2話 竜胆色
竜胆色:一
教室に入る。朝のHRは終わっていたけど、授業には間に合ったからセーフ。
ガヤガヤと騒がしいのは、次の授業のことや昨日の放課後のこと、他愛も無い話がそこかしこでされているから。ただの、日常。
何人かに声をかけられる。おはよーとか、今日もやってんなあとか、笑いながら。そんな軽い言葉に軽く返す。
窓際の前から二番目。授業に飽きたら外眺め放題だけど、一番後ろじゃないところが惜しい。
「おはよう美彩季。そろそろ木田先生に怒られるよ」
「おはよ。そんなん知らない」
席に着くなり、
教壇に目をやると、一際騒ぐ男子が数名。その一人、明るめの茶髪をした奴がこちらを見る。
「おいおい、授業に間に合えばセーフと思うなよお」
「うるさ」
それ以上の感想は無かった。
一時間目の先生が入ってくる。それを確認すると固まっていた人達は皆散り散りになって席へ着く。何人か他のクラスも混じっていたらしく慌てて教室を出ていった。
授業、面倒だな。数学なんて何に役立つのか。今日の単元なら理解は出来ているから、退屈が加速する。
「ねえ、まさか寝ようとしてないよね」
振り向いて囁いてくるのは風子。
「今日まだ簡単なやつ」
「そういうことじゃないし。いっつもそれ言うけど、いつか美彩季が分かんなくなっても誰も教えてくれないからね」
「自分でどうにかするからいい」
そう言うと相手は膨れて黒板を向き直した。どうやら勝ったらしい、とは思うけど、結局寝たら学級委員の正義感とやらで叩き起こされる。それは寝覚めが悪いから嫌だ。居眠り対策と退屈凌ぎを兼ねて、ノートの端にペンを走らせる。外は風が強い。この目で見た、風に乗って飛んでいく木の葉を絵に収める。
昼休みになれば、いくつかのグループから昼食のお誘いが来る。
「今日は眠いからパス」
そう全て断ると、遅刻しといてまだ寝るのか、と決まって笑われた。眠いものはしょうがない。そうでなくても何かしらの理由を付けて断るのだが。誘いを受ければ、気味悪くVIP扱いされるのは明白。
外は運動部が昼練をしている。あの人達は二・三時間目の間に早弁をして乗り切っているらしい。教室の中は他クラスもちらほら入り混じりつつ、会話をしながら昼食を楽しんでいる。皆、誰の席でも構わず座る。このクラスの良いところは、そこにいない人の席でも一応気にして「借りまーす」と空中に声をかけてから座るところ。
ただ、廊下側の一番後ろの席は絶対に使われない。
そこは、黒瀬律の席。
教室に来たことはないけど、もし来た時にいきなり初対面の人が座っていたら嫌でしょ、という暗黙のルール。そんな少し無意味に見える気遣いも、良いところだと私は思う。
昨日バイト先で貰った廃棄のパンを一つ、口に放り込んで、机に伏せて目を閉じた。
今寝ておかないと絵を描くことに集中出来ない。今日は美術室で描ける日なのに。
––––目が覚めたのは多分、昼休み終了のチャイムのおかげ。アラームとして有能すぎる。
水曜は五時間で終わり。もっと言えば五時間目は〝総合〟なんて銘打ってあるから実質授業は終わったのと同じ。楽観的に構えていると、どこからか〝進路関係の話をされるらしい〟との噂が聞こえた。
教室に入ってきた木田にいつ来たのか問われ、「一限間に合った」と答えると「おおそうか」と特に怒られなかった。意表を突いた返答に数名が顔を見合わせ、クスクスと笑っていた。特に大樹は、自分の物真似とは違う結果に堪えきれない様子。
何枚かプリントが配られた。
「いいかあ。大学に行くなら進学に丸つけて、志望校まで書けよ。就職も分野までなー」
一つ一つ説明されるけど、結局は『進路希望調査』と書かれた紙が大切で、それ以上に厄介だということ。
「自分の将来だからな、よく考えて書くんだぞー」
最後の一言が、耳にこびりついて不快だった。
五時間目終了の流れでHRも終われば、すぐ荷物を持って教室を出る。挨拶をされたら返す事務的な作業もそこそこに、真っ直ぐ向かう先は決まっている。
美術室。まだ誰もいない。
置かせてもらっている描き途中のキャンバスを準備しつつ、どこに座るか決める。黒板近くの窓際は––––、察するに律の指定席なんだろう。
キャンバスを少し遠くまで移動させる。窓際、黒板から一番遠い席で、画材を広げた。
* * *
今日は五時間全て、この教室で受けることが出来た。調子が良い日。
廊下から声が聞こえなくなるまで、窓の外を眺めて待つ。校庭ではサッカー部や野球部なんかが準備を始めていた。何やら声を掛け合って、笑って。窓枠に収まったその景色は、俺とは隔絶された世界。
突如、ノックの音がした。
「黒瀬、ちょっといいか?」
木田先生が入ってくる。来てくれなかったら危うく負の感情に足を突っ込んで、今日を台無しにするところだった。
「今日はこれを渡さないといけないんだ」
その言葉とともに『進路希望調査』と書かれた紙が差し出された。そんな字面を見たら、不安でしかない。
「俺、進路……まだ全然考えられなくて」
「そうだよな、一緒に考えていこう。これもそのための材料ってだけだから」
そんなに深刻な顔すんなよ、と笑って背中を叩かれた。そうされると、もっと気楽に、考えすぎないようにと思える。だから、自然と微笑んで頷いていた。
期限は二週間。木田先生は説明を終えて去ろうとするが、足を止めた。
「そういえば今日、葉山もいる日だろ」
何か話せたらまた聞かせてくれよ、と笑顔で言いながら、今度こそ去っていった。
そうだ、今日は彼女がいる。
先週の木曜日、あの時は言葉を交わせた。しかし、一週間というのは再び緊張を呼び起こすのに十分な時間。あの日みたいに話せる自信がない。
いや、無理矢理話そうとしなくても、俺も彼女も絵を描きに行くのだから別にいいはずだ。もっと話せるようになるのはひとまず置いて、無理はしない。それが最善だ。
廊下が静かになった。一度一階まで降りて、階段横の自動販売機で温かいミルクココアを買う。安っぽくて人工的な甘さだけど、このくらい甘ったるいのが良い。
一口飲んだペットボトルを握りしめ、美術室に向かった。
彼女はもうそこにいた。
この前と違う席。もしかして、俺がいつも使っている席を分かってて避けてくれたのだろうか。––––なんて、入る前から考えを巡らせていても仕方がない。
彼女の邪魔をしないように、気に障らないように、そーっとドアを開けて一歩踏み入れる。心臓の音が一番うるさい。
「おはよ」
突然声をかけられて、思わず肩を震わせてしまった。彼女はキャンバスに眼差しを向けたまま。
「……おはよ、う」
掠れた声。やはり急には難しい。
相変わらず彼女はこちらを一瞥もしなかった。目が合うのは怖いから、好都合と言えなくもないが。
「そんなに恐る恐る入ってこなくてもいいじゃん」
気にならないようにと思っていたが逆効果だったか。反省しなければ。
「あ……ごめん」
「いや謝ることじゃないけど」
それを聞いてまた、ごめんと言いそうで言葉を飲み込む。
「使わせてくれてありがと」
彼女はまるで感情のこもっていない声でそう言えば、言葉を投げてくるのをやめた。
俺は何も返せないままで。そんな自分がつくづく情け無いが、向こうは黙々と描き始めたので今更邪魔するのも申し訳ない。何か返すのは諦めた。黒板前の机に置いてある〝ご自由に〟の裏紙を数枚いただいて、いつもの席で鉛筆を取り出す。
そうだな、さっき見たグラウンドの風景でも描こうか。
飲みかけのココアを傍に置き、鉛筆を走らせた。
気づけば六時前。
やはり絵を描いていれば一人の世界に没入出来るらしい。
ふと横に目をやると、もう一人もまだ片付けに取り掛かっていなかった。キャンバスを見つめたまま。すっかり見慣れた無表情は、何を思っているのか掴めない。
完成、したんだろうか。
と、おもむろに彼女はこちらを向いた。目が合って、俺は瞬時に俯いてしまった。
「何?」
「あ……いや……」
ジロジロ見て、気づかれたら目を逸らして、挙句に何も答えられなくて。完全に気持ち悪い人間じゃないか。ただ一言、その絵が完成したら見てみたい、そう言えばいいのに。
ああ、もう誰かに嫌われるのはごめんだな。
なんて思考が止まらぬ内に、彼女が口を開いた。
「ねえ、ちょっと来て」
––––『来て』?
それはあれだろうか、正座でもさせられて怒られるやつだろうか。
いや、そんな重大なミスは犯していないか。
いやいや、何がその人にとって重大かは分からないじゃないか。
悪い方向に考えを巡らせてしまって身も心も萎縮する。それでも、とにかく言われた通りに。鉛を括り付けられたように足が重い。
座る彼女の右側に立つ。自分の足元だけが視界に入る。キャンバスが少し、こちら側に向けられたような気がする。彼女は一つ息を吐いてから声を出した。
「どう、思う?」
いつもの淡々とした調子に、少しの躊躇いが加わっているように感じた。そっと顔を上げてみると、思わず目を見張る。
キャンバスに広がっていたのは、この前少しだけ見ることが出来た絵。ここの正門をモデルにした絵。
あの時より、沢山の色が乗っている。立体感がある。葉が落ちていく一瞬を切り取って、柔らかく大切に抱えて額に収めたような。
「客観的な意見が欲しくて。どう思う?」
声がかかってもなお、俺は絵に夢中で。
どう、思うか––––。
「……あったかくて、……包んでくれる」
「……え?」
口にしてから、はたと気づく。
今、俺は何て言っただろう。あったかくて? 包んでくれる? 客観的な意見ってそういうことじゃない。声を振り絞ったわけでもないのに、心の中がいつの間にか出てしまっていた。
幼稚な感想に恥ずかしさを覚え彼女の方を窺うと、まさに鳩が豆鉄砲をくらった顔をしていた。
「あ、いや……えっと……」
慌ててまた下を向いてしまう。変なことを口走ったのに、挽回出来るスキルは持ち合わせていない。
目を泳がせていると、ふふっと笑う吐息が聞こえた。
「そんなこと言われたの初めて」
彼女はゆっくり立ち上がり、画材を片付け始めた。とにかく何か、謝りたい。
「……ごめん、……変なこと、言って」
そう言うと、彼女は「変じゃないよ」とまた笑う。
「なんか描き進めるの自信無くて聞いたんだけど、まあ……良いのかもね」
声をかけられた意図が分かると、より一層。
「いや……やっぱ変だったよ」
「んー想定の斜め上ではあったけど、言ってくれて良かったよ」
本当に思ってくれたんでしょ、とこちらの顔を窺う。
もちろん、という意味を込めて力強く頷いた。またふっと笑う声がするのは、少し嬉しい。
「そろそろ片付けないと。ありがと」
その言葉で自分の使っていた机に気づく。彼女の方はもう殆ど片付いていた。
「絵、見せてくれて……、ありがとう」
そう口に出せたのは使っていた席に戻ってから。この距離で届くかは分からない声量だったけど、どうやらちゃんと聞こえたらしい。彼女はこちらに顔を向けると、
「今度、律の絵も見たいな」
じゃあまた、と口角を上げて出て行った。
感謝を伝えられただけで、また話が出来ると確信しただけで、十分だ。
美術室を出る。薄暗くなった廊下、自動販売機隣のゴミ箱に、空のペットボトルを捨てて帰った。
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