第20話

 思いに追われる省吾は我ながら情けない気持になる。ああ、嫌だなと思う。人生、嫌な事ばかりだな、と省吾は思わず呟いた。すると解決していない義兄への貸金問題、環の親の家に同居していることで、環の姉に財産狙いと言われ、「寄生虫」「ゴキブリ」と罵られ、義姉とは絶縁状態にあることも頭に浮かんだ。隣家の庭に立つ大木が省吾の家の庭や雨樋に落葉を積らせることが原因で、隣家と不和になっていることも思い浮かんだ。ロクでもない世界に生きているじゃないか! 省吾は胸の内で叫んでヨガの動作を止めた。生きていたくないという気持が急に膨らんだ。俺はまたウツに落ちこむのかなと省吾は思った。ウツを脱して一年余りが経っていた。待て、待て、そんな気持ちに落ちこまないように俺は毎朝ヨガをし、体操をし、前向きに生きる姿勢を保とうとしているのではないか。このところ少し考え過ぎなのではないか。なぜお前はそんなに嫌な事ばかり考えるのだ。省吾は自問した。すると「悲観」という言葉が浮かんだ。俺は今後を悲観しているのだ。俺は物事を悲観的に見ているのだと省吾は思った。


 俺は悲観主義者だと彼は思った。「悲観主義者」という言葉で、省吾の頭の中に浮かんで来ようとする言葉があった。あれは確か、誰かがよく使っていた言葉だ。省吾は頭を捻った。そうだ、芥川賞を取ったあの作家がエッセイなどでよく用いていた。トラジック? 違う。ペシミズム、うん、そうだ、ペシミズムだ。するとペシミスティックという言葉も浮かんできた。その作家が「僕の想像力はペシミスティックに働く」などとよく書いていたことを思い起した。俺と同じだと省吾は思った。物事を悲観的に見る態度だ。物事を悪い方向にしか考えない。そして自分を追いこんでしまう。俺はそんなたちの人間なのだ。つまり俺はペシミストなのか。ペシミスト。俺はペシミスト。省吾にとって自分をペシミストと規定するのは初めてだった。新鮮だった。そうなのだ、俺はペシミストなのだ。何事も悲観的に考え、自分を追いこんでしまう。嫌なこと、避けたいことを殊更考え、自分をパニック状態に追いこむ。そんな経験を若い頃から何度も繰り返してきたように思った。


 過去を振り返って、それが心内の域を超えて実際行動に至った例を二つ彼は思い起した。一つは友人に殴りかかった事件。親しい付き合いをしていたのに、省吾は心のどこかでその人に脅威を感じていたのだ。その葛藤が膨らみ、制御を失ってしまった。二十代初めの出来事だが、省吾は今でもその人に済まない思いを抱いていた。もう一つは山小屋での放尿事件。登頂を終え、山小屋に一泊したのだが、夕食時に宴会となり、省吾は酒量の限度を過ごしてしまった。夜中に尿意で目覚めた彼はトイレを探した。周囲は闇で、しかも彼は二階に寝ていた。下に降りるには木製の簡素な梯子を伝い下りるしかなかった。まだ酔いが残っているうえに、起き抜けの夢遊状態にある頭で彼は梯子を探した。見つからない。或いは見つけても足を踏み外しそうで梯子を下りることが出来なかったのかもしれない。尿意は彼を追い立てる。彼は切羽詰った。周囲の闇とそこに潜む人間たちが自分を圧迫してくるように彼は感じた。彼は夢の中で格闘する魔物に最後の一撃を見舞うような気持で階下に向って放尿した。放尿中は解放感があった。大騒動になった。


 二つの事例を思い起して、自分は自滅的行為に及びかねない危険なタイプのペシミストであると省吾は自覚した。


 とすれば、こんな自分が生き延びるためにはどうすればよいのか。彼は考えた。自分がペシミストであると解れば、その性向がもたらす罠に嵌らないよう注意する他はあるまい。悲観的に物事を考え、自分を追いこむ性向を直視して、それに引き回されないように自分をコントロールすることだ。それしかあるまい。省吾はそう考えて頷いた。今後の生き方について指針を与えられたような気がした。ヨガの動作を止めた時の、暗い穴に落ちこむような気持から少し脱け出ることができた。少し元気を取り戻した心は、崩壊してしまうのかと思われた朝のヨガと体操を起点とする前向きな生活を、今後も維持したいと切実に願った。

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