3話 浅葱鼠
浅葱鼠:一
授業は全て終えた。
木曜日だから、帰りのHRは副担任に任せている。通常であれば、俺がいない金曜を担当してもらうのだが、調整の末にプラスで担ってくれた。
目的は、黒瀬と話す機会を持つため。
様子を窺う意味もある。しかし、何より大きな意味を持つのが〝会話〟だ。
あいつは本来、人と話すことが好きで、表情が豊か。人見知り気質は元々でも、心を開けば深く付き合えるタイプのはずだ。少しばかり甘えたがりな幼さも残っている。
ただ、クラスで過ごすのはまだ厳しいし、男子高校生が親に自分を曝け出して甘えるなんて、一般論で一蹴出来る。
だから俺の役割は、気兼ねなく話せる相手になること。甘えてもいい存在になること。
黒瀬にはいつも以上にラフに、笑顔で。
入る前にノックを忘れない。
「よお黒瀬、元気か?」
いつもの教室の扉を開けてそう問えば、緩く口角を上げ頷く。調子は悪くない、といったところか。
近況を聞けば返ってくるのは、通院の結果と昨日の話。前者に関してはまあまあ、いつも通りらしい。今日のメインは後者のようで、早々に話題が切り変わった。
「美彩季と、この前よりも話せたんです」
ぱっと表情が晴れ、控えめながらも尻尾を振って嬉しそうに語る姿は、絵の話題以外で初めてだ。
良い関係が築かれようとしている。それも予想よりかなりハイペースで。
二人の相性が良かったのか。黒瀬自身の回復、ひいては成長か。
「そうか、そりゃあ嬉しいよなあ」
一通り聞いてそう返せば、笑顔で頷いた。俺の方も心からの笑みが溢れていただろう。
「今まで話せる人いなかったから……本当に嬉しくて」
そして、今度は寂しさも含んだ笑顔を見せる。
本当はクラスに入りたい。皆と仲良くなりたい。––––でも怖い。出来ない。
そう泣きながら訴えてきた日は忘れない。
「葉山もなんだかんだいい奴だし、お前も頑張ってるんだから。絶対仲良くなれるよ」
根拠は無い。しかし、この一手が実を結ぶことを信じる他なかった。
固い話はなるべく避けたいが、そうはいかない時もある。せめてトーンだけでも軽く。
「今日は進路のこともちょっと聞いてみたかったんだよなあ。どうだ、何か考えたか?」
会話が一段落してから投げかけると、黒瀬の表情には一抹の不安が覗いた。
「やっぱり……難しくて」
「そうか。やりたいことが分からないか?」
「いや……それ以前の問題というか。石井先生にもアドバイス貰って、自分と向き合おうって、やってみてるんですけど、」
段々と笑顔が消え不安の色が強まる。それを受け止められるよう、相槌は丁寧に。
「ちゃんとやってみてんの偉いよ」
「でも……どうしても辛くなっちゃって。高校決める時は頑張れたけど、今こんなだから、結局どこ行っても何しても駄目なんじゃないかって……」
なるほど。ベクトルが間違って後ろに向いてしまったのだ。それに以前はまだ、全て大人と一緒に考えていただろうに、一人で全てを完結させようとしているらしい。
「一人だと、どんどん良くない方にいっちゃうかもなあ?」
「……散々迷惑かけてるし、親とか周りに頼ってばっかじゃ駄目だと思って。……一人で考えないと」
自分で思考する力の重要性は高い。しかし、時には〝人に頼る力〟も重要だ。こいつにとっては特に。随分と人を頼れるようになったと思っていたが、やはりまだまだだったようだ。
お前は自分の中に溜め込みすぎだ。まだまだ、もっと頼るべきなんだよ。
今はそう言っても聞かないだろうから、退路を示しておく。
「じゃあ提出日まで一人で考えてみて、書けなかったら放課後に一緒にやるのはどうだ? そしたらちょっと気が楽だろ?」
斜下への瞬き、その回数だけ沈黙を待つ。
「……はい。それで、お願いします」
そうぎこちなく微笑んだ顔は、残存する不安の表れ。それを拭いきれず惜しいが、話を終え教室を出た。
きっと書いてくるのは難しいだろう。しかしあいつは、期限を破ることも、やっつけで間に合わせることも出来ない。その日まで苦しむのが目に見えて、悪いことをしている気になる。兎にも角にも、石井先生には報告の電話を入れておこう。
人に怯えるあまり自分に厳しすぎる。黒瀬にはもっと、脱力することを覚えてほしい。
職員室に戻る。
閑散としているのは、部活や会議で外している者が多いため。この時間ならここで生徒指導を行っても問題無い。
ノック音と怠そうな「失礼します」が聞こえ、扉が開く。
「おお、ここ座れ」
約束の時間に間に合えば、「〇〇先生お願いします」は省いてやる。時間にルーズな癖がついてしまった葉山への、些細な報酬、もとい治療。
既に呼び出しに不服だという心情が滲み出ている。勘がいいから、いや勘を働かせるまでもなく今回の話題には察しがついているのだろう。
「最近どうだ?」
「いやそれいいんで。進路の話でしょ」
「お、話す気満々か?」
「全然」
無気力、無感情。側から見ればそうだろう。でも違う。こいつは感情を隠す。それが悲しみや不安など、負の感情であればあるほどに。だから、注意して見ておく必要がある。
––––というのは、養護教諭から聞いた話。感情を隠すのが上手いのは、悲しいかな、長く自身を抑圧してきた証拠だ、という事も。
葉山と関わるようになって半年。まだ手探りだが、隠れた心理も少々分かるようになってきたと自負している。今あまり目を合わそうとしないのは、葛藤があって、余裕が無いから。
「今はどこまで考えてるんだ?」
少し間が空く。考えていなかったわけではないだろう。
「ま、そこそこ名の知れた大学に行けたら良いんじゃないですかね」
「分野は?」
「何でもいいけど楽なやつ」
自分の将来を『何でもいい』って、そりゃあ無いだろ。
今の成績なら偏差値なんて気にすることではない。選択肢は膨大にある。問題は、葉山自身の希望が見えないという点。
名前を呼んで真っ直ぐ、目をきちんと合わせる。
「『親御さんが喜ぶ』とかじゃなくてさ、」
そう言えば瞳が僅かに揺れ、逸される。
「別に喜ぶとかじゃない」
「お前は何がやりたいんだよ」
「特に無い」
「考える前に無いって分かるか?」
「考えるだけ無駄なんで」
冷たさを持った言葉は、俺と同時に自身も突き放す。そうやって、壁を作って蓋をして、誰にも触れられないように。
「やってみるまで分からないもんだぞ」
この言葉で遂に黙ってしまったが、今ここで反抗することこそ無駄だと感じたならそれでいい。
「とにかく、まずは自分のやりたいことだけ考えろ。でなきゃ紙は受け取れない」
黙ったまま、目を逸らしたまま、頷いた。きっと納得していない。こいつは自棄になって提出しない選択をしそうだ。––––そうしたら居残りだな。
強引にでも自身について考えさせなければ、こいつの中には永遠に〝自分〟がいない。
もう一つの話題。すっかり重い空気を変えられるだろうか。
「それで、最近どうだ?」
やっと葉山の方から目が合う。ただ、頗る怪訝な顔。
「え、なんだよその顔」
「……それ挨拶程度のやつじゃないの」
「いや、いつも聞きたいから聞いてるんだろお」
そう言っても葉山は疑いの目を向けたまま。
「クラスとかどうなんだよ、最近」
「別に、変わらず」
葉山はクラスに馴染もうとしない。かといって輪を乱すわけでもない。
それでいて、周りからは〝一匹狼〟として憧憬の眼差しを向けられているようだ。話しかけられれば会話はするし、無関心に見えて人の感情には敏感で気を回す、さらに頭脳明晰となればまあ分からなくはない。
本人がこの状況を上手く好意的に受け取っていけば仲良くなれるはず。しかし、それをしない。かつ周囲の崇拝的な態度により、ますます距離が出来てしまう。
「仲良い奴誰だっけ?」
また少し、先程よりも長い間が空く。考えた末、指折り数えながら答えた。
「最近話したのは、風子、大樹、律」
わざわざ『最近話したのは』と前置きをする。仲が良いのではない、と。そう自分から一線を引くのだ、誰にでも。
それを指摘するより、プラスに働きそうな話を。
「黒瀬は鈴木、伊東と並ぶんだな」
そう言うと、葉山自身も不思議そうな顔をした。
「なんか、昨日結構話したから」
「いい奴だろ?」
「んー、いい奴って言えるほど知らない。……けど、悪い奴ではない」
相手を注意深く観察しながら、レッテルを貼らず分け隔てなく接する。『分け隔てなく』は親密な関係を避ける意味では課題だが、ここでは長所の意味。
「仲良くなれそうだなあ」
「いやそういうの別にいらないけど」
「––––けど?」
言葉尻を攫ってみると、バツが悪そうな顔をする。
「……まあ、絵の話が出来るのは嬉しい、かも」
今、『嬉しい』と言った。
これだ。求めていた感情表出。ここを皮切りに少しずつ、自分の感情にも向き合って、出していけるようになれば。
「何にやにやしてんの」
おっと、顔に出ていたか。
一応の弁解をするも、バイトなんで帰ります、と切り捨てられた。
奴がぶっきらぼうでも人に優しいのは、単なる性格の話ではない。自分を大切にしていないから、涼しい顔で自己犠牲をも払えてしまう。このままでは、与えてばかりになる。
自然に自分を出せる場所が、人が、必要だ。俺もそうなろうと試行錯誤しているが、やはり同級生にもいてほしい。
黒瀬なら、それが出来る。
絵が好きで、根が優しくて、人とかかわるのが下手で。性格はまるで違うように見えて、どこか似ている。繋ぎ止めておかないと、何処かにふらふらと消えてしまいそうな奴ら。
喜びも寂しさも分け合える存在に、互いの孤独を理解し合える存在に、なってほしい。
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