瀧元たきもとさん、どうですか」

「はい」

 返事をし、顔を上げるが、頭の中は真っ白だった。

 真っ白というか、真っ黒というか、砂嵐というか、小さな文字と大きな文字が蟻の大群みたいに蠢いているというか――

 テーブルを囲む十数人の顔が、じっとこちらに注目している。

 少人数での会話や、大人数を前にしたプレゼンなんかはできるのに、こういうのだけは、酷く苦手だ。

「ええと……そうですね……」

 今、何の話してたんだっけ。

 なんか、根本的な何かがどうのとか……?

 いや、それはもう終わったか?

 じゃあ、何……?

「その……」

 適当に声を出して繋ぐけれど、もう、レパートリーが無い。

 次は、何て言おうか。

 目線を落として、足元の鞄の中に見える虎のぬいぐるみの耳を眺める。

 どんな話でも聞いてくれる、大きな耳。

 そろそろ、クリーニングに出さないとな。

 いや、いやいや。

 そんなこと、いいから。

 早く答えないと。

 でも、何、を……?

「今ね、十二ページの……」

 一つ空けた隣に座っていた男子学生が、色白の手を伸ばして、目の前に置いてある資料をぱらぱらと捲る。

 彼は同学年で、名前は確か、是澤これさわ君。下の名前は、知らない。

 時々、講義室や図書館で見かける、飾りっ気のない、ごく普通の大学生。

 なのに、私の目には、際立って見える。

 いつ見ても一人で、両隣の席が空いているし、異様なまでに大人びて見えるから。

「ここです。ここ」

 ぼうっと考えているうちに、彼が、目的の箇所を探し当てたらしい。

 長い指が、左の真ん中の少し下辺りを、とんとんと叩く。

「この表現の解釈は、みんなそれぞれどうしたのかな、っていう話です」

 そこには、誰が引いたのか、傍線が引かれていた。

 誰が、じゃない。

 私が、一昨日、下読みしたときに引いたんだ。

「あ、書いてあるじゃないですか」

 彼の指が、下線を辿って、紙の余白に詰め込まれた文字の羅列に辿り着く。

「これは、なかなか面白い視点ですね。是非、言ってほしいです」

 身体が勝手に、彼の指先が示す文字を読み上げる。

 その後はよく覚えていないが、決して、不快な雰囲気ではなかったことだけは分かる。

「あ、あのっ、ありがとうございましたっ、本当に……!」

 深々と頭を下げる。

「や、いや、いいんです! いいんですって!」

 すっかり慌てさせてしまったが、深々と頭を下げても気が済まないくらいに、感謝していた。

「すみません。でも、ありがとうございました……」

「僕は、何も。瀧元さんが、自分で頑張ったことですよ」

「いえ……」

「あぁ、ええと……じゃあ、また」

「あっ、ちょっと、待ってください!」

 長い脚の割に、ゆっくりと歩き出す彼を、反射的に呼び止める。

「はい?」

「あの、お名前と、連絡先……。あの、また、色々、教えてください……」

 自分からこんなことを言うのは初めてで、顔がばっと熱くなる。

「だから僕は、何もしてないですって」

 言いつつ、連絡先を交換してくれる。

 是澤朔斗。

「さくと、君? で、合ってますか……?」

「そうです。ちょっと読みにくいですよね」

 彼が、そう言って笑う。

 笑っても、年齢に見合わない雰囲気は崩れない。

「瀧元さんは……、いすみさん?」

「はい。こちらこそ、読みにくい名前で……」

「いえ、いい名前です。よく似合ってますよ」

「ありがとうございます……」

 今よりさらに、よそよそしかった頃の、彼と私。思い出すと恥ずかしくなる。

 でも、何度でも思い出すんだ。

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