Chapter 1-2
京太の祖父・辰真は古流剣術の達人である。扇空寺流と呼ばれるそれは一子相伝の秘技であり、つまるところ京太はそれを受け継ぐべき立場にあった。
「それで京太。お前、まだ頭領になるつもりはねぇのかい」
「だから言ってんだろ、興味ねぇって」
稽古を終えた後の道場で、正座で向かい合う京太に辰真が訊ねると帰ってきたのはいつも通りの返答だった。
既に古希に達した身でありながらも、汗だくで息を整える京太に対して汗一つ掻かず、呼吸もまるで乱れてはいない体力は流石と言うべきか。
こうして、京太は毎日、朝早くから稽古をつけられていた。その技量は辰真に言わせればまだまだと言ったところだ。
「……学校は、もう夏休みか」
「ん? ああ、そうだけど」
「そうかい。そいつぁ結構だ。ま、今のうちに楽しめるこたぁしっかり楽しんでおきな」
「……あいよ」
※ ※ ※
訪れた夏休みも、京太にとっては平時となんら変わらない無為な時間に過ぎなかった。鍛錬の時間を終えれば、後に続くのはひたすら暇を持て余すだけ。
だがそれも、七月終わりまでの話であった。
読み終わった本の返却の為に訪れた図書館で、ついでに静かで涼しい場所で宿題を進めてもいいだろうとノートを開いていると、隣に現れた人影に京太は顔を上げる。
「こんにちは京太君。合席、いいかな」
鈴詠だった。栗色の髪は今日はツーサイドアップに纏められていた。
「ああ。好きにしな」
穏やかな笑みを向けてくる鈴詠に対し、京太は素っ気なく返事するに留めた。それでも満足したのか、鈴詠は六人掛けの机の京太から一席空けた隣の席に座った。
特に示し合わせた訳でもない偶然であったが、京太は気に留める事もなく宿題を進めた。鈴詠も目的は京太と同じだったのだろう、鞄から宿題を出し、眼鏡を掛けて取り組み始める。
順調に問題を解いていく京太だが、ふと隣の方から感じる視線に思わずそちらを見やった。すると横目にこちらの様子を窺っていた鈴詠と視線が合う。
「どうした?」
「あ、ううん。何でもないよ」
訊ねると苦笑いしつつ鈴詠は視線をノートに戻してしまう。その横顔はどこか嬉しげであったが京太には彼女がどうしてそんな表情をするのかまるで分からなかった。
「あ、空」
そんな鈴詠は入口を潜った人物に目を留め、眼鏡を外して手を振った。京太もそちらを見やると、たった今図書館に入ってきた空がこちらへ手を振りながら向かってくる所であった。
「お待たせー、鈴詠。あれれ、京太も一緒だったの?」
京太たちの元へ歩み寄ってきた空は屈託のない笑みで開口一番にそう言った。「それならそうと言ってくれればよかったのにぃ、もう」などと茶らける意味は京太には理解しがたかったが、鈴詠には分かったらしく、彼女は頬を軽く染めながらも図書館である事を考慮して小声で抗議する。
「ち、違うよ。たまたま会っただけなんだからっ」
「はいはい分かってますよーっと」と手をぱたつかせながら、空は借りていた本を先に反して来ると告げてカウンターへ向かった。
「……あ、あの、ち、違うからね。本当に、たまたま、偶然ここで空と勉強しようって待ち合わせてただけなの」
何故か鈴詠は取り乱した様子で必死に弁解してくる。それがどうにも可笑しくて、この頃には珍しく京太は思わず吹き出してしまった。
「あうう……。ごめんね、京太君。何言ってるんだろ、私」
「いや、こっちこそ済まねぇ。……それにしてもよ、お前と空って仲いいよな」
話題を変えて鈴詠を落ち着かせる意味でも、京太は思い付いた事を訊ねてみた。大人し目で決して目立つタイプではないが、面倒見がよい為男女問わず一定の人気があるのがこの織原鈴詠と言う少女だ。
その為友人の多い鈴詠であったが彼女が京太の知る限り唯一名前を呼び捨てにしているのが空である。
傍目から見ても対照的な二人であったが、それ故馬が合うのかもしれない。
何とか落ち着きを取り戻した鈴詠は、京太の問いに訥々と答え始める。
「うん。空とは保育園も一緒だったし、それに……」
と。鈴詠は言葉を切って京太を見やる。京太が顔をしかめて「なんだよ」と問うも、鈴詠はすぐに視線を落として首を横に振った。
「ううん、なんでもないよ。……空は大切な、幼馴染みだから」
そこへ本を返し終わった空が帰って来て、京太たちは宿題の方へ意識を戻した。
やがて、空が思い出したように声を上げる。
「あ、そうだ。京太って予定空いてるー? 空いてるなら夏祭り行こうよ。水輝と双刃も誘ってさ、みんなで行ったら楽しそうだよねー」
「うん、いいねそれ。……ダメ、かな」
夏祭り、か。
「いや。いいぜ」
京太にとっての日々は、夏休みだろうとなんだろうとただ無為に過ぎゆく時間に過ぎなかった。だからこそ、二人から誘われた夏祭りはそんな世界をがらりと変えてしまう程の意味を持っていたのだ。
※ ※ ※
「んじゃ、またねー」
夕方近くまで図書館で過ごし、京太たちは帰路へ就いた。空とは家が反対方向である為図書館前で別れたが、鈴詠の家はそれなりに近い場所にある為帰り道を共にする事となった。
「またね、か」
京太は独りごちる。示し合わさない限り今日のような偶然は余り起きないと思うが、と京太はそう淡泊に感じるに留めた。誘われれば無下にするつもりはないものの、住む世界の違い過ぎる彼女らと積極的に交流を深める気は京太にはなかったのだ。
「京太君?」
京太が何と言ったか判別できなかった為か、鈴詠が首を傾げた。
「いや。なんでもねぇよ」
京太は素っ気なく答え、鈴詠と共に帰り道を歩く。
「夕立、来そうだね」
「ああ。少し急ぐか」
鈴詠が仰ぐ空の色が黒く変わりつつあるのを京太も確認する。今日は傘を持ち合わせていない。降り出す前に帰れるといいが。
だが案の定、河川敷近くを歩いている間に雨は降り出しすぐさま大降りとなってしまった。京太と鈴詠は濡れながらもなんとか橋の下の河川敷で雨宿りを取る事ができた。
「大丈夫か?」
「うん。……空、降る前に帰れたかな」
「図書館からはあいつの家の方が近ぇんだ。心配ねぇさ」
事実ではあるものの、敢えて楽観的に言い切るのは気にした所でどうしようもないからだ。それよりも、と京太は考える。これからどうするべきか。夕立ならばそう長くは続くまいが、濡れたままでいるのも問題だ。いっそずぶ濡れになってでも雨の中を突っ切るかと考えたが、鞄の中まで濡れてしまっては元も子もない。京太はともかく、鈴詠の宿題を無駄にしてしまうのは気が退けた。
止むまで待つか。
「鈴詠、しばらくここで……」
雨足を確認していた視線を鈴詠に向け、京太は思わず言葉を止めてしまった。
鈴詠の着ている白いワンピースが、雨に濡れて身体に張り付いている。そのせいで、決して慎ましいとは言えない中学生らしからぬ肢体の形が浮き彫りになっており、更にはその胸の膨らみを包む下着の色がうっすらと透けて見えてしまっていた。
「京太君? ……え、あっ、きゃっ!!」
最初は京太が言葉を切った意味が分からなかった鈴詠だったが、その視線の先がどうなっているか気付いたようで声を上げて胸元を隠した。
「わ、悪ぃ!」
京太は顔を真っ赤にして鈴詠に背を向ける。こんな事態は初めてであった。ここまで恥ずかしくなるとは。
「う、ううん。大丈夫、大丈夫だよ」
沈黙が降りる。大した時間ではなかったが、早鐘のように鳴り響く心臓のせいでまるで何十分も経ってしまったかのようなそんな錯覚すら感じる時間であった。
先に沈黙を破ったのは鈴詠だ。
「……ちょっと、寒いね」
「……こっち、来いよ」
「え、う、ううんいいよ。平気だよ」
「いいから来いっつってんだろ」
京太は無理矢理鈴詠の身体を抱き寄せる。腕の中に抱きすくめた鈴詠の身体は思っていたよりも小さくて、柔らかくて、暖かかった。
「……暖かい、ね」
「……ああ」
それからしばらくして、いつの間にか夕立は止んでいた。二人は無言のまま帰路に就いた。
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