美術室、彩る黒
日向あじさい
1話 み空色
み空色:一
チャイムが鳴る。
今日の授業は終了だ。
教室には俺と、先生だけ。
「じゃあ黒瀬、続きは明日な」
担任の木田先生。いつものように健康的で自然な笑みでそう言うと、2年3組の教室に向かっていった。これからクラスで
俺がもし、2-3の教室に普通に入れて、普通に授業を受けていたら。いや、もう想像が出来ない。先生と一対一の空間、もしくは課題として渡されたプリントとの空間に慣れ切ってしまった。皆と同じなのは、教科書と担当の先生だけ。俺の普通が壊れて、もう四年目になる。その間、教室で過ごせたのは、ここの入学式から一週間だけ。多くの目が存在する空間には、まだ入れない。
それでも、この学校が嫌いなわけではない。むしろ逆だ。こんな俺を受け入れてくれた高校、理解のある先生方には感謝してもしきれない。別室で授業を受けさせてもらって、放課後は許可をもらって好きな場所に行って。敷地内の自然の多さも助けてか、おかげで少しずつ前向きに、少しずつ登校出来る日が増えている。
窓から見える景色は秋、都心からは外れた街並み。まだ紅葉はしていない。
暑さも残れど長袖が着られる季節になって、隠れた左腕のリストバンドとその上に通した輪ゴム。見た目だけでも普通であることが、ほんの少し、安心する。
ずっとこの部屋で一人だけど。保健室に逃げてしまうこともあるけど。毎日来られるようになっただけ、今年、この秋までの成長と言えるだろう。
放課後に行く場所といえば、美術室か屋上。美術部の活動日は月曜と木曜だから、今日は美術室が空いているはずだ。
人気が少なくなるのを待って目的地へ向かう。廊下は静まりかえっている。他の生徒は皆、友人揃って帰路についたか、部活の為に活動場所に急いだのだろう。どちらもあまり経験は無い。さぞ楽しいだろうな、と思っておく。どうせこの先、俺自身には訪れない時間だ。
美術室に行く目的は二つ。一つは絵を描くため。もう一つは、自分の世界を狭めないため。顔も名前も知らない人の作品が並ぶ。誰かが付けた絵の具が落ちないままそこかしこにデザインされる。そんな場所には、一人でいても孤独ではないように思えた。
そして、今日に限っては目的がもう一つ。忘れ物を探すため。昨日もそこで絵を描いていた。適当な紙に、鉛筆で沢山。適当が過ぎたのか、何枚描いたかも記憶に無い。それ故に、どうやら一枚置いてきてしまったらしい。唯一の及第点だったから覚えていて、少し残念で。今日は授業で使っていない、と木田先生から伝え聞いたからきっとそのまま、いつも使う席に落ちているだろう。
階段を一階分降りて右に曲がる。二階の一番東側が目的の場所。
ドアを開けようとした瞬間、体が硬直した。
誰かいる。
背を向けたイーゼル越しに見えるのは、俺の髪の黒とは違う、茶色が透ける硬すぎない黒の真っ直ぐな髪。折られたワイシャツの袖からも覗く白い肌。そっくりそのまま絵にしたいくらい、逆光に映えて美しい姿をしていた。
美術部か? だとしたらなぜ一人きりで絵を描いている?
いや、それよりも。座っているのは俺がいつも使う、窓際の一番端の席じゃないか。
––––目が合った。瞬間に心臓が跳ね上がって、俺はしゃがみ込んで隠れてしまった。
もう帰ろうか。
いや、そこに人がいるなら尚更早くあの絵を救出したい。
どうする。
忘れ物を取らせて下さい、とか言って走るか。一対一なら話せる。同級生だし。大丈夫。
いや、出来るだろうか。ちゃんと声を出せる気がしない。
思考が整理できずにいたら、突然ドアが開いた。そこにいるのは当然、絵を描いていた人。上靴に入っているラインの色が緑だから、同じ二年生だ。
「何ですか?」
冷たくて尖った視線と声色。そんな急に話しかけるな。こっちを見るな。こちらが挙動不審だったのだろうが、余計に体が強ばる。
でも、ちゃんと、伝えなければ。
「……忘れ、物、を––––、」
ああ、声が出てこない。駄目だ。何の音もしない時間が流れる。
「––––じゃあ入ればいいじゃないですか」
彼女はそう言って、ドアの端に寄って動線を作った。
そうだな。普通の感覚で言えばそうだろうな。
心の中でそんな悪態をつく自分に嫌気が差したが、とにかく相手の言葉に従って立ち上がり、美術室に入る。出来るだけ、素早く。
例の席の側に行き机の下を覗く。床に落ちていると思っていたが、机の下のスペースにしまわれていた。もしかして、踏むといけないから、絵の具が付くといけないからと彼女が配慮してくれたのだろうか。
視線を上げると、彼女の描いていた絵が見えた。何だか盗み見てしまった気分になってすぐ目を逸らす。描いた本人がすぐ側まで戻ってきていたから。
お礼を言おうとしてもやはり声は出なかった。頭だけ下げて美術室を出る。意識しなくとも小走りになった。足は屋上へと向かっている。帰る前に少し、落ち着きたい。
三階を過ぎ、もう一つ上がれば屋上への扉がある。ここは生徒が自由に使えるように、六時までは鍵が開いている。とは言え、昼休みには賑わいを見せるもののわざわざ放課後に訪れる人は少なく、今のところ鉢合わせたことはない。だから、一人で過ごすには最適な場所なのだ。
今日も一人。
さっきの出来事のせいか、階段を駆け上がって来たせいか、少し呼吸が乱れている。だがこのくらいならすぐに落ち着くだろう。
設置されているベンチの一つに腰掛ける。校庭側を向いているが、座ってしまえば見えるのは空と緑だけ。そよ風が涼しい。深呼吸をしながら見上げた青さが優しい。この青色を絵にしてみたい。
一人きりの時間に触れたら、随分と良くなってきた。
学校で教員以外と話すのはかなり久しぶりだった。まあ、今回だってきちんと話せてもいないのだが。あんなに緊張してしまうとは思わなかった。
あの時見えた彼女の絵。細かくは見ていないけど、きっとここの正門に続く木々の整列した通りだった。暖かくて、優しくて、柔らかい作品だった。まだベースの色だけが乗っていたから途中だろう。完成が見たくなる。
もしまた会ったら。その時は上手く話せるだろうか。
あの人と話せる様になりたい。
こんなこと考えたのは何時振りだろう。せめてあの絵のことだけでも語れたら––––。
この日、この出来事が僕の頭から離れなかった。帰ってからも、ずっと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます