浅葱鼠:三
昨日より、だいぶ調子が戻った。
その上、進路について仮でも希望を出せたことを、木田先生に大袈裟なくらい褒められている。
「自分達でちゃんと考えられたんだ。本当に偉い、頑張ったよ」
すぐに自信がつくわけではないけど、その言葉も、笑顔も、今日は真っ直ぐに受け取ることが出来る。
とはいえ、ただ背中を押してもらっただけの身だ。どの大学が良いとかあまり分からなくて、ちょうど二駅先に美大があると知って書いただけ。その距離なら電車が使えなくてもどうにか行けると思っただけ。
「美彩季の、おかげなので」
「自分で考えたことに変わりないだろ? まあ葉山も、お前のおかげって言ってたよ」
俺が言ったこと。それで何かが変わったのだろうか。そう思うと、ほんの少し自信がついたような気がする。
というか、自信云々の前に照れる。思わず笑顔になってしまう。
「次はテストか。まあ黒瀬は体調さえ気をつければな」
よく寝ろよ、と笑って出ようとする背中。少しの勇気を持って呼び止める。
「あの、先生、今日、美彩季に会う予定ありませんか」
振り返った先生は、驚いたような、嬉しそうな、二つの感情が混ざった顔。
「いや無いな。なんか用あるのか?」
「昨日、傘借りて。返したかったんですけど……」
水曜になれば美術室で会うだろう。でもさすがに、来週まで借りっぱなしは申し訳ないから。もし会えるなら、会いたい。
「そうだなあ……、バイトも無いだろうし、クラスで勉強してるかもなあ」
クラスの教室に行けば、会えるかもしれない。けれどそれは、俺には高いハードル。
「見てくるか? いたら呼んで来ようか」
「あっ、いや……、大丈夫、です」
わざわざ呼んでもらうのも、来てもらうのも、人の手を借りすぎだ。もっと、自分が強くならないといけない。
だから、
「自分で、行ってみます」
その言葉に、先生は目を見開く。すぐに笑顔に戻ったけど、その目は真剣だった。
「クラスにはまだ人が残ってるかもしれない。葉山がもしいても一人じゃなくて、誰かと勉強してるかもしれない。それでも、頑張れるか?」
想像してみたら、怯んだ。得体の知れない人が何人もいたら。尖った目を向けてきたら。
それは、怖い。
「な、ちょっと怖いよな」
表情が硬ったのを見逃してはくれない。やっぱり、俺には無理か。
「でもせっかく行ってみようって思えたんだからなあ」
にかっと笑う、先生の提案。
一緒に教室まで行く。美彩季がいたら声をかける。怖くなったら、いつでも引き返す。
荷物と折り畳み傘を手に『学習室3』なんて用途が曖昧な名前の教室を出て、2、1と過ぎる。階段を横目に廊下を渡れば、二年四組、その先。ここまで人に会わずに済んだのは、学校より家か飲食店で勉強する人が多いということだろう。それか、実は部活が無いのをいいことに遊んでいるのかもしれない。そんなことを一緒に出来る仲間がいるなら、尚更。
目的地、二年三組。教室を覗いた先生が手招きする。
後に習ってそうっと覗けば、そこに美彩季がいた。
窓際の、前から二席目で勉強している。一人で、––––いや、前の席にも問題集やらペンやらが散らかっているから、二人で。きっと、もう一人が席を外している状態。
今がチャンスと言わんばかりに、先生に促されて声を出す。
「……み、……みさ、き」
慣れない空間、クラスの教室なのに慣れていないことの違和感に圧倒されて、上手く声が出なかった。それでも、美彩季には届いた。
彼女が振り向けば、先生は笑って「またな」と去って行った。
「おはよ」
かけられた特別感の無い第一声。それに、安心した。
「……おはよ」
「どうしたの?」
「あの、傘、ありがとう」
右手に持った物を差し出すと、ああ、と言ってこちらに来てくれる。俺がそっちに行けば良いのに。教室の中へ、境界線を一歩、踏み出せなかった。
「ん、ありがと」
「ごめん……昨日、濡れたでしょ、駐輪場まで」
「いや全然? すぐだし」
傘は俺の手から渡って、教室の外のロッカーに仕舞われるようだ。鍵のダイヤルを回す姿に、また一つ、感謝を述べる。
「本当に、昨日は、ありがとう」
「ん?」
「あの……、進路の、美彩季のおかげで書けたことと、チョコ、くれたこと」
「や、あれはお互い様でしょ。……私も、書けたし」
一瞥もされなくても、表情があまり変わらなくても、少し尻すぼみになる声で気付く。
もしかして今、照れてる?
そう考えるとこちらも表情が緩む。
「っていうか、チョコそんな引きずる?」
ロッカーを開けて傘を入れ、閉める。その一連の動きの中、ふっと笑顔が見えた。
「いやその……、元気、出たから」
そう言うと、大袈裟だよ、とまた微笑む。
「ま、今日元気そうだから良かったよ」
ぱちっと視線がぶつかった。やっぱり、調子の良し悪しはバレるんだな。
言葉の優しさに包まれて、またお礼をしそうになった時、
「美彩季ー、やろうぜー」
美彩季が振り向いた方から歩いてくるのは、茶色い髪の男子。知らない人。
そうか、戻ってきたんだ。
「じゃ、じゃあ、ありがとう」
自分でも驚くほど早口で、美彩季の反応すら見ずに、聞かずに帰った。その男子とは、反対方向へ。
走った。焦っていた。だから、コントロールが効かなくて。
昇降口まで降りて、やっと落ち着く。
大丈夫。少し驚いてしまっただけ。今日は悪くない日。なんなら、教室を初めて訪れたし、ちゃんと感謝を伝えられたし、良い日だ。
外、乾いた青と薄橙の世界。昨日の雲は晴れて、地面はまだ少しきらきらと輝く。
少しだけ、世界が広がったような気がした。
* * *
「なあ、あいつ誰?」
何事も無かったかのように勉強を再開しようとする姿に、前の席から問う。
美彩季と話していた、俺の声で逃げるように去ったあいつ。
「ん、律」
「りつ? ––––ってあぁあの黒瀬律⁉︎」
うるさ、と顔を顰めたから、とりあえず謝る。だって衝撃だろ。会ったことないんだから。本当に存在するのかすら疑っていたレベル。
背は多分俺ぐらいで、俺より細くて、前髪重めで、なんか暗そうで。
「あれが黒瀬律か……」
知らなかった。見た目も、美彩季が知り合いってことも。
「ってか何で知り合いなんだよ」
「一緒に美術室使ってる」
根掘り葉掘り聞いていけば知らないことがごろごろと。まず美彩季が美術室に通い始めたのも知らなかったし、あいつも絵が好きとか知らないし、昨日二人で居残りしてたとか……。全部教えろとか言える関係性でもない。だから当たり前なんだけど。
俺ってやっぱりその程度なんだよな、って。
「へー、仲良いんだな」
「んーどうだろ」
「俺にはチョコくれないもんな」
わざと意地悪く言ってみると、「聞いてたの?」と呆れ笑い。
「盗み聞きじゃねえよ! 所々聞こえたんだよ!」
嘘。耳をそばだてないと聞こえない声量だった。気になったんだよ。しょうがない。
「別に、食べたいならあるよ」
鞄から小さなポーチを、ポーチからチョコを出して机に転がしてきた。
そういうことじゃねえよ。貰うけど。
礼を言ってから包みを開け、口に放れば、強烈な甘さに頭がクラクラする。
「あいつどういう奴?」
「んー、絵が好きな人見知り」
「そういうんじゃなくて、どう思ってんの?」
「ん?」
「美彩季にとってどういう存在かって話」
「何それ」
鼻で笑われた。変なことを聞く、変な奴。そう思ってくれていい。二人の関係性を知ることが出来ればそれで。現に、斜めを見上げて考えて答えようとしてくれるのだから。
「––––なんか、嘘吐けないなって思う」
「何だそれ」
「聞かれたから答えたんだけど」
それ以上答える気が無さそうな口調に詮索を止める。じゃあ他の人には、俺にはいつも嘘を吐いているのか、とか核心を突けば、せっかく最大限に詰めた距離がまた離されるに違いない。だから、話の中心人物をすり替えた。
「あいつ何で教室来ないの」
「知らない」
「知らないって……」
興味無さそうな返事。まあ、本人にずけずけと聞く話題でも無いし、よっぽど仲が深まらなければ話さないか。
––––ってことは、まだそんなに深い仲じゃないってことだよな?
「で、やんないの、数学」
「おぉ、やるやる」
教えてくれと頼んでおいて忘れかけていた。バイト先から、テスト一週間前には休むように言われること、俺は知っている。だから、長く時間を取ってもらえるチャンス。本来この席に座る学級委員ならありえないほど散らかした机から、問題集を取って広げた。
ここ、と言えば、雑な語り口とは裏腹に丁寧に教えてくれる。手元に視線を移した時に伏し目がちになる。見つめていれば「聞いてる?」と眉を顰める。
この時間なら、勉強だっていくらでも。
しかし、今日は内容があまり入ってこなかった。
嫉妬とかではない。そんなのを抱く感情はとうの昔に越えた。
ただ、全く知らないあいつが、あの美彩季と距離が近そうなあいつが、どんな奴なのか知りたいと思った。ただの、好奇心。
いや、悪い奴だったら近づけたくない、なんて、保護者のような感情かもしれないな。
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