第21話

 後日、省吾は「ペシミズム」をインターネットで検索した。出てきた解説では、「ペシミズム」とはラテン語の形容詞malus(悪い)の最上級pessimumから、英国の詩人コールリッジが造った言葉と説明されていた。物事の最悪の状態を意味するという。悲観主義、厭世観、厭世主義と訳され、哲学の学説としてはドイツの哲学者、ショーペンハウアーに代表されるとあった。


 ショーペンハウアーがここで出てくるか、と省吾は唸った。自分とは無縁と思っていた人だが、そうでもなかったのだ。高校時代、教科書で何となく覚えこんだ『意志と表象としての世界』と言う著書名がぼんやりと浮かんできた。省吾は検索蘭に「ペシミズム 救い」と打ち込んだ。ペシミストに救いはないのか、と思ったのだ。「検索」をクリックして出てきた項目のなかに、ゾラの小説「生きるよろこび」を、ショーペンハウアーの厭世哲学との関連で論じた論文があった。ゾラは省吾が一時期関心を持って集中的に読んだ作家だった。「生きるよろこび」は未読だったが、「ルーゴン=マッカール叢書」の中にそれがあることは知っていた。省吾は論文のPDFを読み始めた。


 一八八○年代、フランスの文壇、特に自然主義の若手作家の間では、ショーペンハウアーの厭世哲学はかなり浸透していたらしい。彼らと交友があったゾラもショーペンハウアーの思想に関心を抱き、「生きるよろこび」にはラザールというペシミストの主人公が登場する。もう一人の主人公がポーリーヌという女性で、この暗い小説の中で唯一、明るく健康的な、未来に希望を抱く存在だ。ゾラの意図ではラザールは厭世哲学の「未消化」な理解者であり、ポーリーヌこそ、厭世哲学の到達点である禁欲主義、精神の平安、他者への「あわれみ」を理解した存在なのだ。ポーリーヌは他人の幸福のために自分を犠牲にする生き方を貫く。ここにペシミズムを克服する道があるとゾラは考えたという。


 自己犠牲か、と省吾は呟いた。とても自分にはできないな、と思った。俺が救われる道はやはり先日の経験。自分がペシミストであることを自覚し、その性向の罠に嵌らないように気をつけることだ。言わば自己洞察による自己コントロール。ウツと苦闘した時のように。それしかない、と彼は思った。




参考文献

「ゾラとショーペンハウアーの厭世哲学 『生きるよろこび』をめぐって」

                              田中琢三

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ペシミスト 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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