み空色:二
木曜日。朝のHRが始まった頃に登校する。いつもの教室に入れば、授業はスムーズに行われる。時間割は基本的にクラスと同じ。先生の都合、他クラスとの調整、実技科目は特に内容の観点から課題を仕上げておく形になることもしばしば。突如として科目が入れ替わることもある。今日も入れ替わり立ち替わり先生が来ては、授業をしてくれるか、プリントを置いて去っていく。後者だとどうしても、面倒に思われているかな、と少しだけ気にしてしまうが、それでも迷惑を掛けまいと全て真面目に取り組んでいるつもりだ。それが俺に出来る精一杯。
クラスでのHRは副担任が受け持つのが木曜。だから週に一度、六時間目終わりに木田先生と話す。個人面談の体を取ってはいるけれど、「どうだ元気か?」から始まれば、あとは何てことない雑談ばかり。
この日を少しだけ、いや、かなり楽しみにしている自分がいる。学校で誰かとゆっくり話すことなんて無いから。その上、雑談を気負わず話せる人は木田先生くらいかもしれない。
一年の頃も担任だった。三年ではクラス替えが無いから、すでに三年間ずっと先生のクラスであることが確定している。それ故か安心感が別格で。先生はいつも相槌を打ちながら、にこやかに聞いてくれる。「この皺はほうれい線じゃなくて笑い皺だからな」なんて冗談を言っていたことがあったが、案外本当なのではないかと思えるほど。だから、こちらも表情が自然と緩む。
昨日の事を、ちょっとした失敗談のように話した。あの人と話せれば良かったな、なんて楽観的な言葉も添えて。
先生はなぜか少し嬉しそうな様子。
「それ、葉山だろ。同じクラスだよ」
「えっ」
「あいつも絵描くの好きなんだよなあ」
クラス替えから半年が経とうとしている今でも、どんな人がいるのか全く知らない。絵を描くこと以外の共通点。それがあればなんとかなる、かも、しれない。
「話しかけたり……出来ますかね?」
「大丈夫だよ。あいつはまあ、ぶっきらぼうなとこはあるけど、いい奴だからな」
せっかくだし挑戦してみろ、なんて言う先生に背中を押された。次会えたらまず、昨日は言葉で伝えられなかったお礼をする。そう作戦を立てて、面談は終わった。
今日は真っ直ぐ屋上へ向かう。美術室が使えないのならすぐに帰ってもいいのだが、廊下の人気が無くなっても下駄箱や門の前でたむろしている、なんてことがたまにある。だからもう少しだけ、時間をずらして帰ることにしている。どうせ一人で過ごすのなら、開放的な場所が良い。
ゆっくりと階段を上がる。ドアを開けると、離れたところに人影が見えた。ベンチに座って昨日の俺と同じ方を眺めている。
いつもは誰もいないのに。
まあこのくらい離れていれば、声はかけられないし興味も持たれないだろう。その証拠に、相手はこっちを見ていない。
心の中で呟く。自分で自分を納得させる事で、ようやく踏み出す足。ドアを閉めて振り返った瞬間、心地の良い風が吹いた。
気付いたのは、その時。
風になびいた髪の黒と、見えた横顔の白とのコントラスト。それだけで遠くからでも分かる。
間違いない。昨日の彼女、『葉山』さん。
まさかもう『次会えたら』が来てしまうなんて。声をかけるにしても、心の準備が出来ていない。
しかし、この機会を逃すと次はいつになるか分からない。せっかく先生と一緒に作戦を立てたのだ。
挑戦、してみるしかない。
自分を奮い立たせた感情とは真逆の足取りで近づく。震え出す手は必死に抑える。
「……あの、」
上手く出せずに掠れた声でも何とか聞こえたようだ。右に振り向いた彼女の目は、顔は、一瞬でも見ることが出来なかった。
「何ですか?」
短いのか長いのかも分からない沈黙。声を絞り出す時間がどうしても必要なんだ。
「……昨日は、……ありがとう」
「昨日?」
俺が先程作り上げてしまったのと同じような間の後、ああ、と思い出した様子で正面の景色に目を戻した。
「別に、何もしてないけどね。あそこ私の所有地じゃないんだから」
「……いや、絵を、その、……ちゃんと、しまっ、ておいて……くれたから」
散り散りの言葉。こんなで伝わっているのだろうか。
「あー、いや普通でしょ」
淡々と言葉が返される。その普通の優しさが嬉しかったんです、とは口に出せなかった。ここで会話が途切れた。俺のせい。
風の音。俺はそのまま動けずにいた。彼女もそのまま、屋上から見える世界に目を向けている。しかし、なびく髪すら見つめるのを憚られた。
と、おもむろに彼女が振り返る。
「ねえ、座れば?」
気怠そうだけど透き通った、落ち着いた彼女の声。この頃にはもう、昨日の様な棘と冷たさは感じられなくなっていた。無くなったのか、もともと俺の勘違いだったのか。感じられるのは、冷たくない、熱くもない、俺と同じ体温。
腰掛けたのは適度に距離の空いた右隣の一つ。それを待ってか、彼女がまた口を開く。
「で、誰ですか?」
聞かれて初めて気付く。そうか、誰かと話すなら名乗るのが先だったかもしれない。
「……黒瀬、
「くろせりつ? ––––ああ、同じクラスの」
私も2-3なんだけどさ、と言う彼女はきっとこちらが知らないであろうと想定している。俺は皆のことを知らないのに、皆は俺のことを知っているのか。その格差を埋めたいのに、埋められない。
「どーも、葉山
こちらに目線をやり、軽く頭を下げてまた戻す。その顔を少しだけ、窺うことが出来た。凛とした、どこか遠くを見つめているような瞳。
「葉山……さん、は、何でここ、に、いるんですか」
「んー、呼び方気持ち悪い」
口調は変わっていない。怒られたわけではない、と思う。
「〝さん〟とかいらない。美彩季で」
「えっ……ああ……、美彩季、で」
「そ。同級生に敬語使うような奥ゆかしい人間じゃないから、私が」
そうか、同級生ってそんなものか。意識して、改めて聞く。
「……美彩季、は、何で、ここに?」
彼女は軽く頷いた。合格らしい。
「木田に呼ばれてるの、四時半に。それまで暇潰し」
設置された時計を見てみる。針は四時二十分を指していた。
「……呼ばれてる、」
「ただの面談。話すだけ」
彼女はまるで興味が無いようにそう言った。
その面談とかいうやつ、俺のと同じなら本当に『話すだけ』だ。
「そう……なんだ」
聞いておいてこの反応は何だ、と、自分で思う。また自然の音だけが聞こえる。
彼女は時計を見ると、ゆっくりと立ち上がった。座っていた場所を離れようとした時、思い出したようにこちらを向いた。
「もしかして、放課後いつも美術室使ってる?」
予想していなかった質問。悪い事はしていないのに少し狼狽えた。
「ああ……美術部が、使ってない時に」
ふーん、と言った後、少し考えている様子。何を言われるのか不安で仕方がない。
「あのさ、」
どうしよう。なぜだとか、教室来ないくせにとか言われたら、俺は––––、
「水曜だけ一緒に使っていい?」
––––一緒に使う?
意表を突いた発言。少々抵抗はあったが、断れる立場ではない。あの場所は彼女の所有地でなければ、俺の所有地でもない。実際、絵を描いていれば一人の時間だ。特に気にすることもないだろうし、それでもいいかと腹を決める。
「……平気、だよ」
「ん、ありがと」
彼女はふっと口角を上げて去っていった。笑顔は、初めて。
たった十分にも満たない会話。
俺はちゃんと話せていただろうか。
手の震えはいつのまにか治っていたようだ。それでもやはり身体は縮こまっていたのか、力が抜けて自然と背もたれに寄りかかる。
大きく息を吐く。目を閉じてみる。
気怠い雰囲気なのに芯の通った声、言葉、態度。彼女の姿が勝手に反芻される。
俺は彼女と話せた。いや、彼女は俺と話してくれた。
もし、もっと話すことができたなら。
そんな淡い期待も持てる余裕が生まれた。水曜日、と言ったか。きっとまた美術室で会うのだろう。
その時は、今よりもっと。そう思えた。
空は相変わらず、澄みきった色をしていた。
* * *
屋上を後にして階段を下る。木田のいるところ、職員室へ。
面談という響きはまあ苦手で、それでも大人しく向かっているのは多分、木田と話していると
うちのクラスは全員、というと。
さっきの人も同じだろうか。
手を震わせながら話しかけてきた、最後まで目が合わなかった、震える声を絞り出してまで話そうとしていた人。まだ暑さが消えないというのに、シャツの袖を捲りもせず握りしめていた人。
ゆるくウェーブしたふわふわの髪。青みさえ感じるほどの漆黒と、陶器のような肌の白。––––いや、白というか血色が無いのか。その二色は私と似ているようで、違っていた。
前髪の影から覗いた目は、段ボールの中で怯え絶望している子犬と同じ。光が無くて、今にも消えてしまいそうで。やっと聞こえた低く柔らかい、少し曇ったような声は、綺麗でどこか脆いガラスみたい。おどおどしている姿を見ると、すらっとした高身長も小さく見えた。
何にそんなに怯えているのだろう。
多分、私に向けた恐怖とは違う。何かもっと、別のもの。縛り付けられるほど、何かへの恐怖を抱えているように見えた。
あの端正な顔立ちと子犬のような目があれば、「かっこいい」「かわいい」なんて女子が騒ぎながら群がるのだろうと想像がつく。そんな存在になると、居心地が悪い反面で多少の悪事は許される。だからクラスでも適当にやっていけそうなのに。
まあ何か理由があって無理なんだろうな。何かに苦しんでいることは見てとれたし、わざわざそれを詮索する趣味も無い。
職員室に着く。ノックをしてから「失礼します」の流れが嫌い。
ドアを開けるとすぐに木田と目があった。
「おお、早かったな」
時間ぴったりに来た。遅刻魔はそれだけで褒められるらしい。
木田のデスク。隣の席に座るよう促される。部活でいない先生の席は大概勝手に使っているんだろう。大雑把というか自由というか。
「どうだ元気か?」から始まる雑談は、段々と家庭の話に入ってきて、面談らしくなる。それでも嫌にならないのは、やはりそういうこと。
「あんま自分だけで考えすぎるなよ」
「あーはいはい」
「ちゃんと分かってんのかあ?」
気持ちのこもってない返事だなあ、なんて笑いながら言われる。人に心配されるのは、職員室に入るお決まりの流れより数万倍嫌いだ。
「お前が何も言わないならこっちから聞くからな。覚悟しとけよ」
そこまで念を押されるのは、人に頼るのが嫌いな性格を見透かされているから。そんなところで、担任としての威厳を思い知らされる。
帰り際、ふと思い出した。
「そういえば、黒瀬律に会いましたよ」
「ああ、黒瀬からも聞いたよ」
どうやら昨日のことを話していたらしい。もっと話せれば、と悔やんでいたようには見えなかったけど。
「いや、さっきも会って––––」
「おおそうなのか!」
そんな食い気味でリアクションされるとビビる。なんだこの食いつき方。
ちょっと引き気味になりつつも屋上でのことを話した。木田は終始、気持ち悪いくらい嬉しそうに聞いていた。
「そうかそうか、話せたのか……」
話が終わったら終わったで、イスにめいっぱい背中を預けつつ上を向いて、しみじみ感動している。そこまでの出来事なのか?
「なあ、せっかくだから黒瀬と仲良くしてやってくれよ」
妙な提案。加えて、一番苦手な類い。
「仲良くするとかそういうの別にいいんで」
「まあまあそう言わず」
「嫌ですね」
「そう言いつつしてくれるんだろ?」
「しません」
別に、仲良くなろうなんて気合いは入れたくない。もともとそう。誰かと仲良くしようと思って接したことはない。
分かったよ、と笑われる。その笑い方は、どうせ仲良くなるだろうとか思ってそうでムカついた。
それにこの感じ、もしかして。
「もしかして、律に会うこと分かってて、美術室使っていいって言いました?」
そう言うと明らかな反応。『ギクッ』という音が聞こえた気がする。私が絵を描きたいと言ったら、いや正確にはそれを見透かされて、美術の担当教員に確認を取ってまで使わせてくれたのは木田だ。
「い、いやいや、そおんな計算じみたこと俺ができるかよお」
こいつは黒だな。
「友達作ってあげたいのは分かるんですけど。私は適任じゃないから、絶対」
「いやいや、本当そういうんじゃないからさあ」
まだ粘る気か。別にいいけど。
変な策略に利用されているとしても、人との関係に優劣つけるつもりはない。拒むつもりはないし、かと言って深い仲になろうとも思わない。
思わないけど。
あの絵は妙に惹かれるものがあった。
机の下に避けておいた、忘れ物だったらしいあの絵。誰もいない教室、それを描いた鉛筆画。多分それほど時間をかけずに描いたのだろうけど、完璧な構図。
そして、何かを言いたげで。繊細で壊れそうな、寂しさを抱えた絵だった。
そこらの浅はかな絵より断然、目を惹く。
絵のことについては話してみようかな。
挨拶を流して職員室を出る。
バイト先に自転車を走らせなければ。今日のシフトは短いけど、帰りが遅くなる。それでいい。
自分のことを考えるのはまた後で。
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