Chapter 1-2
朝を迎え、梅雨を間近に控えた竹林に木漏れ日が差す。静かにそよぐ風に揺れる、笹が奏でる音色に耳を傾けながら、京太は目を閉じて精神を自然と調和させていく。
道着に身を包んだ京太は左手に竹刀を握り、待つ。風と笹の交響曲の中に混じる微細な不協和音を決して聞き逃さないよう、研ぎ澄まされた精神は五感を身体の外側にまで張り巡らせるかの如く鋭敏化させていく。
右。僅かに捉えたその音を耳で確実に拾い上げる。静かに、だが凄まじい速度で迫り来る気配を肌身に感じ取る。
そして気配の主は大きく跳躍を伴って京太の前に躍り出た。目を閉じたままの京太にはそれが誰かまでをうかがい知ることができない。気配の主は獲物を手に、今まさに京太の眼前まで迫っていた。
――扇空寺流『朧桜』。
しかし京太はそのまま、竹刀を振り翳し相手の獲物と交錯させる。ひらり、と舞い散る桜の如く完全に相手の攻撃をいなした京太は返す刀で相手の胴を打ち据える。
京太の目はまだ閉じられたままだ。肌身に感じ取る気配の数は一つではない。四方八方から京太ただ一人を目指して竹林を突き進んで来る。
次に現れた気配は二つ。一つは上方から、もう一つは京太から見て右からだ。更にその後方からも間もなく一つの気配が迫る。
――扇空寺流『朧蓮華』。
京太は身体をぐらりと揺らしつつ、まず眼前に襲い来る二つの獲物を瞬時に、一つずつ今度はいなす間もなく打ち据える。更にその隙を狙って現れたもう一つを慣性のままに打ち払い、胴を入れる。
際限なく現れる気配を、京太はただひたすらにいなし、打ち据えていく。残る気配が二つとなった瞬間、京太はようやくその目を開いた。
すると京太の視界にまず飛び込んできたのは、竹棒を構え現れた棗だ。棗は京太が目を開いたのを見て一瞬怯んだような表情を見せたが、すぐにそれを収めて突きを繰り出す。
――扇空寺流『朧楓』。
京太はそれを確実に竹刀の刀身と交錯させ受け流す。突きを交わされた棗であったが単調な一撃は牽制も兼ねてあったのだろう。すぐさま反転し薙ぎ払いを仕掛けて来る。
同時に、京太の背後から迫る気配があった。今までのどの気配よりもそれを隠して迫って来るが、目を開いて尚研ぎ澄まされたまま維持されている京太の五感は完璧に察知していた。
それが誰であるかも感じ取った京太は棗の槍を避ける為に大きく横転する。瞬間、京太の元いた場所で棗の槍が空を切り、更に京太へと軌道を修正して下段から逆袈裟に竹刀を振り抜かんと現れた紗悠里の刀が迫る。
だが京太は怯む事無く、振り下ろす竹刀で紗悠里と切り結んだ。刀身の押し合いは拮抗し、硬直状態へ入ろうとした所で――。
京太の背後から、拍手の音が聞こえてきた。
「流石ですわ、お兄様。朝から鍛錬に余念がないんですのね」
その声に、京太は紗悠里と視線を交わして竹刀を収め合った。
振り返り、不敵な笑みで声の主を迎える。これだけの動きをして尚、京太は息一つ上がっていなかった。
「どうしたい、朝っぱらから。お姫様がこんな物騒なトコに何の用だ?」
「あら、お兄様。将来の伴侶に向かってそんな風におっしゃらなくても」
いかにも清楚なお嬢様学校の物、といった制服のスカートの裾を軽く持ち上げつつ、声の主である少女は頭を下げた。隣に控えるメイド服の少女も深く頭を下げてきた。
「そいつぁ結構。でもお前の決める事じゃねぇな、姫奈多」
京太の言葉に「あら」と小首を傾げる制服の彼女は、
まだ中学一年生になったばかりの彼女は、その年齢と幼い容姿にまるでそぐわない落ち着き払った所作を見せる。
「そう言えば、お兄様にこの制服姿を見て頂くのは初めてでしたよね。どうでしょう、似合っていますかしら」
姫奈多は微笑みながらその場でくるりと回転してみせた。姫奈多の纏うそれは、あやめと同じ私立
「ふふ」と吐息が漏れ出ている辺りを察するに、もしかしたら見た目以上にはしゃいでいるのかもしれない。
「お嬢様。お言葉ですが、京太様がお困りのご様子です」
京太が答えもせずに肩を竦めていると、メイド服の少女が口を開いた。綾瀬雪。姫奈多とあやめの側近兼世話係で、京太も何度か顔を合わせたことがある。随分無愛想な女だな、くらいの感想しか抱いた事はないが。
綾瀬の言葉に回転を止めた姫奈多は、頬を膨らませて綾瀬を見やる。ようやく年相応の少女らしい表情をしたな、と京太は頭の片隅で思う。
「もう、雪さんったらそんな言い方をなさって。そんなことありませんわよ。お兄様は私のかわいらしさに見惚れていただけです。ね、そうですわよね、お兄様?」
「んなわけねぇだろ」
京太の放った一言に、姫奈多は「はうっ……!」などと呟きながら崩れ落ちる。膝や手が土に汚れる事も気にする素振りもなく四つん這いになり、項垂れながらも「でも、でも……っ!」とうわ言のように続け、
「六月からは夏服になってしまいますから、冬服を見て頂けて幸いでしたわっ!」
京太も思わず感心してしまった程の速さで立ち直った。すっと立ち上がりしてやったりといった表情で胸を張るその様子は、確かにお嬢様らしいと言えばお嬢様らしい仕草ではあったが、京太の中にある姫奈多のイメージからはかけ離れていた。
こいつ、こんな奴だったっけか。
京太は思い返してみる。思えば、姫奈多と出会ったのはあやめと彼女が義姉妹になった時ではない。
何故ならあやめが養子に出た時、当時四歳の姫奈多は四条家にはいなかった。姫奈多の実父であり、あやめの養父である当時の四条家当主が言うには、姫奈多は妻に連れられ家を出て行ってしまったそうだ。
そんな姫奈多が四条家に戻って来たのは京太が小学四年生の時、七年前のことだ。妹が帰って来たとはしゃぐあやめが姫奈多を連れて来た時、彼女はこう挨拶してきた。
「初めまして、お兄様。四条姫奈多と申します。……お兄様。実は私、かの大魔法使いイリス・ウィザーズ様のたった一人の弟子なんですよ」
イリス・ウィザーズ。それは京太の祖母である女性の名だ。京太が記憶を失って以後消息を絶っていた彼女は、姫奈多によれば今もどこかで隠居生活を送っているはずだという。
そして姫奈多が今まで四条家から姿を消していたのは、イリスの弟子として彼女の元で魔法使いの修業をしていたからだ、と。
そして京太が中学三年生となり高校受験を間近に控えた頃、前四条家当主が若くして亡くなった。癒しの力を持つ四条家だが、その力故に短命なのだと言う。新たな当主の座に就いたのはあやめだった。
こうして来歴を思い返す中で脳裡を過ぎる姫奈多は幼い頃から、年齢に不相応な清楚な振る舞いを見せていた。伴侶だのと言った発言も昔からだ。
もちろん、姫奈多と顔を合わせる機会はあやめと同じく年に数回しかない。京太が知っているのは彼女のほんの一面に過ぎない事は当然と言えば当然であった。
「それはさておき。では、本題に入りましょう」
と。姫奈多は元の清楚な微笑みを取り戻し、京太を真っ直ぐに見つめてきた。物思いに耽っていた京太の意識も目の前の現実に引き戻される。
「『ラグナロク』という新型ドラッグについて、お兄様は何かご存じですか?」
京太は、その表情から笑みを消した。
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