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 曇る夜空の下。眼前には黒々とした海が波打っている。

「うっわ、さっぶ。少年もそう思うでしょ」

 何も言わずに後ろから抱きしめてくる雫の体を受けとめながら、

「だったら、なんで来ようと思ったんだよ」

 大河は苦言を漏らす。

「行きたかったからだよ」

 間髪入れずに何の迷いもなく応じた年上の女は、でもそれはそれで寒いよねと体を押しつけてくる。渋々受けいれる大河は、辺りを見回した。時間帯の為せる業なのか、あるいは今現在感じている気温の低さのせいか、少なくとも近くには雫以外、誰もいない。そう認識した瞬間、

「二人、きりだね」

 ぼそりと呟かれた言の葉は、身体の芯を冷え冷えとさせる。冬であるという以上に凍えてしまいそうだった。耳元にほのかにかかる息の温さもまた、怖気を走らせる。

「よかったよ。私の思ったとおりで」

 女の声音からは、隠しきれない悦びが窺える。その悦びの行方が、大河にはわからない。かつては、わかりかけていたかもしれないが、今となってはただの錯覚だった気がしないでもない。

「いいよね。誰の邪魔も入らないって」

 甘ったるさがからんだ言の葉は、同意するのがためらわれた。代わりに、

「しーね――」

「それ禁止」

 何かを引き戻そうとした呼び名は、冷徹に封じられる。気が付けば向き合った雫が薄い笑みを張りつけていた。

「少年は少年だし。私は雫かしー。そういう約束でしょ?」

 もう、忘れん坊なんだからぁ。軽い声。それでいて目は少しも笑っていない。

 いっそ、しー姉ともう一度呼んでしまえば。首に手がかかるかもしれないし、黒々とした海に一緒に飛び込むことになるかもしれない。しかし、ともすればそちらの方が救いなのではと大河は思う。末期だな自覚しつつ、想像することを止められない。

「少年と私はずっと恋人。ずっと、一緒だからね」

 大河に、あるいは自身に言い聞かせるような雫の声音。

「……ああ」

 それに消極的に応じる。全てが決定的にずれてしまっているという予感をおぼえながらも、大河は心の底で、雫の意見を否定しきれない。

 可愛そうな女への同情か、恋人としての甘やか気持ちか、あるいはとしての愛からか。もはや、大河には正体はわからない。

 寒々とした空気の中、激しい波音がただただ耳に飛びこんでくる。全てが冷たい、と思った。

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