竜胆色:二

 今日は美術室が空いている。が、行かない。人の声が無くなるのを待ったら、どこにも寄らずに学校を後にする。帰宅のため、徒歩十分の道のりはいつも静かで、穏やかだ。この辺りの空気も、かなり肌に馴染んできた。



「ただいま」

「おかえり。今日はゆっくりだったのね」

「学校で、少しだけ」


 昇降口で団欒する数人にすくんでしまって、なんてわざわざ言わなくていい。

 母は俺の通院の日、絶対にパートを入れない。車で送ってもらう時もあるから。と、それだけではなく、きっと心配しているのだと思う。父は単身赴任、兄はもう家を出て、一人残った同居家族がこうでは言わずもがなだ。あっけらかんとした態度で接してくれるものの、長く心配させてしまうほど罪悪感のようなものが募る。ただ、家にいてくれることは確かに安心するから、結局何も言わず甘えてしまっている。それにもまた、申し訳なさを感じる。

 玄関先で言葉を交わしたら、すぐに自室に入った。ゆっくりして行けるほど時間に余裕は無い。

 私服に着替える。制服のままでも行けるけど、少しでも楽で好きな格好の方が落ち着く。肌触りの良いTシャツ、上からゆるくて裾の長いパーカーに袖を通し、スウェットを履いた。


「今日歩いてく」


 玄関に出ると、またリビングからひょっこり現れた母に一言告げる。


「そう、間に合う?」

「うん、大丈夫」


 靴を履きながら交わす、なんてことない会話。大口開けて笑い合ったりするわけじゃないけど、


「行ってきます」


 そう言うとき、きちんと微笑むようにしている。




 高校とは反対方向に、また十分歩く。住宅街から外れたところにそれはある。

 落ち着いた色合いの外観。病院といえば人工的な白だと思っていた頃が懐かしい。

 植木や花壇の緑がこれでもかと安心感を醸し出す。それと、毎年この時期になると咲いている、伸びた茎に小さく連なった優しい青紫。花には詳しくないけど昔調べた。リンドウの花。とても好きな色だ。この色を見る度、なんとなく、そこにいることを許されているような気持ちになる。

 受付を済ませて待合室にいるとすぐに呼ばれた。俺はここではなかなかの古株らしい。その証拠に、看護師も受付も大体顔見知り。慣れた空間には不安はそれほど無いが、楽しい場所でもないわけで、少し緊張してしまうのも事実。

 診察は身体の状態から。睡眠は取れているか、新しい傷は無いか、薬の効果はどうか––––、規則的な質疑応答はもう慣れたものだ。


 短い一問一答が終われば、部屋を移る。

 壁の落ち着いた白、床とテーブルのそれぞれ違った木の色、観葉植物の緑。おおよそ病院とは思えない部屋。


「律くん、こんにちは」


 石井先生は、いつも同じ格好をしている。固めていない流した髪型、白衣の中の黒い服。優しさに特化した話し方も相変わらず。四年前から何も変わらない。


「この二週間、どうだった?」

「……先週くらいから、割と良いのが続いてたんですけど––––、」


 調子悪いってほどじゃない。だけど。


「頑張ってたんだね。続きを聞かせて?」


 どう言葉にしようか、そもそも言おうか悩んでいると、まずは肯定が降り注ぐ。促されるまま、まとまらない感情を吐き出した。


 進路希望を考えなければいけない。

 将来への不安が襲ってきた。

 こんな身体で、心で、やっていけるのか。


「そっか。話してくれてありがとう。」


 視線を彷徨わせたままに話すと、ゆったりとした声で包まれる。


「誰でも自分の将来についてはたくさん悩むよ。律くんも同じだね」

「––––でも俺は、皆とは違うから」


 身体に力が入ってパーカーの袖をグッと握る。皆と同じ、なわけがない。


「悩みが違うのもみんな一緒だよ」


 先生は一呼吸おいて、続けた。


「律くんは高校に入った。あの時も悩んでたけど、自分にきちんと向き合って、一緒に考えて、頑張って入学出来たよね」


 それには頷く。高校は、病院の近くで、こんな状態でも受け入れてくれる場所で。そうやって、自分で選んだ。


「それはきっと、今でも出来るんじゃないかな?」


 自分に向き合って、考えて。これが今、俺に出来ることなのだろうか。

 いや、これだけが今、俺に出来ることなのかもしれない。


「まずは楽に考えてみよう、ね?」


 そう言った先生の、目が線になるほど大きな、それでいて静かな笑みは、かなり効く。



「じゃあ他に話しておきたいことはある?」


 終わりに決まって聞かれること。いつもは特に無いと答えることが多いけど。


「……そういえば、同級生に会って」


 美術室にいた彼女––––美彩季のことを話した。どういう人で、初めて会ったのはこうで、何を話して。思い出すまま、詳細に。


「そうなんだ。二年になって同じクラスの子と話せたのは、初めてかな」

「はい、だからやっぱり……、緊張、するんです」

「そっか。緊張するよね」


 先生は真っ直ぐ、俺を見た。


「律くんにとってその子と話すのは、嬉しい? それとも、苦しい?」

「俺にとって……」


 最初は怖くて仕方がなかった。でも今は、少し、言葉を交わせている。

 せっかく話せた同級生なのだから。


「緊張はするけど、話せたらすごく嬉しくて。……もっと話したい。仲良く、なりたいです」

「そう。なら良かった」


 そう言うと、先生はまたあの笑顔を見せる。


「楽しいことも、苦しいことも、正直に話してごらん。焦らないで、少しずつで良いんだよ」

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