金魚と夢

プラナリア

金魚と夢

 夢の話である。


 森の中を三人の男が歩いている。鬱蒼とした森は、昼間でも暗闇に閉ざされている。男達は迷ったものらしい。急く足取りとは裏腹に、森の奥へと誘われていく。

 彼らのうち一人は、両脇から抱えられている。覚束ない足取りで、どうやら盲目らしい。二人の男は毒づきながら、忌々し気にその腕を引っ張る。一人が彼を蹴り、彼は足を縺れさせる。低い呻き声が漏れた。


 場面が変わる。


 彼は一人、這うようにして森の中を歩いている。何が起きたのか、彼には分からない。震えながら、彼は冷たい夜明けの中を進む。なんとしても、この森を抜けなければならない。必死で木の根をかきわけるうち、盲いた目が僅かな光を捉えた。木々が次第に途切れ、草の上に踏みしめられた小道が現れる。風に乗って、水車の回る音が微かに聞こえた。彼は歓喜の声を上げる。森を逃れたのだ。最後の力を振り絞って、彼は光の方へ歩いていく。


 ……あの二人はどうなったのだろう?

 

 私の声が聞こえたように、二人の男の姿が浮かび上がってくる。

 二人は暗い森の中で倒れている。その全身を、無造作に巻き付けられた白い包帯が覆っている。男達は動かない。包帯の隙間から僅かに覗く唇は、人のものとは思えぬほど白い。沈黙の中で、綻びた包帯だけがゆらゆらと揺れている。



 私が小学生の頃、金魚を飼っていた。

 夏祭の夜、金魚すくいの屋台で手に入れた金魚だった。といっても私は一匹もすくえなかったのだが、上手な従兄弟が加勢してくれ、店のおじさんも気前よくおまけしてくれて、七匹も手に入れたのだ。私は意気揚々と、金魚を家に連れ帰った。大きな水槽が玄関に置かれ、私は毎朝金魚に餌をあげた。そのうち金魚は私の足音を覚え、私が水槽の前に立つと近寄ってくるようになった。

 私は金魚を眺めるのが好きだった。

 赤、金、白、黒。上から見ると、色とりどりの金魚は水中の宝石のようだった。優雅にひれをなびかせ、長い尾をひらめかせて泳ぐ姿はいくら見ても見飽きない。膨らんだ頭や飛び出した目玉。思いもよらぬ姿かたちは、夢の中の生き物のようにも思えた。

 数年経つと金魚は体が大きくなり、鮒のように見える者もいた。金魚も鯉みたいに大きくなったりするのだろうか。そんな日がきたら面白いと思いながら、私は餌をあげていた。


 あの夏は茹だるように暑かった。蝉の声が煩いほどに響き渡り、焼けたアルファルトの照り返しが肌を刺した。水槽の金魚までもが弱り、一匹、また一匹と消えていった。広かった水槽には、三匹だけがぽつんと残った。

 三匹のうち二匹は赤い金魚だった。体の大きさこそ違ったもののよく似ていて、いつも連れ立って泳いでいた。

 残る一匹は、小さな黒の出目金だった。均衡が崩れた水槽には不穏な気配が漂い始めた。赤い金魚達が、何かに憑かれたように出目金を追い回すようになったのだ。私が水槽を叩くと二匹は逃げていくが、また戻ってきて出目金をつつく。出目金は戸惑い、逃げ惑うばかり。

 水の世界のことである。私は手出しが出来ずにいた。

 ある日、私は出目金の動きがおかしいのに気付いた。よたよたと泳ぐ金魚をよく見ると、右目の眼窩がぽっかりと空いている。

 目玉が無い。

 水槽内を探すと、白い敷砂に混じって黒い目玉が沈んでいた。

 私は慌てて親に伝え、出目金のための水槽を別に用意してもらった。けれど隔離が間に合わず、もう一つの目玉も沈んでしまっていた。

 一人ぼっちになった出目金は、自分で餌を食べることもできなかった。毎朝、私が両手で包むようにして水面の餌まで誘導すると、必死で口を開けて餌を飲み込んでいた。けれど無理があったのだろう。次第に弱り、十日ほどで儚くなった。隣の水槽では、何事も無かったように赤い金魚達が優美に泳いでいた。



 そして、件の夢である。

 明け方、私は飛び起きた。薄闇に白い男達の姿が浮かび上がり、動悸が止まなかった。

 何故こんな夢を見たのだろう。考えて、ふと三匹の金魚のことを思い出した。



 あの夏の終わり。帰宅した私は、玄関で異変に気付き立ち尽くした。

 水槽の中の二匹は、片隅で動かずにいた。そこに生命の気配は無く、既に抜殻だと分かった。

 赤い金魚達の姿は一変し、全身白いカビで覆われていた。

 そんなはずはない、と私は思った。その日の朝も元気に餌を食べており、何の異変も無かったのだ。これまでにも病で逝った金魚はいたが、何らかの予兆があり、然るべき経過があった。こんな風に突然逝くことは、考えられなかった。

 私は長いこと、水槽の前から動けずにいた。金魚達は沈黙の中に沈んでいる。赤い目玉を食い破って、白い菌糸だけがゆらゆらと揺れていた。



 あれから、私は金魚を飼わない。

 夏祭の夜。私の瞳は、金魚すくいの屋台に吸い寄せられる。宵闇の中、灯りに照らし出された色とりどりの金魚。赤、金、白、黒。くるくると入れ替わりながら泳ぐ様は、さながら万華鏡を思わせる。

 移り変わる金魚の中に、不意に黒い出目金の姿が過る。沈んだ目玉。暗い森に眠る白い遺体。白に侵された虚ろな目。

 金魚が口を開く。ゆらゆらと、泡だけが立ち昇る。水の世界のことである。その声は、私には届かない。金魚はひれをなびかせ、長い尾をひらめかせて踊る。夜の中を、夢の中を。ひらひらと、くるくると。妖しく美しく、金魚は泳ぎ続けている。


        〈了〉

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