竜胆色:三

 今日の密かな目標は、こちらから「おはよう」と言うこと。そして、話を振ること。


 相棒のココアとともに目的地に入ると、そこには誰もいなかった。

 先に来ていると思ったのに。

 もしかしたら、テスト二週間前を切ったから勉強に時間を費やすことにしたのかも。

 いや、そんな真面目な生徒には見えない。風貌ではなくて、あの気怠そうな話し方と雰囲気がそう見せる。

 まあでも、テストに加え進路希望のことも考えなくてはいけないから、そこそこ忙しい。俺が言えたことではないけど、そんな時に来ないか。


 残念だな、なんて思った。


 いつもの席に座って、いつものように描き始める。



        *         *         *



「うわー、めちゃくちゃ分かった! ありがとう美彩季!」


 教室中にそう響かせながら、背もたれに身体を預け反らすこいつ。本当にうるさい。

 五時間目が終わるなり、「この問題だけ教えてくれ!」と懇願してきた大樹には、その二つ前あたりの基礎から説明しないといけない。つまり、長くなって面倒臭い。


「あ、あとこれさあ––––、」


 時計の針は短い方が四と五の間、長い方は六を指す。

 今日は六時までこうだろうな。

 視線を大樹に戻す前に、脈絡の無い質問が飛んできた。


「あれ今日バイト先、定休日じゃねえの?」


 そう、だから水曜は時間がある。––––けれど何故今それを言うのか、意味が分からずに聞き返す。


「いや時計見てたから。なんか用事?」


 思いの外よく見ているのが大樹という人だった事を、忘れてはいけない。別にそこまで断言出来るほど深く知らないけど。


「大した用じゃないけど」

「用があるにはあるんだろ、しょうがねえなー」


 残念そうに問題集を閉じてまた伸びをしている。何の用事かは特に聞いてこない。そんなに気を配る人だっただろうか。

 しかし用が済んだ訳ではないようで、「じゃあまた頼む!」と両手を合わせている。とりあえず了解しておきながら、その場を去った。




 午後五時前。

 美術室には既に律がいて、扉を開けるとビクッと肩を跳ねさせた。と同時に顔を上げてこちらを向く。視線はあちこちへ動き回っているけど。


「お、おはよう」


 緊張が伝わってくる弱々しい声、硬直した顔。

 だから。そんなに怖がらないでよ。


「おはよ」


 ただそう返すと、パチパチと瞬きをした後、コクッと頷いた。その後の沈黙。何か言いたげな様子だけど、こちらは無理に話を広げるつもりもないのでそっとしておく。

 すっかり描く手を止めてしまった律を横目に、キャンバスを持って前回と同じ席に座る。

 描き始めようと思った。けど、何か話したそうなのに気付きながら無視するのは悪いか、と思い直す。右側、席が四つ空いた先に目をやると、制服の袖を膝の上で握り締めたまま動いていない姿があった。

 と思ったら、ゆっくり、そーっとこちらを見た。そのままの速度で口も動かされる。


「……あの、さ、」

「ん?」


 また固まってしまった。その視線だけが慌ただしい。ただ、大人しく次の言葉を待つ。

 

 そのうち、またゆっくり口が開かれる。


「……今日、来ないと思った」


 なるほど、それであんなに驚かせてしまったわけだ。


「ああ、来ない方が良かった?」


 それならもう来ないようにするけど。そんな意識が湧いて、つい口に出た。

 でも律は、首をぶんぶんと横に振った。


「違うそうじゃなくて……、来てくれて、良かった。……話、したくて」


 体はこちらを向けて、顔をチラッと見ては逸らすことを繰り返しながら懸命に伝えてきた。

 口下手で怯えがち。だけど、どうにか歩み寄ろうとしているのかもしれない。

 別に、そういうのいらないのに。


「何話す?」

「えっと……」


 下を向いて考える、既に何度も見た光景。小さく、あっ、と聞こえたかと思えば、こちらに向き直した。


「先週の、リベンジ……したい」

「リベンジ? ––––ああ、これ?」


 キャンバスを指差すと頷いた。

 この前の言葉だけでかなり助かったし、リベンジを求められることでも無いんだけどな。

 とは言え、それならこちらも提案がある。


「じゃあ律の絵も見たいんだけど、どう?」

「あ、俺の……」


 自分の絵を見つめて、少し悩んでいる様子。結果として、机上の紙を全て掴んでこちらに向かってきた。その足取りは、先週見たそれより軽くてしっかりしている。

 今日描いたやつ、と言って差し出してきたのは三枚。大きさもバラバラ、何かの切れ端か裏紙。それでもそこには、惹きつけられるデッサンが描かれていた。

 突っ立ったままの律に、隣の席に座るよう促しキャンバスを向けた。

 ちょっと躊躇うけど、人の目が入ることで絵に深みが出る。別に欠点を指摘してもらわなくても、それについて話すだけで、誰かと絵を語るだけでいい。盲目な絵にしないためには必要なこと。


 絵を見ている横顔は、先程までとは違う。目に光が灯っていて、欲しいおもちゃを前にした子どものようにきらきらしている。


「……前、あったかいって、言ったけどさ」


 手元の絵に視線を戻しかけたところまた顔を上げると、律がキャンバスから目を離さないまま話していた。


「言ってたね」

「……色使いというか、重ね方がそうさせるんだと思う」


 そこから、穏やかさはそのままに、しかし別人かのようにすらすらと言葉を紡ぎ始めた。


「全部の色を大切に、どれも浮くことがないように繋ぎ合わせてるから。そこにある色全部で包んでくれる感じ。––––あっ、あと正門に向かう構図だからこそ、あったかく迎えてくれる気持ちになるのかも」


 その後も律の口は止まらず、思いがけずたくさん言葉を貰った。


 なんだ、話せるじゃん。


「……ありがと」


 とにかく感謝を述べる。そんなに真剣に語ってくれると思わなかったから。

 すると、我に返ったような反応を見せていつもの態度に戻ってしまった。


「……あ、いや、……急にいっぱい……ごめん」

「なんで謝るの」


 自分の絵に向き合ってくれて嬉しかった。謝らなくていいのに。それを伝えるには、体感してもらう方が早い。


 律の絵に目を戻す。

 デッサンの精度が高い。でも、写真をそのまま模写したという印象は受けない。


「これって写真見て描いてる?」


 首を振った。頭に浮かんだものを描いているのか。

 それが強みなのだろう。写真から描く絵とは違って、自身の中から取り出すから主観が入る。どんな心情で被写体を見たのか。想いが強く反映されるから、人の心に訴えかけられる。

 そんな絵。そこが、魅力だと思った。

 思ったままに伝えると、控えめに「ありがとう」と呟く声が聞こえた。耳まで真っ赤にして俯いたまま。

 何処かの教室から見た窓外、無人の廊下、植物。特に目を惹いたのは三枚目。多分、この季節になるとそこらでたまに見る花。


「この花って、こんな色のやつ?」


 そう聞きながら自分のスマホを見せた。正確にはスマホケース。薄めの青みがかった紫の物。


「っ……そう!」

「良い色だよね」

「うん……すごく、好きな色で」


 答えた律の表情は、はっきりと嬉しそうだった。

 あの花の絵が目を惹いたのはきっと、他の二枚と違ったから。一枚だけ、違う感情が根底にあるような気がしたから。


「色は付けないの?」

「あ……、彩色は苦手で。デッサンとか構図考える方が楽しい」

「そうなんだ。私はデッサンの方が苦手だから、逆だね」


 へえ、と口にしながら目を丸くする姿は幼い。第一印象としては大人びていたけれど、どうやらそうでもないらしい。純粋で汚れを知らないような瞳と表情。

 素直なのは良い事。でも、度が過ぎると危険な雰囲気も漂ってくる。


「律が構図考えて、私が色付ければ最強かもね」


 そんな思いつきの発言に、律は照れたようにふにゃっと笑った。


 絵の話が出来た。

 久々に、少しだけ、心が弾んだ気がした。

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