釣瓶落としの後始末

尾八原ジュージ

女たち

 静香がおれと結婚したとき、母は「娘にあたしの服を譲るのが夢だったの」と言った。

「この子の妹がいるんだけど、亡くなった父さんに似てノッポなのよ。あれじゃいくら腕のいい職人でも、サイズ直しはできないでしょうねぇ」

 だから静香さんがお嫁さんに来てくれて嬉しいの、と言った。静香もニコニコ笑っていたし、女というのはそういうことをしたがるんだろうとおれは思った。


 そしてその母の形見分けが済んだ今、静香は庭の枯れ井戸に、遺品のブラウスやらスカートやらコートやらを全部放り込んでしまった。

 おれは唖然として、ただそれを眺めていた。一昨日母の葬儀をやったばかりだ。母の遺言どおり、シルクのブラウスもカシミヤのコートも、全部静香に譲ってやった。母が余命宣告されてから――いや、される前からずっとそう決まっていたのだ。

 それでも静香の横顔を見ると、おれは彼女を止めることができなかった。

「……あー、すっきりした」

 空っぽの段ボール箱を見つめて、静香が呟いた。


 この枯れ井戸にも昔はちゃんと水が湧き、皆の役に立っていた。以前この辺りで大きな地震があって断水した時など、近隣から水を汲みにくる人が列をなしたという。

「だからってその話でいつまでもマウントとるのはさぁ」

 立ち尽くしているおれの横で、妹のさつきがそう言って笑った。「何十年も前のことを未だにいちいち恩着せがましく言うのはどうなんだって、私、近所のひとに何回笑われたかわかんないよ。大体水道だってすぐに復旧したらしいじゃない」

「おれは笑われたことなんかないよ」

「じゃあ兄さんはよっぽど鈍感か、馬鹿だね」

 さつきはそう言って煙草に火を点けた。実家にいた頃から、喫煙については母と揉めていたものだ。

 母の影響で、おれは「女は煙草を吸わないものだ」と思って生きてきた。静香は吸わない女だ。だから母とは上手くいっていたはずだ。少なくとも、妹よりは。

 静香は、今度は玄関から引っ張り出してきた靴を井戸に投げ込み始めた。「あいつ何やってんだろうな」と呟いたおれを、さつきが鼻で笑った。

「ゴミ埋めてんのよ」

 そう言ってさつきが吹き出した煙が、空へと昇っていく。

「あのさぁ、そもそも要ると思う? 何十年も前の、シミだの折れ目だのついて樟脳くさい、しかも大っ嫌いな女が着てた服」

「大嫌いな女って、お前」

「そんなことも知らないの? あのひと息子には甘かったもんねぇ。でも私は知ってる」

 静香さん、井戸と一緒に色々始末しちゃうつもりなんじゃないの。

 そう言ったさつきの声が聞こえたのだろう、静香がこちらを向いた。その顔に、ぞっとするほど穏やかな笑みが浮かんでいる。

「静香さーん、何か手伝うことある?」

 さつきが声をかけた。

「ううん、特に。ありがとう」

「何かあったら言ってよ。これとか捨てなくていいの?」

 そう言ってさつきはおれを指さした。瞬間、鋭い刃物を向けられたような気分になった。

「うーん、それはまた今度でいいかな」

 静香は冗談とも本気ともつかない口調で答えた。

 二人の女は声を合わせてけらけらと笑った。


 秋の日は落ちるのが早い。夜になる前に帰るというさつきを見送った後、実家の玄関から庭を見た。

 すでに暗くなりかけた庭で、静香がまた何か井戸の中に捨てているのが見えた。ひとしきり作業を終えてしまうと、彼女はずっと枯れ井戸の上に無意味に吊られていた錆だらけのバケツ――いつかは水を汲んで感謝されたこともあったのだろう――をロープから外して、井戸の中に落とした。

 おれはぼんやりとそれを眺めていた。馬鹿みたいに。いや、実際馬鹿なのだ。馬鹿だから静香を止めないし、怒らないし、そもそも何の問題にも気づかなかった。ただ前と同じような、表向き平和な暮らしに戻っていくことしか考えていない。

 おれはひとりで家の中に入り、何も観ていないようなふりでテレビを点けて、むやみに音量を上げた。


 やがて四十九日が過ぎ、納骨の日が訪れた。

 抱えた母の骨壺は、やけに軽くなったような気がした。

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