Chapter 6-5
ひらりと。
黒い羽根が舞い散る。
ひらりと。
黒い翼がはためく。
目の前にいるのはもう、俺の知っている空じゃないのか――?
「は。はは。はははははははははは!! なんだいこりゃあ、上手く行き過ぎだろう!」
崩れ落ちそうになった空の身体を、ゲイルは抱き留めた。
「どうだい、神埼空。ただの人間様から、一瞬にして『黒翼機関』のエキスパートになった気分は」
「あ、た、し……」
ゲイルの問いに、空は茫洋とした様子で呟いたが、
「ふふっ、なんだか、愉しいです」
直ぐに恍惚とした笑みを湛えて答えた。
それに満足気な笑みを浮かべたゲイルは、京太に向かって問うてくる。
「なあ扇空寺京太。これでこの子も立派な化け物だ。それでもまだ、この子には守ってやる価値があるってのかい?」
空。神埼空。京太にとって、今最も大切な人。何の力もない一般人。京太とは、違う世界に生きるべき存在。
それが、壊れた。空はもう、俺の知っている空じゃなくなってしまった。空はもう、俺の守るべき存在ではなくなってしまった……のか?
違う。そんなはずがない。どうなってしまっても空は空だ。空は、俺の。
「当たり前だ……!!」
京太は立ち上がる。拳を握り締め、ゲイルを睨み付ける。
「そうかい。じゃあ、始めようか」
ゲイルは空から手を離し、彼女の耳元に唇を寄せ、告げた。
「殺し合いだよ」
空の口許が薄く吊り上がる。翼をはためかせる。
ゲイルは後方に下がった。高みの見物を決め込むつもりか。
空は屋根を蹴って僅かに浮遊すると、次に大きく翼を動かし、羽ばたきながら京太へ突撃した。構えた拳に水流を纏わせ、殴り掛かる。
これを京太は交差させた腕で受け止める。水流は空の腕で円を描くかのように絶えず循環し続け、勢いを増していく。さながら刃のように鋭利に、焔のように激しく京太を攻め立てる。
京太は反撃もできず耐え忍ぶ。例え今の空が正気を失っているのだとしても、彼女と戦う事など京太にはできない。したくない。物理的にも精神的にも、彼女だけは傷付けられない。
空は拳を引き、続いて水流を伴った蹴りを繰り出してきた。蹴り自体はか弱いものだが、纏う水流がまるで鈍器のように重い一撃へと昇華させる。これを京太は腕を交差させて直撃を防ぐも、その衝撃に屋根の上から吹き飛ばされてしまう。
「若様!」
庭園へ落下していくしかなかった京太を受け止めたのは美里だった。背後から抱えられたが、同時に指を弾く音。ゲイルが目の前に現れ、蹴り飛ばされる。辛うじて防御し、受け身を取る事ができたが、空も庭園に降り立ち、京太に笑みを投げ掛けてくる。
背の黒翼から、黒羽が舞い散る。
「ねぇ、遊ぼうよ京太」
「止めとけ。お前と遊んでる暇も、そのつもりもねぇ」
京太は苦々しげに言ったが、空は笑みを浮かべたまま、悪戯な子供が拗ねたような表情を作る。
「えー。そんなこと言ってるとー」
空の身体が、突如液体状になって地面へと溶けるように消えた。
「殺しちゃ・う・ぞ」
声は耳元から聞こえた。
いつの間にそこへ移動していたのか。空は京太の背後にいた。首元に腕を絡め、抱き締めてくる。
それは恋人同士の甘い抱擁ではない。力任せに首を絞め殺す為のものだ。
「そ、ら……」
「ほらぁ、振り解かないと本当に死んじゃうよぉ?」
京太の首が締まる。息が苦しくなっていく。命の危機が間近に迫る中で、京太の瞳の紅が更に深みを増す。
「う、おおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
京太は空の腕を掴み、引き剥がす。
生存本能が、防衛本能が、目の前の敵を倒せと叫ぶ。本能が――鬼としての京太が、戦いを望んでいる。
つまりそれは、京太自身が空との殺し合いを渇望していると言う事だ。
そんなバカな真似ができるか――! 京太は内心で吐き捨て、空から手を離して距離を取る。
戦えない。しかし、かと言って逃げる訳にもいかない。空を元に戻して、助けられる方法を京太は空の元から飛び退く刹那の間に模索する。ゲイルの相手を美里たちがしてくれている今、活路を見い出すにはこのタイミングしかない。
現在の空は、『ラグナロク』により植え付けられた魔力回路に瞬時に適合した。それが元々素質があった為なのか、または別の理由に依るものなのかは分からないが、事実として空は薬によって得られる莫大な力をたった一瞬でものにしてしまった。
更にゲイルが細剣を突き立てた瞬間、空は黒羽の力まで得てしまった。ゲイルは彼女がエキスパートになったと言っていた。つまり今の空はただの人間ではない。魔法使いとしても高い戦闘能力を持つ、『黒翼機関』のエキスパートなのだ。
だが。彼女が他のエキスパートたちと明確に違う部分が一つある。それは経験だ。これまで京太が見て来たエキスパートたちは、少なからず戦闘の経験を重ねてきた猛者たちだった。空にはそれがない。だからこそ京太は、反撃できないという枷を背負っているにも関わらず対等に渡り合っている。
しかしそれも時間の問題か。一合交える毎に、空の戦い方は洗練されていっているように感じる。現に、防御こそできていても屋上から吹き飛ばされているし、たった今、後ろを取られたばかりだ。
時間――。京太は引っ掛かりを覚えた。そうか。『ラグナロク』には効き目の時間制限があるはずだ。朔羅たちと樹理の戦闘が中断されたのもそれが原因だった。どこまで行っても薬は薬だ。永遠に効果が続く筈もない。
ならば。京太は肝を据える。
空の『ラグナロク』が効力を失うまで耐え忍ぶ。その瞬間に空を連れて撤退する。この場を切り抜ける方法は、今はそれしか思い浮かばない。
「いいぜ、空」
京太は腰を落として徒手空拳の構えを取る。刀のない今、体術だけで空の攻撃をいなし続けなければならない。扇空寺流にも体術の型はあるが、それはあくまで帯刀していない時の護身用であると共に、刀を運ぶ足捌きを身に付ける為のものに過ぎない。
「お前の気の済むまで遊んでやる。来な」
だが今は、身に付けた体術が護身用である事に感謝すべきなのかもしれない。
空は笑みを深めて、地を蹴った。翼を広げ、水流を纏った拳を翳して京太へと滑空してくる。繰り出された右の拳は単調な軌道だ。京太目掛けて一直線に振り抜くストレート。これを京太は真正面で受けはせず、あくまでいなす。拳の内側に入り、側面から空の腕を掴んで引く。懐に巻き込むかのように引っ張ってやると、空の顔がこちらの顔にぶつかりそうな所まで近付く。
空はほんの一瞬の出来事に、呆気に取られたような顔をして京太と目を合わせる。京太はそのまま、空いている左手で空の襟を掴み、投げ飛ばす体勢を取った。が、瞬時にそれを悟った空は驚くどころか返って笑みを深めた。
風がごう、と吹き荒れた。空が背の翼をはためかせたのだ。足のバランスを崩した京太は、空から手を離して地面を転がる。空から距離を取って立ち上がり、体勢を立て直す。
見上げた先では、空も空中で身を翻して静止する。
――護身である以上、必要以上に相手を傷付ける性質はない。己の力の使い方に細心の注意を払えばいい。京太はこの技を教えてくれた祖父や、編み出してきた先達たちへ感謝の念を捧げる。
そりゃあ少しは痛いかもしれねぇが、我慢してくれよ。京太は痛む心を堪えながら、胸中で呟く。当の空は、楽しくなってきたとでも言わんばかりの笑みを浮かべてこちらを見ている。
さあ、次はどっから来る。
京太は息を長く吐き、改めて腰を落とす。
薬が切れるのが先か、俺が殺されるのが先か。京太は背後で戦う仲間たちに、改めてゲイルとの戦いを託して空の出方を窺う。
――根競べといこうじゃねぇか。
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