砂掛(すなかけ) ユキエの休息

都心から車で40分。新興しんこうのベッドタウンにある単身者向け築浅12階建てマンションの8階。

同じフロアの他の部屋より、やや広い南向きの角部屋。


ベランダに続くはき出し窓のカーテンを勢いよく閉めると、海沿いを一望する夜景は一瞬で消え去り、調度品の少ない機能的な室内は暖色系だんしょくけいのフロアライトでシックに統一される。

砂掛すなかけユキエは、シャワーで濡れた黒髪にタオルを巻きつけながら、革張りのソファの真ん中に細い腰を深々と落とした。

目の前のカフェテーブルの上のグラスを手に取れば、たっぷり注がれてあったドライジンの海をぶつかり合うロックアイスが、小気味いい音をたてる。


バスローブをまとったしなやかな裸身は、まだ湯気をまとっている。

ゆっくりヒトクチあおれば、クセのある風味が爽やかに鼻を抜けると共に、冷え切ったアルコールが火照ったノドを通りすぎる快感で全身が柔らかく弛緩しかんする。


「ホーッ」と満ちたりた吐息をついたとき、テーブルの上のボトルの横にあるスマホがブルルッと小刻みに震えた。


「はい、砂掛すなかけです」

いつもより1オクターブ高い声で応答していることに、本人は自覚がない。


耳に当てた受話口からは、帯礼おびれプロデューサーの、滑舌かつぜつのいい力強い声が響いてくる。

『やあ、ごめんね、こんな遅く。時間、大丈夫? デート中だったりしない?』


斜陽と呼ばれて久しいものの、まだまだテレビ業界は花形職種ではある。

その中枢ちゅうすう辣腕らつわんをふるう男らしく、セクハラまがいの社交辞令を相手との距離をはかるモノサシにしてはばからない。


砂掛すなかけユキエは、ひとりでに頬を赤らめなが、おもねるように鼻を鳴らして、

「そんな相手いませんよ。おひとり様で宅呑みの真っ最中です」


『そんな、もったいない……』

帯礼おびれは、続けかけた語尾を中途半端な抑揚よくようで打ち切った。

あまり調子に乗って軽口をたたくと、さすがに事案になりかねない。コンプライアンス第一のご時世ごじせいだ。

『実はさぁ、ついさっきお宅の事務所から、かおりちゃんのお母さんの訃報ふほうが届いたもんだから』


「ああ、その件」


『なんだよ、水くさいなぁ。すぐにオレに知らせてくれれば花輪のひとつも出せたのに』


かおりのお父さんが、家族だけの密葬みっそうを希望していたので。お気遣きづかいだけで充分です」


『そうは言ってもさぁ』

と、帯礼おびれは、軽くゴネてみせてから、

『ところで、かおりちゃんの様子はどう? 突然の心不全だったらしいじゃない、お母さん。だいぶ落ち込んでるんじゃない?』


「……来週のバラエティーのロケの件でしたら、問題ないですよ。かおりも乗り気ですから。心配いりません」


『いやいやいや、そういうつもりじゃなかったんだけどさぁ』

心外しんがいそうに否定するものの、安堵あんど喜色きしょくがロコツに声に出てしまう。

とりなすように、おざなりに付け加える。

『でも、健気ケナゲだねぇ、かおりちゃん。若いのに。スケジュールに穴も空けないで……』


「亡くなった母親とは、"なさぬ仲"ってやつだったらしいですから」


『え、そうなの?』


「実の母親は、中学生のときに亡くしてるんです。だから……」


『ああ、なるほど。じゃあ、今回亡くなったのはお父さんの後妻ごさいさんだったの』

帯礼おびれは、アケスケに言って、

『ふうん。そうかぁ。じゃあ、まあ、来週の撮影は予定どおりで。よろしく頼むね』

と、早々に通話を終わらせる気配をうかがわせた。


砂掛すなかけユキエは、少しでも彼との会話を長引かせたくて、すかさず口をはさんだ。

「あの、そういえば、帯礼おびれさん!」


『ん? なに?』


「ええっと……」

砂掛すなかけユキエは、聡明な頭脳につまった情報を検索すると、すぐに適当な話題を思い出して問いかけた。

「昨日のワイドショー、反響がすごいんですってね? 例の、湯浮ゆうきクンの遺書の……」


帯礼おびれは、マンザラでもなさそうに声をはずませた。

『まあ、おかげさまでね。なんなら、このクビをかけるつもりでオンエアを強行きょうこうしたんだけど、意外と世間が好意的でね。よくぞ放送に踏み切ったって激励の電話のほうが、苦情より多いほどで。かえって驚いてるよ』


「さすが、敏腕プロデューサー!」


『いやいやいや、またまたまた』


「それにしても、報道では結局、"薬物の過剰摂取オーバードーズ"による事故死としか伝えてないみたいですけど」


『あーね。そこは自粛じしゅくしたのよ。最近ハヤリのケミカルドラッグって、見た目もネーミングもキャッチーだから』


湯浮ゆうきクンの100万人以上のフォロワーが、ヘンに影響を受けてマネしたら大変ですものね」


『そういうこと。しかも、そのフォロワー層ってのが、いわゆるサブカル好きの若いだらけだからさぁ。"パピヨン・ブルー"なんてコジャレた名前のキラキラ光る青い粉で"し"が天に召されたなんて知れば、こぞってマネして手を出しかねない』


「"パピヨン・ブルー"?」


『そそ、"青い蝶"。いかにも若い子たちの興味を引きそうだろ?』


「え、ええ。そうですね。たしかに、公表したら悪影響が出そう……」


しばらくして通話を終えると、砂掛すなかけユキエは、空いた左手にロックグラスを再び持ちながら、右手でスマホのディスプレイをなでる。

氷のさゆらぎを楽しんでゆるりとグラスを口に運びながら、切れ長の怜悧れいりな目の端でスマホを見つめる。

ディスプレイいっぱいに映る瑠璃色るりいろの蝶の羽根には、点々と赤い飛沫しぶきが飛んでいた。


それは、雪の上に倒れて完全に息絶えた瞬間の男の瞳の網膜もうまくに映りこんだ最期の景色だったろう。

雪深い真冬の山中の空を、なぜ、温暖な時期しか羽化できないはずの稀少きしょう瑠璃色るりいろのアゲハ蝶が飛んでいたのか。

また、瀕死ひんしの男の瞳に映っただけの蝶の羽根の画像が、なぜ20年も音信不通だった娘のメッセンジャーアプリに送られたのか。

砂掛すなかけユキエは知るよしもなかったけれど。蝶の羽根の上の赤い飛沫しぶきの血だということは、なぜか最初から確信があった。


「お父さん……」

思わずこぼれてしまった声をあわてて飲み込むみたいに、グラスを大きくかたむける。


今すぐにカーテンを開けたら、窓の向こうを舞い泳ぐ大きな瑠璃色るりいろの蝶に出会えるかもしれない……そんな期待が胸にこみあげて仕方なかった。

いかんせん、アルコールに快く弛緩しかんした体と心は、どうしてもソファから立ち上がることができなくて。


揺れる視界を埋め尽くす、鮮やかな瑠璃色るりいろ赤色せきしょくの境界がにじんで溶け合うのを、妙に浮かれた気分で味わいつづけた。




    ×--- オワリ ---×


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青い蝶は死を招く こぼねサワー @kobone_sonar

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ