夏の余韻

草森ゆき

夏の余韻

 オレが余呉よごと過ごした時間は非常に少ない。

 あいつはいつの間にかクラスにいて、いつの間にか馴染んでいて、いつの間にか消えていた。オレの通っていた中学は人数が少なく小学校が併設で、山間のちょっと隔離されたような土地の、所謂限界集落の学校だったから、いつの間にかなんて有り得ないのだがそう表すしかなかった。

 全校生徒が集まっても十数人の母校に、ある日ぬるりと余呉はいた。

 六月で、中二で、オレだけだった。一年生は二人いて、三年生は四人いたが、二年生はたったの一人のはずだった。

「あ、おはよう牧野まきの

 黒い学生服に身を包んだ余呉は、教室に入ってきたオレに明るく挨拶した。誰だよ、と、言わなかった。その時のオレは初対面のそいつを「余呉」だと認識していて、「同級生」だと認識していて、「友達」だと認識していた。

「おー、おはようさん余呉。相変わらず早いな」

 話し掛けながら二組しかない机の、余呉がいない方の席に鞄を置いた。

「ええやろ、牧野と違って僕早起き得意やねん」

 余呉は一重まぶたの目を細めて、頬杖をしながらオレを見上げた。

「うっさいうっさい、オレは朝苦手やねんって」

 片手をハエでも払うようにふると、余呉は軽い声で笑った。後ろで縛っている黒い髪が合わせて揺れた。毛先は学生服に溶け込んで、輪郭が曖昧になっていた。

 隣に座り、椅子を余呉の方向へと傾けた。昨日のテレビの話だとか、漫画を貸す約束とか、特に意味のない軽口などを叩き、先生がやってくるまで話し続けた。

 あくびをしながら入ってきた先生は、当然のようにオレと余呉の両方の点呼をとった。

 昼休みには一年生の二人組が教室まで遊びに来て、四人で話しながら弁当を食べた。

 帰り道は、余呉と並んで歩いた。程近くにそびえる山の間に、夕陽が影を落としながらすっと解けてゆく景色を、余呉は静かに見つめていた。

 オレの家の前で別れた。歩き去る余呉に手を振ってから家に入ると、余呉に貸すための漫画を早速探して鞄に詰めた。


 このようにして、余呉はオレの生活に入ってきた。学校はもちろん、土日も連れ立って川やら商店街やらへ出掛けた。待ち合わせ場所に、余呉は必ず先についていた。無地のシャツに学生服のズボンを穿いていて、オレはいつもまともな服を着ろと笑った。余呉も笑っていた。歯が見えるほど破顔すれば八重歯が覗いて、その尖りは余呉には必要なものだった。

 七月になっていた。蒸し暑さのある日差しは眩しく、道路脇の深い雑草を灼いていた。オレと余呉は道路を外れて分け入った。胸元まで伸びた雑草たちの中を泳ぎ回り、目的の森林に辿り着いてから、お互いの虫取り網を握り締めた。

 バッタとセミが、よくとれた。余呉はセミのほうが好きらしかった。ジリジリと声を漏らすアブラゼミを手に持って歩み寄ると、ぱっと花が咲いたように笑った。枝葉の隙間を縫う光が、余呉の八重歯を一瞬煌めかせた。

「ありがとう牧野、僕にここまでやさしいの、おまえがはじめてや」

「何の話やねん、ええからほら、さっさといけって」

「うん、ほな」

 いただきます。そう弾んだ声で言ってから、余呉はセミを口に含んだ。ジリジリ、ジリジリと、こもった悲鳴が聞こえていた。噛み砕かれた瞬間だけは水に落ちた線香花火のような声で鳴いたが、その灯火は四方から降り注ぐ蝉時雨に掻き消えた。

 余呉は口元を肩で拭い、目をゆっくりと細めた。長い髪は光が跳ねても黒く、一向に日焼けしない肌は白かった。他にも捕まえていたのでもう一匹渡すと、今度はすばやく口に運んだ。

 森の中を、ぽつぽつと話しつつ、そぞろ歩いた。たまたま捕まえたカマキリは、両手のカマを捩じ切ってから手渡した。口の中を怪我すると可哀想だからそうした。余呉は汲み取っていたらしく、ありがとうと笑った。

「イナゴは、まずいねん」

 千切った足を口へと持っていきながら余呉は話した。

「せやけど夏場の虫が、一番好きや。セミとかバッタとか……」

「カブトムシとか?」

「そう!」

 余呉はカマキリをすべて口に放り込んでから、焦がれるような視線を頭上に向けた。つられて、同じところを見た。ゆるやかに揺れている木々の葉が、オレたちを覆うように腕を伸ばして絡み合っていた。

「……罠でも仕掛けて、夜中に見に来るか?」

 夢のように溢れる木漏れ日を見上げながら、そう口にした。余呉は視界の端でさっとオレを見たと思えば、光から目を逸らすようにうつむいた。

 顔ごと、隣へ向けた。余呉はまなざしを足元に落としたまま、家抜け出してええん、と小さな声で言った。

 べつに構わなかった。オレと余呉の中に親を入れる気もなくて、黙って出て行っても気づかれはしないだろうと高を括った。実際、何度か抜け出したことがあったが、二人とも気付いていなかった。

 心配そうな余呉を、大丈夫だと説き伏せた。たった一人の同級生で、たった一人の友達である余呉が喜ぶのであれば、カブトムシくらいいくらでも捕まえたいと思った。


 行動に移せたのは夏休みに入ってからだ。昼間に森林へと向かい、いくつもの木に黄金色の蜂蜜を塗りたくった。濃厚な甘い匂いが鼻を突いた。オレの隣で覗き込んでいた余呉も、顔をしかめて噎せていた。

「牧野、宿題してるん?」

「全然してへん。お前は?」

「もうせんでええねん、飽きたわ」

 顔を見合わせて笑った。余呉はオレの肩をポンポンと叩き、いつものとこで待っとるな、とやわらかな口調で言った。

 この、いつものとこは、いつの間にかいつもになった集合場所で、ほとんど潰れかけている郵便局前だった。

 真夜中、親が寝静まってから、そこへ向かった。

 虫の声があちこちから聞こえていた。人間の立てる音は、オレの足音だけだった。砂利を踏むと思いのほか大きく鳴った。自然と忍び足になり、虫たちの合唱に全身を舐られながら、闇のうずくまる細い路を進んだ。

 不思議と、余呉の姿がはっきり見えた。オレが歩いて来る様子を見ていたらしく、既にこちらを向いていた。微笑んで片手を上げる様子は大人のように落ち着いていた。そばまで行って話そうとするが、上がったままの掌がするりとオレの口元を隠した。見つかるよ、と唇の動きだけで余呉は話し、オレは何度か頷いた。余呉の手は冷えていた。

 森に入ってから、懐中電灯をつけた。線を描く丸い光の中を、いくつもの羽虫が入り乱れながら過ぎっていった。

 カブトムシは、いた。ついでのようにクワガタも、蜂蜜でてらてらと光る樹木にしがみついていた。余呉の白い腕が懐中電灯の白い光の中に浮かんだ。指先はカブトムシを摘み、隣を見るとちょうど、口に運ぶ瞬間だった。

 虫の声を掻き消す咀嚼音が聞こえた。余呉は頬を膨らませながら、ごりごりとカブトムシを噛んでいた。かたくないのかと心配になるが、平気な顔だった。飲み下したあとには、満足そうに口元を緩めて、オレの肩口にしなだれかかってきた。

 うろたえるオレの耳元に、ありがとうと囁いてから、余呉は離れた。束ねそこねていた黒髪だけが、一拍遅れて肩を滑った。

 夜道をしずかに歩きながら、オレは、家まで送ると小声で提案した。ほとんどお願いだった。秘密の共有というものは、そういった効果があったのだ。真夜中にこっそり抜け出して、沈黙の集落をふたりきりで歩き、親密な空気を感じてしまえば、特別は安易に訪れた。

 でも、余呉は首を振った。オレが家まで送り届けられ、底のない夜の闇の中を、余呉はひとりで帰っていった。どこに帰るのか、オレは知らなかった。知らないままで問題がないと知っていた。

 部屋に入り、虫の鳴き声を聞きながら、虫を噛み砕く横顔を何度も思い出した。まんじりともせず、濃紺の夜空が青灰色へと解けていくさまを布団の中から見つめていた。

 翌日、結局眠れずふらふらと起き出したオレを見て、母親が呆れたような顔をした。

「あんた、夜に余呉くんと遊んでたやろ」

 あまりにもすぐにばれて驚いた。怒られるかと焦るが、それ以上なにも言われなかった。だからオレから、怒らないのかと聞いた。母親は首を傾げつつ、余呉くんやしなあ、とあまり意味の通らない言い方をした。

 意味が通らない、と、思ったことに、オレは内心困惑していた。

 これが境だったと、今はわかる。


 夏休みの間は、ほとんど毎日余呉に会った。オレの家で宿題をすることもあったし、いつものように外で虫取りもした。余呉はいつでも古めかしい郵便局前に立っていて、オレを認めると笑いながら手を上げた。

 何度か、家に行きたいと話した。余呉は首を振るだけだとわかっているが、諦められずに、頼んでしまった。オレは夏休みが終わることに焦っていた。朝から夕方まで、なんなら真夜中にまで、余呉と遊び尽くせる期間の終わりが、さみしかった。

「そんなに、家に来たいん?」

 十回くらい頼んだときに、余呉ははじめて聞き返してきた。オレの部屋の中の話だ。八月の後半で、盆を過ぎたばかりの、夜風がほのかに涼しさを帯びた時期だった。

「行きたい」

「なんで?」

 問われて、まごついた。オレの家ばかりだとか、送らせてもくれないとか、見送る背中がいつの間にか消えているとか、いくつか理由は浮かんだが本質そのものではなかった。

 余呉のことをもっと知りたい、が、最も近い感情だった。

「僕のこと、まともに知っても、しゃあないやん」

 余呉は眉を下げ、夏の日差しを切り取る窓辺に目を向けた。

「そんなことないやろ、だって、ずっと一緒やったやん。オレ、他に同級生おらへんし。余呉やって一年生や三年生やなくて、オレと一番一緒におるやろ」

「それは……牧野がたまたま、ひとりやったからで」

「なんでやねん、それになあ余呉、毎回断られるから逆にめっちゃ気になってきたのも、ほんまやからな」

「ああ、なるほど」

 余呉の視線が足元に落ちた。部屋の中には、ひぐらしの声が響き始めた。

 その物寂しさに気を取られていると、不意に手が冷たくなった。

 真っ白な余呉の掌が、日焼けしたオレの手に重なっていた。

「今晩、いつものとこで、待ってるわ」

「え」

「僕の家、連れてってあげる」

 ひぐらしが不意に声を潜めた。余呉は笑い、オレの手を離すと立ち上がった。準備してくるわ、と静かに言ってから、部屋の扉をゆっくり開けた。

 扉を呆然と見つめている間、ひぐらしも同じように黙り続けていた。


 真夜中だ。親が寝ているかどうか確認することも忘れ、オレは部屋の窓から外に出た。涼しさを帯びたはずの風は粘ついていて、それは闇夜の粘度に符合した。余呉は浮かび上がったように立っていた。縛った長髪をゆらし、手を挙げてオレを迎えた。そばに駆け寄った。詰め襟の学生服をきっちり着込んだ姿にはじめて、夏にする格好ではないと気づいた。

「おいで」

 余呉は冷え切った手でオレの手を握った。

「離したら、あかんよ」

 歩き出すと夜が深くなった。わずかにあった街灯や家の灯りが消え去って、ただひたすら、闇だった。

「声も、出したらあかん」

 見えているはずはないのにオレは頷いた。静かな笑い声は、多分了承の合図だった。

 真っ暗だった。繋いだ手だけをよすがに、オレは歩いた。何度もまだ進むのかと聞きそうになったが飲み込んだ。握っているのにずっと冷たいままの手を、必死に握り締めていた。

 闇が崩れたのは唐突だった。

 小さな光がひとつ、真っ暗闇に閃いたのだ。声を上げそうになって慌てて噤んだ。光はぽつぽつと増えていき、まるで蛍のようだった。

 不意に、腕が解かれた。余呉の姿は闇の中に浮いていた。彼自身がゆるやかに発光しているのだとは遅れて気づいた。余呉は笑い、呆然とするしかないオレの口元に人差し指を当てた。喋ったらあかんよ、と聞こえた気がした。

 口元から離れた指先に、光が纏わり付いていた。かと思えば、指がゆっくり光に溶けた。それはどちらかといえば余呉自体が光になっていて、黒い学生服も、長い髪も、真っ白な肌も、オレが見ている前で目映さの中に埋没した。

 辺りの景色が見えていた。山はなく、木もなく、学校や家や郵便局も、地面も空もなかった。その中に光の粒だけが点々と飛んでいて、宇宙空間とはこのような感じだろうかと、オレは思った。

「牧野」

 四方の光がオレに話し掛けた。

「ここまで来たがったん、おまえだけやで」

 返事は出来なかった。余呉の笑い声がした。光たちはゆらゆら飛んで、一粒ずつ、また闇の中へと消えていった。余呉が消えてしまうと焦って伸ばした掌に、いくつかの光が寄り添った。

 それで、もう、我慢の限界だった。

「余呉」

 思わず友達を呼んだ。ばちんと大きな音がして、電気が消えるようにすべての光が一斉に姿を消してしまった。

 オレは郵便局前にいた。地面に仰向けで寝転んでおり、片手だけが空を掴むように伸びていた。もう、空は白み始めていた。薄っぺらな雲が、ふやけた紙のように流れていった。

 起き上がり、頭を振った。途端に涙が溢れてきた。まったくわけのわからない涙だったが、オレは直感で知っていた。別れの涙だと知っていた。

 次の日から余呉は、どこにも現れなくなった。


 夏休みが終わり、登校すると教室はひとりきりだった。

 先生はオレだけの点呼をとり、一年生はオレだけを二年生として把握していて、親はひとりで夜中に遊ぶのは禁止だと言った。

 余呉はどこにもいなかった。余呉を誰も覚えていなかった。

 どこにもいないことが本当だったと、余呉のいない教室の中で納得していた。でも寂しかった。三年生になり、集落から離れた寮のある高校に入り、一人暮らしをして大学に通いながらも、得体のしれない寂しさだけはずっと持ち続けていた。

 周りに誰がいてもひとりぼっちの気分だった。余呉もそうだろうかと思えば、余計に胸が引き攣った。


 成人してから、集落がなくなると親に聞いた。溜まり続ける有給を消費して、久々に帰ることにしたのは、奇しくも夏だった。田舎へ向かう列車の中は、夏休みの家族連れが多く賑わっていた。

 半日以上かけて故郷に辿り着いた。夕陽に沈む集落は、どこを見ても廃墟だった。既に潰された家もあり、親も隣町へと移住していた。すれ違う住人はいない。枯れた家や学校が、余所余所しい佇まいでオレのことを見下ろしていた。

 郵便局は残っていた。廃業はしていたが建物は無事で、ほっとしながら目の前に立った。

 あの時声を掛けなければ、ずっと余呉といられただろうかと考える。嬉しそうに虫を食べて、体が光になるようなやつは当然人間じゃないのだろうが、そんなことはどうでも良かった。友達だった。あいつの隣は、誰の隣よりも心地好かった。

 郵便局に背を向けて歩き出す。その間にどんどん、夜が降りてきた。早く隣町の、両親のいる新しい住居にいかなくてはと思うのだが、足取りは重かった。数歩しか進めていないのに立ち止まってしまった。

 このまま野宿をしてやろうかと捨て鉢な気分になったとき、視界の端に光が映った。

「牧野」

 黒い学生服の、長い髪を束ねた同級生が、光を集めて立っていた。

 余呉、と、絞り出した声は掠れていた。余呉はぱっと花が咲いたように笑い、オレのそばに寄って来た。背丈は、胸元までしかなかった。

 嬉しそうに抱きついて来た腕は、夏場でも氷のように冷え切っている。来てくれたんと聞く声が、消えなかった寂しさを打ち砕く。何かを考える暇もなく、オレは余呉を抱き上げる。どこに行きたいか聞き、森に虫を取りに行くかと、共に過ごした教室に忍び込んでみるかと、提案する。余呉はオレの肩に手を置きながら首を振る。また一緒にいてほしいと、小さな声で頼んでくる。

「当たり前やろ、一緒にいたるわ」

 はっきり告げると視界が開けた。それは余呉の周りに、いや余呉そのものの光の束で、周りに見えていた郵便局も山々も寂れた廃墟も何もかも、見えなくなったがこれで良かった。


 今度こそもっと、お前のことをまともに知りたい。

 光に潰されるオレの言葉に、たった一人の同級生は破顔した。

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