浅葱鼠:二

 視界いっぱいの天井。薄黄色のカーテンで仕切られた空間。お世辞にもふかふかとは言えないベッド。

 逃げてきてしまった。正確には、授業中にぼうっとしてしまったら休むよう促された。見た目で分かるほど、だったのだろうか。

 朝から調子が悪い。おまけに雨が降ってきた。傘を持っていない、頭が痛い、それらはもはや気分が落ちる理由としては弱くて。

 結局、を書けていない。どうしても負の思考が邪魔をする。やりたいことの前に出来ないことが来てしまう。『気楽に』なんて俺にはやっぱり無理だったんだ。

 クラスの人は皆、早々に提出してテスト対策に励んでいるのだろう。だからこそ、この忙しい時期に、俺一人が、木田先生の提案に甘えるのはとても後ろめたい。

 ベッドに預けた身体。このまま深く深く、暗く冷たい所に沈んでいくのではないか。そんな感覚が怖くて、無理矢理起きて食べかけのパンを齧る。弁当を作る余裕が無くて買ったが、こんな状態なら要らなかったかもしれない。

 廊下に響くチャイムが漏れ聞こえる。もう五時間目が終わったらしい。


「黒瀬、起きてる?」


 カーテン越しに声がかかった。

 養護の尾花先生は、何の気無しに接してくれる。どことなく母に似ているけれどそれ以上に、過度に気を遣われることがない。自然な態度が一番楽でありがたい。


「もうすぐ木田先生来るよ」


 それは、〝出られるなら出ておいで〟の合図。

 未だすっきりしない頭を引っ提げて床に足をつけた。薄黄色の外に広がる世界は、明るすぎる。

 パソコンに向かう尾花先生の「おはよう」に何も返せないまま、保健室の真ん中に鎮座する丸テーブルへ足を運ぶ。椅子に座ると同時に、廊下に木田先生が見えた。


「よお黒瀬、起きてるな」


 四時間目からこっち来たんだよな、と確認され頷く。ちゃんと寝られたかどうかも聞かれたが、よく分からなくて曖昧な反応をしてしまった。それでも肯定してくれるのは、何故なんだろう。

 それを考えるより、伝えなくてはいけないことがある。


「……あの、進路、……書けてなくて、」


 ごめんなさい、と言う前に軽い調子で遮られる。


「な、一人で考えるのって難しいだろ? 十分頑張ったから一緒に考えような」


 ––––『頑張った』?

 俺、本当に頑張れてる?


 いや、今日は駄目だ。全てをマイナスに受け取ってしまう。

 先生の発言にまで疑いを持ってしまったことが申し訳なくて、いつもは見られる目も背けたままに頷いた。それなのに、先生は笑顔でいる。

 四時までは会議があるからその後、という約束を貰った。それまでもう少し考えてみてくれ、と。


「それでさ、黒瀬。今動けそうか?」


 休んだおかげか、重い身体も一先ずは動かせる。だから、頷く。


「やっぱり一人だと厳しいじゃんか」


 意図が分からない。けれど、頷く。


「じゃあ、葉山と一緒に考えてみてくれよ」


 それも意図が分からない。この回らない頭のせいだろうか。

 聞けば、美彩季も提出していない。というか、する気が無い。だから居残り状態らしい。せっかくだから、二人で考えればお互い何か見つかるものもあるだろう、という。


「あいつ考えもしないからさあ、黒瀬からもなんとか言ってくれよお」


 俺が何か言ったところで特に何も変わらないだろう。そんな影響力は持ち合わせていない。

 ただ、一人で考えるより確実に、俺自身は暗い中に引っ張られていくことは無いような気がした。


「……そう、します」

「よし、行くか!」


 そう膝を叩いて立ち上がった木田先生の後を、荷物を持ってついていった。


 堕ちている時は人がより怖くなる。でも、美彩季なら平気だと、何故か思った。

 この前話せたから?

 安心出来る色を身に付けていたから?

 こんな俺に、ただの同級生として接してくれるから?

 どれも正解のようで、正解ではない、と、思う。




 てっきり教室に行くのかと思っていたら、着いたのは美術室。

 テスト一週間前を切ったら部活が無くなるように、ここも使わない。そう先生と決めたルールがあるから、今週は来るつもりがなかった。「黒瀬と葉山ならここの方が話しやすいだろ」という先生の理論は、俺にとってはあながち間違いではない。

 いつも俺が座っている席の隣で机に突っ伏している女子生徒。顔は見えないけど、美彩季。


「おい葉山、寝るなよお」

「……寝てないよ」


 すぐに身体を起こした美彩季は、深く息を吐いた。目が半分しか開いていない上に、声は夢見心地。


「あれ、律、」


 こちらに気づく。しかし、眠そうな目を向けられただけで、特に何を言われるでもなかった。

 木田先生に促され隣に座ると、机に分厚い本が置かれる。美彩季の前にも一冊あるそれは大学受験案内。見るのも気が重い。先生は、先程話していた二人で考えることのメリットをもう一度論じた。隣を盗み見ると、怠そうだけど黙って聞いている。提案を受け入れたというより、観念した、という印象。


「じゃあ四時過ぎには戻ってくるからな。それまでに書いててくれてもいいんだぞお」


 先生は俺の方に近づいて、きつかったら戻っても大丈夫だからな、と小さく言ってから去った。



 雨の音がやけに大きく聞こえる。

 なんだか、気まずい。

 以前そこそこ話せた分、余計、落差が大きくて。とは言え、何も言葉が出て来ない。

 どうしよう、このまま何も話せなかったら。いや、進路のことについて意見交換をすればいいのか? でも全然考えられていないし、考えようとしても駄目になるし。美彩季のことを聞くか? いやでも聞かれるのが嫌だったら、不快な思いをさせたら、嫌われてしまう。じゃあどうすれば––––。

 ぐるぐるぐるぐる、そうやって下手に思考を巡らせてしまうのが悪いんだ。沈んだ気分も、流れない会話も全部、全部、俺のせい。

 何が起きたわけでもないのに目元が熱くなってきた。溢れたらバレてしまいそうだから、拳をぐっと握って堪える。


「律、」


 ふと名前を呼ばれた。でも今は、顔を上げられない。


「––––チョコ、食べる?」

「へっ……?」


 予想だにしない発言に、間抜けな返事をしてしまう。その勢いで、声の方向を見た。


「いや、いっつも甘いの飲んでるのに今日無いから」


 美彩季はこちらを見ていた。一瞬だけ窺えたその顔は、やはり無表情だったけど。いつもと違うことは、きっと、気づかれているのだろう。ココアではなく、俺の内側の事。

 返事も出来ていない間に、一口サイズのキャンディ包みが机の上を転がってきた。


「……ありがとう」

「ん、まだあるよ」


 そう言って、美彩季は同じ物を口にする。つられるように、俺も包みを開けて口へ運んだ。

 甘いな。

 ふわっと、少々の幸福感が咲いた。よく見る市販の物なのに、貰ったが故の特別感も加わって、気持ちが一階分だけ引っ張り上げられた気がした。


「……おいしい、ね」

「まあ、普通のやつだけどね」


 普通に美味しいよね、と口角を上げる彼女に、またつられた。



「……進路、どうしよ」


 やっと自分から発せた話題。それは、美彩季も考えていたはずの言葉。


「もう適当でいいんじゃない」


 目の前の本をぱらぱらと捲りながら言う。多分、捲っているだけで読んではいない。

 本当に考える気無いんだな。

 俺も一応、一通り見てみようと思った。表紙を開けば、目に入ったのは正方形の付箋。


『やりたいことだけに集中しろ!』


 これは、木田先生の字。

 どこに行っても駄目だ、とか、受け入れてくれる場所なんて、とかよりも、まずは自分のやりたいことで決めろ、ということ。だと、思う。

 ––––そんな我儘、許されるのかな。


「……俺、やりたいこと、考えられなくて、」


 気付けば、ぽつぽつと声を発していた。

 隣でページを捲る音が消える。こんなの、聞かされる方も困ってしまうだろう。でもどうしても、不安で、怖くて、一人ではパンクしそうで。


「……どこ行っても、駄目だから」

「……何が?」


 それは責めるような声ではない。単調でも棘の無い、落ち着く声。


「……教室に、入れない。人と、上手く、話せない。……そんな奴、受け入れてくれる所、少ないのに、無いかもしれないのに、……俺の、好きに決めて、いいのかな」


 先程貰った幸福感からか、底までは落ちていない。それでも、口に出したら止まらなかった。自分の中にある曇りを、相手のことも考えずに投げた。どんな反応をされても、今は真っ直ぐ受け取れないのに。

 美彩季は、じっと考えている。いや、考えさせてしまっている。


「……まあ、いいんじゃない」


 適当な返事、ではなかった。


「律がどうしたいか言わないと、受け入れるも何も出来ないよ」

「……でも、それで迷惑かけるから」

「木田とか、今周りにいるのは皆、受け入れてくれてるって思える人なんでしょ?」


 目が合う。逸らしてしまったけど、頷いた。


「じゃあもうちょっと、遠慮しないで好き勝手してもいいんじゃない」


 後は周りがどうにかするよ、と笑った。

 その笑顔は、いつか誰かに玩具にされた時のそれではなくて。とても、とても、優しい。溢れるマイナスが少し、落ち着いた。

 だけど、今日は本当に駄目なんだ。どうしようもなく自信が無い。

 せっかくの優しさを無下にしそうで申し訳なくて、意図的に矛先を変える。


「……美彩季は、やりたいこと、絵じゃ無いの」


 絵が好きなら美術系でいいのに、と思ってしまう。考えるまでもなく、それで良さそうなものだ。


「まあ、そうかもね」

「……それで、書かないの?」

「書かない」

「……どうして?」


 そう言うと少し、躊躇いが見える。


「––––やりたいことだけじゃ駄目だから」


 言って聞かせるような口調。俺に? それとも、自分に?


「……さっきと言ってること違うよ」

「違わないよ」

「遠慮しないでって言ったよ」

「それは、」


 溜息が一つ。不快にさせてしまった、というより、諦めたような。


「周りの人が受け入れてくれてるなら、の話」


 美彩季の中の曇りが、一握りだけこちらに転がってきた。ような、気がした。

 なるほど。美彩季なら平気と思えたのは、どこかで同じ匂いを感じたからかもしれない。何か内に抱えた、孤独の匂い。

 だから、少しでも晴らしてあげたくて。


「……でも、……先生は、同じだから。……絶対、受け入れてくれる、から、」


 後はどうにかしてくれるよ、という言葉とともに、様子を窺う。頭が回らないなりに考えたから、木田先生に責任を全部背負わせてしまったのはどうか目を瞑ってほしい。

 こちらを見ずに、黙っている。機嫌を損ねてしまっただろうか。

 暫くすると、口が開かれた。


「……分かったよ。その代わり、」


 降参の後、その目が俺を捉えた。


「律もちゃんと書いてよ?」


 ここで拒否すればいよいよ最低だ。一緒に書けば怖くない、とかなんとか心で唱えて、頷く。

 美彩季は俺の反応を確認すると、目次も確認せずに美術系のページを開いた。

 ––––なんだ。前々から考えていたんじゃないか。

 目星を付けた大学を吟味するその姿に倣って、俺も同じ分野を調べ始めた。



 木田先生が来る頃にはどちらも書き終えていて、それはそれは嬉々として褒められた。適当にあしらう美彩季を横目に、先程背負わせてしまった責任について声に出さず小さく謝罪しておいた。




 ルールに則って、絵を描かずに帰る。美彩季はまだ家には帰らず、駅前のカフェで勉強するらしい。

 二人で昇降口まで歩いた。外、濡れた灰色の世界を見て思い出す。


「あっ……」

「ん、何」

「あ、いや……、傘無いの思い出して」


 それでも、帰れないことはない。下駄箱から靴を出そうとすると、遮る言葉が。


「これだいぶ濡れるよ」

「まあ……、平気だよ。すぐそこだし」

「そんな近いの」

「十分くらい、かな」


 美彩季はいつもの無表情で、いや、少し疑いを含んで見てくる。


「や、ちょっと待ってて」


 そう言って、踵を返した。

 取り残されて、どうしたらいいか分からなくて、壁にもたれて大人しく待つ。他に誰も来る気配が無かったのは幸い。

 今日は時間の流れがゆっくりだから。周りの速度に置いていかれる日だから。空白を埋めるように湧き出るネガティブと闘っていれば、待っていた時間はごく僅かだった。


 戻ってきた美彩季の手には、折り畳み傘が一つ。はい、とこちらに差し出す。


「えっ……いやいや、悪いよ」

「使った方がいいよ」


 借りるなんて申し訳ない。しかし、拙く断っても「三階まで上がった体力無駄にさせないで」と譲らない。


「……美彩季は、平気なの?」

「平気。自転車にレインコート置いてあるから」

「……なんで、傘あるの」

「オールした日は自転車無理だから。電車と歩きで来た日用」


 一回眠すぎて事故りかけたんだよね、と何でもないように言う。それは徹夜しなければいい話ではないだろうか、というのは口に出さないでおく。

 まあ、ともかく美彩季が平気なら。まだ躊躇いは残るものの、受け取った。


「……ありがとう」

「全然。家どっち?」

「あ、えっと……、駅の、反対側」


 鳥がシンボルマークのスーパーがある方、と答えれば、伝わった様子。


「じゃ、傘いつでもいいから」


 美彩季はそれだけ言うと、先に走って行ってしまった。駐輪場まで一緒に傘に入ろうよ、と一言声をかけられれば。後悔と罪の意識が心を浸した。


 開いた傘は無地だった。ふんわりとした、カフェオレのような燻み色。

 俺も駅の方面だったら、一緒に歩いてくれたのだろうか。まるで、友達みたいに。

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