第19話

  過去への囚われもヨガへの集中を妨げる。三日前、省吾はゴルフの後の飲み会で痛飲して、不覚となり、電車を乗り越した。目覚めて下車した駅は「豊後松会」。またここか。一年半ほど前にも酔って乗り越してこの駅に下りた。忌わしい駅だ。駅員は居ない。改札を通って待合所に入る。誰も居ない。ベンチが三脚ほどある。駅舎前の広場を見ても闇が広がるだけだ。もう上りの電車はない。どうする。明日はエリコに出勤する日だ。省吾の酔った頭を乗り越した驚きと悔いが打ち叩く。こんなことになるとは。自己嫌悪が彼を包む。仕方がない。ベンチにゴロ寝して始発に乗るか。この前はそうした。あの時は夏だったが、今は冬だ。この吹き曝しのベンチに寝て大丈夫か。酔っているせいか寒さはさほど感じない。省吾はベンチに横になった。胸の上で腕を組んだ。これで眠れるのか。今から気温は下がっていくのではないか。それが気になり、彼は起き上がって広場に出た。闇の中を歩く。この広場にはシューシューと不吉な瘴気が立ち昇っているような気がする。嫌だな、生きて居たくないな。厭世的な思いが省吾を圧する。駅舎の前に公衆電話があった。環への連絡を思ったが、今朝、ゴルフに出かける際に口ゲンカをした妻に自分の愚行を告げる気にはなれない。公衆電話の前を過ぎると、タクシー会社の金属製の広告スタンドが立っていた。これは前は見かけなかったなと省吾は思った。彼はタクシーを呼んだ。明日の労働に備えてやはりベッドで眠りたかった。


 その愚行の記憶がヨガをする省吾の気持を凹ませる。金が無いのにタクシー代に六千円を費やした。翌朝、起きた時の二日酔いと睡眠不足による不快な気分。それを押して出勤したトランスコムの作業場での滅入るような厭世的な思い。思い起すと気力が萎む。


 そのエリコとの契約も来月末で打ち切られる。契約の延長はしないと藤木に言われていた。理由は省吾の作業上のミス。省吾はその時新規のドアスクリーンの検査をしていた。これまで検査してきたドアスクリーンはシャッターと呼ばれるポケットが緑色で、突起部分のビニールカバーの溶着不良が検査の対象だった。新規のドアスクリーンはシャッターがオレンジ色で、検査はそのシャッターの装着の確認だった。一枚一枚スクリーンを捲りながら、オレンジのシャッターに黒のマジックでレ点を付けていく。作業を始めて何箱目か、緑色のシャッターの付いたドアスクリーンが現れた。省吾は深く考えなかった。シャッターの色が緑色の部品もあるのだろうと考えた。シャッターの色はオレンジ色限定という指示や注意は受けていなかった。省吾は作業を続けた。気がついたリーダーが省吾の側に来た。「この緑色はいつから。いまやっている箱から?」と彼は訊いた。「はい、そうです」と省吾は答えた。リーダーは箱に貼られている部品番号やランナンバーを記入したラベルを点検していたが、何も言わなかった。サブリーダーも側に来て、二人は不審そうに話し合っていたが、省吾への指示は何もなかった。省吾は作業を続けた。一パレットを終え、出荷OKのラベルを貼られたパレットはフォークリフトで運ばれて行った。省吾は次のパレットを開け、作業を続けた。星雲産業の担当者の山口が省吾の側に来た。彼は「緑色のシャッターが付いたドアスクリーンがあったそうですね」と省吾に訊いた。「はい」と省吾が答えると、「何箱ありました? 」と訊いてきた。「二、三箱だったかな」省吾の答は感覚的だった。山口は出荷の場所に置かれていたパレットを運び戻させ、中を開けて、箱の中味を調べ始めた。そして緑色のシャッターが付いた部品が入った箱を二つ見つけ出した。その部品を調べた結果、緑色の部品はオレンジとは異なる部品だと判明した。単なる色違いではなかったのだ。一つのパレットに異品が混入していたのだ。「部品に変った事があったら、すぐリーダーに訊いてくださいよ」と山口は省吾に言った。「いや、リーダーも知ってましたよ」と省吾は応じた。その件はそれで終った。異品が生産ラインに流出する前に阻止出来て良かったと省吾は思った。


  ところがその二日後の給料日、藤木が例によって給与明細の入った封筒を作業者に配っていたが、省吾の側に来て封筒を渡しながら、「余語さんはこの前、異品流出を起しましたね」と言った。あのことか、と省吾は思った。「あれはリーダーも知っていたけど、私の作業を止めませんでしたよ」と省吾は応じた。「それでも、止める、呼ぶ、待つと言う選別作業者の基本に反してますよね。それで来月末で契約期限となりますが、延長はしません。継続はないと言うことです。一月前には通知しておかなければならないので言っておきます」と藤木は言った。この女らしい冷やかさだなと省吾は思った。「止める、呼ぶ、待つ」とは部品に異常があった場合、作業者は作業を止め、リーダーを呼び、その指示を待たなければならないということだ。省吾は知らなかったが、そんな規則があったのだ。

 

 四、五日前のそんな出来事も思い起すと省吾を不安にさせる。エリコで働き始めて一年近くになっていた。契約は一度延長されたが三度目はないということだ。収入がなくなる。なのにまだ小説の連載は終っていない。あと半年延長できれば完結するのだが。あと半年はエリコを続けたかったな。あと半年勤めれば俺の気持としてももう十分だったがな。不運だったな。気が弛んでいたな、確かに。藤木はあの件が無くてもいずれ俺を切る気だったろう。去年の十月の配置転換を俺が断った時から。ヨガのポーズをしながらそんなもの思いを続けていると、次第に何をしているのか分らなくなってくる。

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