霧時雨と竜胆

 山肌を撫でる霧時雨は、私と世界を遮断する。視界が白に覆われるこの季節、この時間だけは、小さな田舎町で孤独を感じることができた。私は小さい頃から、過干渉な親も隣人の愛情も飽食気味で、一人で過ごすのが好きだった。だから大学進学を機に都会に行き、そのまま就職した。そんな私がこの町に戻ってきたのは、心が空っぽになってしまったからだ。

 空っぽの心を埋める物は、何もないこの町にはなかった。だから私は霧時雨に溶け合ってしまいたいと、冷たい空気で肺を満たす。そうして咳き込むと、生きているのだと実感して理由もなく悲しくなった。




 地元に戻ってきてから朝の散歩を日課にしていた私は、ある日、この町に似合わない人とすれ違った。綺麗に整えられた髪、皺一つない洋服、汚れのない靴、そして香水……私が必死に演じていた、憧れていた都会の人間だった。都会に出て働いていた私がこの町に帰ってきたのは、都会の人間でいられなかったからだ。会社の先輩に、私は田舎者臭いのだと言われた。見た目も、持っている物も、匂いですら――。貴方は恥ずかしい人間だと言われる度に、自分は本当にそういう人間なのだと思うようになった。いつしか大好きだった化粧はできなくなったし、お気に入りの香水は苦手になった。


 ――霧時雨の中、会釈だけ交わしたその人は花の香りがした。




 あの日から、私達は冷たい朝の空気に包まれ、何度もすれ違うようになった。親が言うにその人は、体調を崩した祖母の面倒を見に来る孫らしい。都会で仕事をしながら家族の面倒を見る孝行者だ。対する私は田舎を捨てて都会に行って、勝手に体調を崩して帰ってきた。親からそれを責められたように感じて、そのことを知った日から散歩は遠出をするようになった。人のいないこの町では、毛玉ばかりのスウェットでも気にならない。


 澄んだ空気に包まれて歩いていると、不意にその人の香りを思い出した。ふと道の脇に視線を移せば、ぽつんと竜胆が咲いている。私は近付いて、紫色の花に鼻を寄せた。

 ……微かに、あの人を感じる。

 私は竜胆を根元から手折って家に持ち帰ることにする。この山がどの家の物か覚えていないが、竜胆一つでどうこう言われることはない筈だ。体温で萎びてしまわないように軽く手で持って、家に帰るため来た道を引き返す。この花を大切にしたいと思ってしまった理由は、この香りを身に纏うあの人が私の夢見た姿だったからだろう。叶わなかった夢は、憧れと悲しみ、そして僅かばかりの嫉妬を私に抱かせた。


 家に帰ると、玄関前にあの人がいた。仕事を辞めてから家族以外と殆ど話していない私は、怖くなって思わず立ち止まる。おそらく、酷い顔もしていただろう。それでもあの人は優しく笑みを浮かべて歩み寄ってきた。

 ――花より、良い匂いだな。

 香りの薄い本物の竜胆よりも華やかで、都会的な雰囲気によく似合っていた。竜胆なんてこんな田舎に生えるような植物だというのに、この人が纏うと自分の生まれ故郷を忘れてしまうらしい。私も、生まれ故郷を忘れて都会の人間になってみたかった。


 竜胆の人は、面倒を見ているおばあさんの近所に挨拶をして回っているらしかった。どうやらおばあさんの施設入りが決まったらしい。誰も住まなくなる家もいずれ取り壊すと言う。そうなれば、もうこの人と会うことはないだろう。貰った菓子折りもどうせすぐに食べてしまうから、残る物は何もない――この香り以外。

 簡単な挨拶だけだったから、長い時間を一緒にいた訳ではない。それでもあの人の香りは僅か数分で、否、今まですれ違う度に私の中に染み込んでいた。


 裏の畑から帰ってきた両親に貰った菓子折りを見せると、お母さんは思い出した様に声を上げた。どうやら以前も何か貰っていたようで、そのお礼をしたかったらしい。お母さんが慌てて家を出て行くと、お父さんは物置になっている机から小さな紙袋を手に取って渡してきた。もう少し元気になってから渡そうと思っていたと言ったお父さんは、お母さんが長話をしてくるであろうことを見越して朝ご飯の準備を始める。私はそれを手伝おうとも思わず、小さな紙袋に入った小箱とメッセージカードを取り出した。

 小さな香水瓶が入っていた。スプレー部分に鼻を近付けて匂いを嗅げば、あの人の竜胆。私は驚いてメッセージカードを見る。


 いつも祖母がお世話になっています。

 祖母から、お仕事で苦労されたのだと聞きました。

 少しでも安らいで欲しいと祖母は手製の香り袋を贈りたいと言っていたのですが、麻痺の影響で手が悪く作れそうにありませんでした。代わりに祖母が好きな香りだと言った、こちらの香水を贈らせて頂きます。

 不要であれば、処分していただいて結構です。

 どうか、ご自愛ください。


 嬉しい手紙の筈なのに、なぜだか目の奥がじわりと熱くなって鼻の奥がつんとする。それに気が付いたお父さんは私のマグカップに注いだコーヒーに、いつもより少し多めの砂糖を入れた。そして「お父さん達はどこにいても味方だからな」と慣れない格好の付け方をして、恥ずかしそうにキッチンの奥に引っ込んだ。

 朝食を食べ終えたら、朝の支度をしよう。毛玉だらけの服を脱いで、ぼさぼさの髪を梳かして、この香水を付けてみよう。どこに出かける予定もないけれど、久しぶりに化粧もしてみようかな――。


 空っぽになった心、あの人の香りが悲しみに寄り添った。

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霧時雨と竜胆 南木 憂 @y_ktbys

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