N(past)

 深夜。マンションの屋上。

 ほのかな寒風に曝されながら、無言で天を仰ぐ雫を見つめる。少女の視線の先、薄い霧のようなものに遮られた満月からやや欠けた月はただただ、そこにあった。

 雫の目からは何もこぼれていない。けれど、泣いている、と大河は思った。普段よりも感情が希薄かつ虚ろな表情は、いつになく大人びている気がした。

 とはいえ、大河の方も、余裕があるわけではない。

 家族の食事会の後。雫と付き合っていることを口にしてすぐ、お互いの両親から気まずそうに告げられた事実。想像だにしていなかった事柄をいまだに受けとめきれず、胸の内でどう処理していいのかわからないままだった。

 二人で普段から使っている符牒を使って、深夜に待ち合わせこそしたものの、大河としてもどう対応していいかわからず、黙りこむほかない。ただ、わかっているのは今まで通りではいられないだろうということ。

 先延ばしにしても、無駄だ。ぐだぐだと悩んだ末に出した結論は、最初からわかりきっていても認めざるをえないことだった。いまだに割り切れているわけではない。ただ、現実が現実だけに、今ならば軟着陸も可能なのではないか。そのような考えを捏ねくり回し、自らを鼓舞するかたちで大河は口を開いた。

「しーねぇ――」

 直後、唇の上に人差し指が当てられた。夜の空気を吸いこんだせいか、少女の肌は冷え冷えとしていた。

「実は前から思ってたんだよね」

 明るい声音。なぜだろう。一転して雫はからからと笑っていた。

「なにがだよ、しーねぇ――」

「その呼ばれ方、あんまり好きじゃない」

 淡々とした声。唐突に生えてきた少女の拒絶に、大河はただただ戸惑うほかない。

「好きじゃないって?」

「う~ん、なんて言ったらいいのかな。しーはいいよ。私の名前からきてるし、親しみが籠もってる。けど、ねえってとこはあんま好きくないんだよね」

 ほら、私ってば子供っぽくて、姉って感じじゃないから、違和感がすごくて。

 さも、なんでもなさそうに告げる少女。しかし、つい何時間か前に親たちから知らされた事柄と照らし合わせれば、おのずと、姉、という言葉を厭う心理は簡単に導き出せる。

 なんだかわからないが、この方向に話が発展するのはまずい。すぐさまそう判断した大河は、多分に躊躇いつつも、そそくさと本丸に切りこもうと決めた。

「今日、父さんと母さんやおじさんおばさんに言われたことは、ショックだったと思うけど……」

「そうかな?」

 おもむろに切り出した決意の前口上を、少女はあっけらかんと受け止めた。

 もしかしたら、俺はえらい見当違いをしているのか。一瞬、そう疑いかけた大河に、雫は薄く目を細めて、

「だって、あんな話、私たちの仲にはなんの関係もないでしょ」

 ふてぶてしく告げる。

 しー姉はなにを言ってるんだ? よく理解できずに混乱している年下の少年の前で、少女は大きく体を伸ばす。

「私たちは恋人。そこになんの変わりもないよ」

「けど、実際に俺らは――」

 深く血が繋がってるじゃないか。そう続けようとした大河の唇は今度は、少女の左手が作り出した狐に摘まれ封じられた。

「はいはいそうだねぇ~。でもその先は言わないで。じゃないと私、泣いちゃうよ」

 もう、泣いてるじゃないか。気持ち良さそうな笑顔を見返しながら、大河は思う。なにを考えているのか細かいところはわからなかったが、それだけは明らかだった。

「でもたしかに、ちょっとだけ困ったね。こうなると、表立っては付き合いにくくなる。どうしようか?」

 雫は腕を組んで唸っていたが、程なく目を見開いて、そうだ、と口にした。

「今日聞いた話はなかったことにしよう」

 正気か? 信じられないものを見るような目をする大河の前で、少女は小さく頬を膨らませる。

「頭がおかしくなったと思った? さすがに実際にあったことはなかったことにしないよ。ただ、私との中ではなかったことにしよう、って話してるの」

「なにその、少年、って」

 少女の言の葉の連なりに、まるで子供のわがままみたいだ、という感想を持ちつつ、さしあたっては耳慣れない呼び名を尋ねる。雫は悪びれるでもなく、少年は少年だよ、と意味のない答えを返してから、

「君と私は今日から他人――っていう言い方は冷たいね。血の繋がりがない。私たちの間ではそういうことにする。だから、今日から君は少年だし、私は雫かしー」

 そういうことにしよう、と宣言した。

 目まぐるしく流れてくるわけのわからない事態に、大河は戸惑うほかない。ただ、この提案を決して飲みこんではいけないという確信があった。人の道に反する。さほど長くない人生から導きだした直感が告げていていた。

 口を開こうとしたところで、抱きしめられる。途端に、昨日のデート中にかわした温かな感触が蘇えってきた。

「少年には心苦しいかな。でも、私が欲しいのは恋人としての少年なの。弟なんていらないから」

 いらないから、という声に巻きついた忌々し気な冷たさに震えそうになる。

 ごめんごめん、怖がらせちゃったかな。軽くぽんぽんと背中を叩く掌の動きもどことなくよそよそしい。雫がどういう表情をしているのか見えなくて、大河は、不覚にも少しだけほっとした。

「俺が、しー……ちゃんの提案を断わったら?」

 言い切らずにひよったのをすぐさま後悔しつつも、尋ねずにはいられない。雫は、それはとてもとても困るね、と口にしてから、

「このマンションって、すごく高いよね」

「急になにを」

「今日って寒くて暗いでしょ。ほら、私ってばドジだから。足を滑らしちゃうかもしれないよね。そしたら勢いあまって、なんてこともあるかも」

 すぐさま周りを見る。本来は解放されていない屋上の柵は、そこまで高くない。これまでの雫のうっかり度合いからすれば……否、うっかりという体で能動的に飛び越えていくことすらあるかもしれなかった。

「脅すのか?」

「やだなぁ。人聞きの悪い。私はもしかしたら、があるかもしれない、って言ってるだけ。今日にかぎった話でもないでしょ」

 当然のように口にする雫。そのことは、今日にかぎらず、が起こることを意味しているわけで。

「どうかな。私の提案、受けてもらえる?」

「……わかった」

 決断する。

 どのみち、放っておくことなどできない。放っておいて、一人でさせるほど薄情ではいられなかったし、なにより姉弟であっても恋人ではあったのだ。いや、これからもなのか。大河は自虐的に振り返った。

 程なくして、耳元から安堵したような吐息が漏れ、体が離れる。

「よかった。これで私たちはずっと恋人同士だね」

 いやぁ、よかったよかった。そう言って、雫は、柵の近くまでゆったりと歩きだす。まさか、落ちるのかと思い、慌てて後を追う。

 低い落下防止柵の上に、少しだけ背伸びをした雫が両肘を乗せる。隣に並んで真正面を見やれば、まばらに光る街の灯。

「ねぇ少年」

「本当にそう呼ぶのか?」

「うん。思いついたばっかだけど案外、気にいっているんだよね」

「拒否権は?」

「ないかな」

「……理不尽過ぎるだろ」

「そんなのはじめから知ってるでしょ?」

 今日初めて知ったよ。そんな文句を胸に秘めながら、それでなに、と尋ね返す。

「別になんてことはないんだけどね」

「いいから早く言えって」

「うん……これからもずっと仲良くしようね、って言いたかっただけ」

「……ああ」

 自分が先程しでかしたことを覚えていないんだろうか、と大河は訝しく思う。脅迫した相手に、よくもまぁ、そんなことを言えたものだ、と。一方で、雫の中では、仲良くするために脅しているのだろうな、というのものみこんではいる。もっとも、頭ではわかっていても、とんと理解に苦しむが。

「ずっとずっと、ずっとね」

「……ああ」

 寒風の下で、街を見下ろす。いつまで続くんだろうか。先々のことを思い、気が遠くなる。

「これからが楽しみだなぁ」

 隣からの恍惚とした声が、べたつくように耳に入り込んできた。その甘ったるさとほんの少しだけある気持ちよさに吐き気にも似たなにかを覚える。ただ、寂しくないのだけには、ほっとした。

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Call me a boy ムラサキハルカ @harukamurasaki

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