凭れ合う

「してるもん!」

「してない。手ェ離せ」

「してるぅぅ……」

 真穂の手を引き剥がし、解放されたシートベルトを適切に装着する。

 かちゃ。

「うわぁぁあぁぁぁぁ……」

 身体を固定された音に絶望した真穂が、号泣する。

「窓開けるから。な」

 うぃぃ……。

「やだあぁぁぁぁ! これも、いやあぁぁぁあぁぁぁああぁぁ!」

 絶叫する真穂の拳が、空間を占拠し、可動域を制限するチャイルドシートをがつがつと殴る。

「ごめんね、真穂君……」

 衣澄さんが、助手席から振り向いて言う。

「だが、行きたいんだろ」

 今日は、衣澄さんの提案で、動物園に行くことになったのである。

「うん……」

 もとより車が嫌いな真穂だが、動物園は初めてな上に遠いので、不安なのか、殊に機嫌が悪い。

「でも、やだあぁぁぁああああぁぁぁ……」

「何か、観てた方がいいのかな?」

「いや、余計に具合が悪くなる」

「そっか……。じゃあ……」

 衣澄さんが、鞄の中を探る。

「あああぁぁぁぁぁぁあああああああぁぁぁ……」

「真穂君、はい!」

 衣澄さんの手に握られているのは、丸っこくてふわふわした、トラのぬいぐるみ。

「ラナちゃんだよ!」

「ぅえ……?」

「ラナちゃんもね、車、嫌いなの。でもね、動物園にお友達がいるから、会いに行きたいんだって」

「そうなの……」

「真穂君、抱っこしてよぅ」

 衣澄さんが、ぬいぐるみの短い手を、ぴょこぴょこと動かす。

「うん……。いいよ……」

 ぬいぐるみを受け取った真穂が、嘘のように静かになる。

 ふわふわに埋もれた円らな瞳を、涙越しにじっと見つめ、秘密の話でもしているのだろうか。

「ありがとう、衣澄さん。真穂、お礼は?」

「ありがとう……」

「いいの、いいの。私も、苦手なこといっぱいあるから」

「ちゃんと、返すんだぞ」

「うん……」

 これは、引き剥がすのが大変だ。

「ん、いいって。真穂君にあげる」

「そんな訳にはいかない」

「そう?」

「返すからな」

「うん……」

「本当に、いつもありがとう。衣澄さん。……じゃあ、行こうか?」

「うん……」

 高速道路に入る前に、真穂は、ぬいぐるみを抱いたまま眠ってしまった。

「ちょっと、サービスエリア入るよ。真穂君は?」

「寝てる。このまま起こさない方がいい」

「そうだね。じゃあ、静かにね……」

 無数の車の動脈から逸れ、穏やかな滞りへと入る。

 滞ったのを見計らって、高速に入るときに閉めていた窓を開ける。

「律君は? どうする?」

「あぁ……」

 真穂の寝顔と、朔斗の微笑みを見比べる。

「すぐ、戻ってくるよ」

 見比べるものに、衣澄さんの笑顔が加わる。

「待ってる」













 俺は、どうかしている。













 静寂が破られる。

「お待たせー!」

「お留守番、ありがとう」

「あ! ごめんごめん、静かにしないとだった……」

 少し萎れた衣澄さんが、そうっとドアを閉める。

「大丈夫だ。よく眠ってる」

 熟睡している真穂だが、ラナちゃんは、その腕にしっかりと抱かれたままである。

「そう……」

「じゃ、行くよー」

「あぁ」

「よろしくお願いしますー」




「ねえ、ほんとに、ラナちゃんのお友達なの……?」

 その仕草や表情には、人間の生活圏に溶け込むネコと共通のものが窺える。

 が。

 硝子越しにも拭えない野生。

 明らかに分厚いことの分かる毛皮。

 重たく、軽い身体。

「うーん……。もしかしたら、違うかもねぇ……」




「おともだちっ!」

 赤褐色く塗装された木製の棚に、肩を寄せ合って並ぶ、ふわふわ。

「良かったねぇ、ラナちゃん……。うん、そうなんだ……。そっかぁ……」

「ほんとに、いい子だね。真穂君は」

 衣澄さんが、一人で喋る真穂を微笑ましげに見つめる。

「あぁ」

「真穂君、ラナちゃんのお友達、お家に連れて帰る?」

 朔斗が屈んで、真穂と同じ目線でふわふわを眺める。

「ううん」

 意外にもきっぱりと言い放った真穂が、顔を上げる。

「いいの?」

「ぼく、ぬいぐるみいっぱい持ってるし」

「うん」

「ラナちゃんのお友達はね、ここに、お友達がいっぱいいるの」

「そっか」




「衣澄ちゃん、ありがとう」

「え……?」

 衣澄さんのアパートの前、真穂が、一日握り締めていたトラのぬいぐるみを差し出している。

「あげる、って……」

「衣澄ちゃんは泣き虫だから、一緒にいてあげないと心配なんだって」

 真穂の目には、奇妙な説得力がある。

「ラナちゃんが、言ってたの?」

「うん、言ってた。ラナちゃん、今日はありがとう。またね」

 衣澄さんが、差し出されたぬいぐるみを受け取る。

「ありがとう、真穂君……。またね……」

 衣澄さんが、呆然としたまま、ぬいぐるみの短い手を振り――

「うん、またね。楽しかったよ」

 衣澄さんに抱き締められながら、真穂がもごもごと言う。

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