Chapter5 絆は運命という言葉で断ち切れはしない

Chapter 5-1

 皮膚が焼けただれんばかりの熱量に、京太の意識は呼び起された。


 由緒正しき木造の日本家屋。その一室に京太は呆然と立ち尽くしていた。但し今、部屋は本来の静謐さを失い、嵐のように轟と音を立てて燃え広がる灼熱によって見るも無残な姿へと変貌していた。この異常な光景を認識した途端、未だ夢現のまどろみのなかに佇んでいたかのような京太の意識は完全に覚醒した。


 見覚えがあるどころの話ではない。これは昨日、悪夢として蘇ったあの日の記憶と全く同じ光景だった。違うのは、妹を必死で守ろうとした幼い自分もその妹も、彼らの前で父の凶刃に倒れた母も修羅と化した父もいないことだ。現在の姿でこの場に立つ京太の前に立っていたのは、一人の男だった。背を向けて佇む長身の彼の姿は、揺らめく炎のなかに紛れて上手く認識できない。辛うじて分かるのはその長身と、黒く染め上げられた和装束、そして左手に携えた大太刀くらいのものだ。


 京太は条件反射の如く腰を落とし、左手を刀の柄に添える。その握り心地に『龍伽』を認識して、ふと違和感に囚われた。鬼装束をまとった自分は今まさに、扇空寺の鬼たる姿でここに参じている。


 陽炎のように思える緩慢な動作で彼が振り返る。その相貌を目の当たりにして、京太は驚愕に目を瞠って凍り付いた。彼は――京太と同じ顔の彼は、にやりと口許を歪めて京太を睥睨する。炎が瞬間的に大きく退いたところで、彼の全身が垣間見えた。たった一瞬であろうと、見紛うはずもない。その着衣は京太と同じ鬼装束。構える大太刀はまさしく『龍伽』そのものである。京太が持つそれと全く同じ獲物を掲げる彼の瞳は、鮮血のように真っ赤に染まっていた。


 殺意だけを以て、その瞳は京太を正面から射抜く。京太は違和感の正体を悟った。眼前に聳える者こそ鬼という存在に違いない。だが今の自分は、姿形はそれそのものでありながらも中身のまるで伴わない、ただの人間でしかなかった。


「なるほどな……。てめぇが鬼ってやつか、全く」


 ようやく絞り出した声で呟いて、記憶の中の父を思い起こす。その姿は、目の前の鬼に皮肉なほど酷似していた。


 京太は早々に『龍伽』の刀身を抜き放った。強過ぎる炎の照り返しのなかで、尚研ぎ澄まされた輝きを放つ宝剣であったが、今の京太にしてみればそれすらもどこか心許ない物に映ってしまう。普段ならば鞘に納めたまま立ち回り、必殺の一撃を見舞うときにだけ見せる刀身をこの時点で抜いてしまうのは、ひとえに二者の力量差を露呈するものだった。鬼に相対する京太の瞳は黒い。京太は自身の内に存在する筈の鬼の力を、完全に喪失していた。ただの一度も打ち合っていないにも関わらず、力の差は歴然としていたのである。


「――殺す」


 そう聞こえたのも束の間、鬼は床を蹴り京太の懐へ斬り込んだ。必殺の逆袈裟に、京太が辛うじて反応できたのは修練の賜物であろう。切り結びながらも、しかし京太は腕力だけで強引に弾き飛ばされる。大きく宙を舞った京太は、しかしながら華麗に受け身を取って体勢を立て直す。


 今の太刀筋は間違いなく扇空寺流、烈の型『炎』であった。その力でねじ伏せるというスタイルは、鬼の尋常ならざる身体能力を以てすれば速さも兼ね揃えた恐ろしい戦技と化す。扇空寺流は現代において四つに分かれたが、そのオリジナルは代々の扇空寺組頭領にのみ一子相伝で受け継がれてきた。つまり現在、オリジナルの扇空寺流を操るのは京太ただ一人である。その京太から見て、彼の鬼が操る剣術はまさしく、オリジナルのそれであった。


 自身と同じ姿を象った鬼。その正体が見えてきた。


「てめぇは俺のなかの鬼の血そのもの、ってことか」


 それがなぜ姿形を伴って京太の前に立っているのかまでは分からないが、そうと断定するに充分な材料は揃っていた。だから京太と同じ姿をしている。だから京太と同じ剣技を扱える。だから京太は今、鬼になれない。逆説的にはそう考えるのが妥当と言えた。


 京太の言葉に、鬼は何も答えない。狂気に頬を歪めたまま、二の太刀を浴びせるべく再び京太へ疾駆する。


 真正面から袈裟懸けに斬り付けてきた神速のそれを、京太は避けることも叶わず刀身で受けるしかなかった。力任せに弾かれ、追撃の逆袈裟が迫る。これに叩きつけんばかりの勢いで振り下ろした『龍伽』で切り結ぶと、尚もそれを弾き返し京太を追い詰める。撃っては弾き、を繰り返すに終始した剣戟の交錯は、なぜか拮抗状態にあった。あらゆる方向から幾度となく繰り出される凶刃はしかし、どれも必殺の一撃足りえない。不意に繰り出された蹴りに、京太は反応しきれず蹴り飛ばされた。床を転がり、蹴り穿たれた右胸を抑えながら立ち上がる。肋骨を粉砕せんとした一撃もまた、それでも京太を殺すには至らない。


 鬼は、嗤っていた。京太を嘲笑い、弄んでいる。殺し合いを楽しみ、それだけのために生きる化け物がそこにいた。


 刀を持つ手が震える。今の京太にあの鬼を討つことができるかと問われれば甚だ疑問であった。記憶を取り戻した京太にとって、ここはそれを封じてしまうほど恐怖した世界に他ならない。彼のなかに最も鮮烈に残っている死のイメージだと言い換えてもいい。


 京太は、自身の持つ鬼の力をこの世の何よりも恐れている。力を行使するたびに苛まれていた、人間という存在から隔絶されていく感覚が堪らなく厭だった。その理由がようやく分かった。全てはこの忌まわしい記憶に起因していたのだ。父の最期が、京太に鬼の力への恐怖を刷り込んだ。絶対なる死の象徴。全ての生物にとって不可避の概念の具現として、京太のなかに深く刻み込まれていたためであった。


「ちっ……!」


 無理にでも手に力を込める。ここで刀を握れなければ自分が死ぬだけだ。承知の上でも、手の震えは止まらない。止まるはずもなかった。第一この振動する両手を抑え込めたところで、京太は果たしてこの刀で敵を斬ることができるだろうか。


 答えは、否だ。


 ――怖がらないで。


 不意に、京太の脳裏に響く声があった。優しく奏でられたのは少女の声。辺りに声の主であろう姿は見えない。どこまでも、果てなき悪夢が続くばかりだ。それでも京太は、声の主が誰であるかを瞬時に看破した。


「鈴詠……?」


 呼びかけると、不可視の人物に笑みが浮かんだような気がした。懐かしい声だった。四年振りにも関わらず声だけで彼女だと判別できたのは、絆の強さの象徴だろうか。


 ――大丈夫だよ、京太君。怖がらないで。


 ふわりと、京太は暖かい温もりに包まれるような錯覚に囚われた。誰かが自分を抱きしめてくれている。それはかつて身を挺して自分たちを守ってくれた母の、あの温もりに似ていた。


 ――あれは他の誰でもない、京太君自身だもん。


「俺、自身……」


 京太は正面に立つ鬼を見つめる。京太と全く同じ姿形をした、人間とは別の何かだ。だがそれでも、その力が今まで京太の中に存在していた事実に変わりはない。悪夢の始まりの日、覚醒したそれはこれまで京太と共に在った。どうやら畏れの余り失念していたらしい。誓ったではないか。あの姿を以て全ての魔を討ち倒すと。


 あれは、俺だ。


 京太は『龍伽』を手放し、両腕を大きく広げた。彼の姿に、鬼は歪んだ口許を更に歪曲させて刀を走らせるべく疾駆する。大きく振りかざした大太刀の刀身が、京太を袈裟懸けに斬り裂かんとして迫る。


 鬼の放った刃は、容赦なく京太の身を斬り刻んだ。肩口から腰までを抉り、その肉圧に神速の斬撃は勢いを落としながらも鬼の驚異的な膂力を以て振り抜かれんとして。


 半ばにして、京太の身体に突き刺さったかのように止まった。


 京太はにやりと笑みを形作りその刀身を握った。傷口から噴き出る大量の血も、刃を握る手から滲み出る血も構いはしない。驚愕に表情を染めた鬼を悄然と見据える。


「さぁて、いい加減戻ってきな。てめぇは俺だ。俺の力だ。勝手に暴れ回んのも大概にしやがれ!」


 その手に扼した刃が音を立てて折れる。鬼の手にした大太刀は折れた個所から罅割れ、砕けていく。つばが壊れ、柄が砕け、遂には鬼の体までもが強度の限界に達した彫刻のように割れる。


 後に残ったのは炎に包まれた地獄のような世界だけだった。炎に焼かれ、支えを失った梁が崩れていく。それでも炎は周りの全てを焼き尽くすのを止めない。世界を覆い尽くす赤い力の奔流は、そのまま何もかもをも呑み込んでしまう。


 燃え盛る火炎は、鬼となった京太の瞳の色に似ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る