おや、まだ意識がありましたか。やっぱり家族のことは気になりますからねえ。でも、もう、あなたには家族はいないのですよ。」

 閉じられた瞼の端から、うっすらと涙をあふれさせた青年を横目に、紳士は、もはや悦びの表情を隠すこともなく、満面の笑みをたたえながら話を続けた。

 「それからのあなたは、悲しみと孤独から逃れるように、さらに絵を描くことに没頭していきましたねえ。でも、描いても描いても癒されることのない絶望感にさいなまれ、虚しさの果てに、とうとう今日を迎えたのです。とても素晴らしい、芸術的な生涯じゃないですか。今、この部屋にあるあなたの絵は、観る者達を深い孤独と悲しみの淵に落とし込むことでしょう。そして、すぐさま絶賛するのです。誰にも知られることもなく、過酷で悲惨な人生の中で絵を描き続け、誰にも知られることもなくこの世を去っていった若い芸術家のことを。」

 紳士はこの部屋にある青年の絵など、一枚たりとも観てはいないのだが、自信たっぷりな態度で話をした。

 紳士はもともと絵などにはまったく興味はなく、ましてや、その絵に描き込まれている作者の想いや意味合いなど、どうでもいいことだった。

 「いいかい君、いまどきこの世の中で、名も知れぬ人間の描いた絵なんぞに興味を持つ奴なんて、一人としていやしないし、ましてや、金を出して買おうと思う人間など、ただの一人もいないのです。だから私は、あなたのような人間を常に探し求めているのですよ。今回は、私の予想を遥かに上回る素晴らしい物語となりました。私は、孤独で悲しいあなたの短かった生涯を、大いに宣伝させてもらいますよ。久しぶりの大商いになることは間違いないことでしょう。なによりも、これからのあなたの絵には希少価値が・・・。」

 紳士がそこまで言いかけたとき、屋根に降り積もっていた雪が、すでに、青く晴れ渡っていた空からの陽射しを受け、大きな音を響かせながら軒下に落ちていった。その音で我に返ったような表情を浮かべた紳士は、あらためて青年の顔を覗き込んだ。

 青年はひとつ大きな深呼吸をすると、そのまま呼吸をとめた。それを見た紳士は一言つぶやいた。

 「これであなたの作品も価値ある芸術になりました。」

 

                                   完


 


 


 


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価値ある芸術 川田 海三 @19844

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