価値ある芸術

川田 海三

第1話 価値ある芸術①

 穏やかだった春の日曜日も終わろうとしていた。オフシーズンの観光地にある、海岸沿いの大きな公営駐車場で開催されていたフリーマーケット会場の片隅で、その青年は小さな溜息をつきながら一枚も売れなかった自分の絵を片付けていた。

 「あなた、そんなに気にすることはないわよ。」

 幼い息子の手を引いた青年の若い妻が優しい笑顔で話かけると、一緒に絵を片付けはじめた。青年にとって、今日は長い間追い求めてきた画家になる夢を諦める最後の日だった。

 「本当は今日売れた絵の代金で夕飯は外食でもしようと思っていたけど…ご免な。」

 「いいのよ気にしなくて。そんなことより早く帰って夕飯の支度をしなくっちゃ。明日からは、あなたも新しいお仕事になるし、今晩は沢山食べてゆっくり眠りましょう。」

 妻はいつものように明るく振る舞いながら、古びた軽自動車のバックドアを開けると、慣れた手つきで売れ残った絵を積み込みはじめた。


 「素晴らしい絵ですね。どなたが描かれたのですか。」

 きっちりとしたスーツに身を固め、ピカピカの革靴と、見るからに高級そうな腕時計をした紳士が、車に積み込もうと、絵を抱えていた妻に話しかけてきた。

 「お褒めを頂きありがとうございます。この絵はわたしの夫が描いたものです。でも、一枚も売れませんでした。今日で夫も画家になることを諦めました。」

 妻は少し悲しそうな笑顔でその紳士に答えた。

 「それは、それは。世の中、観る目のない人ばかりだ。こんな素晴らしい絵の価値が分からないなんて、本当に悲しい限りです。よろしかったら、ご主人が描かれた絵を、全部私に売って頂けないでしょうか。」

 紳士はそう言うと、スーツの内ポケットから名刺を取り出し妻に差し出した。妻は唖然とした表情で紳士の顔を見つめていたが、ふと我に返ると、「すぐに夫を連れてきますので少しお待ちください。」と言って青年のもとに走っていった。


 その日の晩、古びたアパートの一室にある青年の家は、久しぶりに明るい活気に満ち溢れていた。思いもよらない大金を手にし、普段は買うことのできない高級な食材をふんだんに使った夕飯を前に、まだやっと幼稚園に入園したばかりの一人息子は、帰りがけに青年から買ってもらった、黄色いアヒルの玩具を抱えながら、大はしゃぎをしていた。

 「やっぱり、絵だけで食べていこうと思うんだけど。いいかい。」

 青年はあの紳士の名刺を目の前に置いて妻に言った。その名刺には、日本はおろか世界的にも有名な画商の名前が印刷されていた。

 「当然よ、あんなに有名な人があなたの絵を認めてくれたんだもの。あなたは絵だけに専念して。あの人が買ってくれたお金で、当分のあいだは生活も大丈夫だし、それに、なんて言ったって、これからあなたの描く絵はどんどん売れていくのだから。だって、あんなに有名な画商からお墨付きを貰った画家の絵が売れない訳がないわ。これで、やっとこの子をわたしの両親に会わせることができるのね。」

 勝気で世間知らずなお嬢様育ちの妻は、青年とほとんど駆け落ち同然に家を飛び出し、今は勘当状態となっている実家の両親のことを思い出しながら涙を流した。青年も妻も、二人が出会ってから今日までのことを思い出していた。楽しかったことと、辛かったことを比べると、ほとんどの思い出は辛かったことばかりであった。だが、今、その辛かった思い出が、次々と愛おしい二人だけの思い出へと変わっていくのを実感していた。


 あの幸せな晩から数年が経った真冬のある朝のことだった。

 その日は深夜から雪が降り積り、あたり一面が白い静寂に覆われていた。古びたアパートの一室にある青年の部屋には、これといった暖房器具もなく、底冷えのするその室内には、あまりにも変わり果てた姿の青年が、あの日以来、一枚も売れることのなかった沢山の絵に囲まれるように横たわっていた。

 青年の枕元には睡眠薬の空瓶が転がっていた。幼い頃、親に捨てられ養護施設で育った青年には、家を出て行った妻以外に身寄りもなく、誰も訪ねて来ることのないこの部屋で、静かに命が尽きるのを待っていた。

 不意に部屋のドアが開き誰かが入ってきた。青年には、すでに体を動かす力は残っておらず、薄れゆく意識の中で重い瞼をやっとの思いであけると、そこには青年を覗き込む、あの画商の紳士の顔があった。


 


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