「蛇」「夢」「窓」|三題噺

霧縛りの職工

向かい合う蛇

 ――1/5――


 白いベットからずるりと黒く滑りけのある生き物が這い出る。


 蛇だ。夢の中で領主は蛇に変じていた。


 太く長い体をうねらせて、月明かりの中窓を覗く。枝分かれした舌を1つ鳴らすと、蛇の体がガラスの中へ差し込まれた。波打った表面が水面であるかの様に抵抗はなく、束の間に頭が静謐な外気に晒される。


 石造りの壁面にできた凹凸を、蛇は器用に足場にしてするすると領館を下りていく。最早尾の先さえ部屋から抜け出て、意のままに街へ下りた。


 蛇が行く先はいつも同じだ。領地を出て山を訪れ、森に入る。白い花の群生地から伸びる一本の木だ。木を登れば小ぶりな卵がぽつんと小枝で作られた巣の中にある。親鳥はおらず無防備な姿だ。


 蛇には具合のいい食べ頃の品だろう。舌なめずりをするように舌が出入りする。


 蛇はその顎を大きく開く代わりににそっと鱗で包まれた体を卵に添えていく。それは親鳥に代わるかの様だった。



 ――2/5――


 領主はじっとりとした汗を感じながらふんわりと温かみの残るブランケットの中で目を覚ました。


 ゆるりと身を起こすと白み始めた空からの光が、分厚いガラスで嵌め殺された窓から差し込んでいた。地に陽の光が差し始めている。農民たちはもう畑に出ている頃だ。


 天蓋の下から這い出てガウンを羽織り、テーブルの水挿しを手に取ると一杯の水を組み入れ窓際に座す。ボヤケた景色の彼方を見通す様に領主は窓の向こう、南の山嶺へ目を向けた。


 太陽が天中を過ぎる頃、南から騎兵に先導され馬車が街を訪れた。7日後、領主と婚姻を結ぶ公爵令嬢を連れた一団だ。


 出迎えた領主は令嬢に目を奪われた。年老いた家令に手を取られながら箱から現れた令嬢には、幼い日に見た可憐さはそのままに、成人した美と気品を湛えていた。手入れの行き届いた白金の御髪は絹糸の様。淡い緑のドレスはスラリと引き締まった体躯を隠すことなく引き立てる。裾にだけあしらわれたフリルはヒールの足取りを軽やかに魅せた。


 ほっそりとした指先から二の腕を包むロンググローブを家令の手に添えながら、南方土産の白い花束を片手に令嬢は領主の前へ赴いく。


 小柄で領主からはやや伏し目がちに見えていた令嬢がスッと顎を上げた。形の良い大きな瞳をまつ毛が力強く印象付ける。通りの良い鼻筋は高い。領主が半ば無意識に旅路を労うと、ピンク味を帯びしっとりとした唇から奏でられる心を落ち着かせるハープの音色が応える。


 豊かな大地で育まれた花の蕾が、今まさに華やかな花弁を開かせようとしていた。


 嫁入りの礼と共に令嬢から花束を受け取ると、領主は長年夢に見ていた場所がどこに由来するのかようやく気づいたのだった。



 ――3/5――


 家令も席についた婚礼までの確認を兼ねた前祝いの晩餐でも、領主は度々令嬢に見惚れてしまっていた。気配を伺う家令がどこか満足気に見えたのは気のせいではなかっただろう。


 少しの気恥ずかしさを思い起こしつつ、領主は令嬢の寝室の戸を叩いた。


 女中の迎える声に応じて中へ入ると、体を清め寝間着で身を包んだ令嬢が楚々と座していた。女中は領主に向かって言葉少なに深々と頭を下げると、令嬢の側を離れ部屋を辞した。


 領主は令嬢の斜向いに座り、女中が注いでいった紅茶を口にする。


 令嬢はほのかに香るような笑顔を浮かべると、道中見た領地の風景や、日中気づいた館のあれこれを口にし始めた。周囲を気にかけていなければ出てこない様な些細な日常の気づきにひとつひとつ応じながら領主は緊張を和らげ、10年ぶりに顔を合わせる娘との対話を楽しんでいた。


 はじめて会った時のことだ。成人したばかりの領主は父の名代として南の国を訪ねていた。令嬢はまだ10にもなっていなかった。


 南の公爵の末娘である令嬢は庭園で花を摘んでいた。結婚相手候補の1人でもある令嬢との面通しだ。年は一回りほど離れていたしもっと領主と歳の近い令嬢の姉君に決まるはずだったが、顔は合わせておくべきと思ったのだ。


 美姫と言われた姉君達に似て、当時から行くは絶世の美女と期待されていた令嬢だったが、領主の記憶は何よりも贈られた白いジャスミンの花冠と紐づけられていた。


 うずまく政略の中、姉君達が他の諸国へ嫁ぐことが決まり、正式に令嬢を相手とする婚約が成ったのは今から3年前のことだった。



 ――4/5――


 躾けられた作法を賢明にこなそうとしていた令嬢の幼少を思いそれをふと口にした時だった。領主はテーブルへかけた腕にそっと何かが添えられるのを感じた。令嬢の玉のような肌につつまれたか細い指先だった。


 ほんの一時逸らしていた目をその指先から辿って美貌へ向け、息を呑んだ。令嬢を前にして我を失うのは今日何度目のことだろう。


 領主が向き合っていた令嬢から、微かに残っていたあの日の幼さが消え失せていた。


 艶のある流し目に囚われた視線はもう外すことさえできないように思われた。ほんの少し前がはだけたナイトガウンの隙間から首筋、鎖骨、発達した胸元へと流れる曲線が視界の端に入っている。日の下ではドレスの上からしか伺えなかった令嬢の女性性が匂わされていた。


 領主にとって一日にも感じられた束の間の後、添えられた令嬢の指先が腕を離れた。かけがえのないものが喪われたかの様な名残惜しさを抱えつつ領主は目線で追いかける。その足取りがどこに向かっているのかはすぐに分かった。


 令嬢は夫婦で使えるよう設けられた天蓋付きの寝台に腰掛ける。組まれた脚は足首どころか太腿までも露出されていた。ガウンが脱がれれば覆われているのは胴体の僅かな範囲だけだ。


 令嬢の目は、向けられていた領主の目と正対している。


 領主はこの目つきに覚えがあった。夢で見ていた蛇の視線だ。食すべき獲物を前にしつつ、その時が来るのを今か今かと待ち受けている。ここに至ってようやく領主は眼前にいる女が、すでに自身の妻として居るのだと気づいた。


 領主が歩み寄り天蓋の内へ押し倒すのを妻は当然と受け入れる。


 妻の肌を包む最後の一枚を夫が口淫を結びながら剥ぎ取るのを、妻はさり気なく体をくねらせ手伝う。その仕草さえ艶美に映り、夫は次に自分の衣服を脱ぎ捨てる手を乱れさせた。


 もはや待つまいと夫の帯に妻は手をかける。身を纏うものがなくなった夫妻は興奮で肌に滲んだ汗さえ厭わず絡み合う。お互いがお互いを欲して一対の蛇のように交錯した。


 2人の交わりは深く長く、初夜を終えるのに一昼夜を要した。周囲の人々は夫妻の激しさに驚きを隠せなかったが、後日仲睦まじい姿を見るに連れ有り様を受け入れていった。



 ――5/5――


 南から公爵が訪れ諸侯に祝福された式が取り仕切られて間もなく、領主の妻は第一子を身籠る。


 そのころには夫妻の仲睦まじさは領地に轟いており、民衆からは歓びの声が上がった。その後も5人、6人と夫妻は子宝に恵まれた。兄姉は妹弟を支える様になり、領主の執政は優秀な子らにより磐石になっていく。


 やがて巻き起こった戦乱の中、領主は近隣諸侯を束ね1つの国を成した。後世には南北へ広大な地域を平定した初代国主として領主の名が刻まれている。伝えられるところによれば、家だけでなく国に献身を捧げた妻君の葬儀には総勢50人を超えた子、孫曾孫だけでなく数多くの領民が嘆き集ったそうだ。


 長子に地位を譲った領主は隠居をすると、妻君が眠る数多くの思い出が残った生家へ籠もり、離れることなく余生を静かに過ごしたという。


 終



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 ここまでが本編となります。読んでいただきありがとうございました。

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