第46話 澪

「名前……?」


 頬を真っ赤に染めた渚波がこくりと頷く。


 …………なんでだ?


 怪訝そうな目を向けていると、


「ほ、ほら、私達、結構仲良くなったから、そろそろ名前で呼んでもって……」


 渚波が控えめな声で説明した。


 確かに、言われてみれば、4月の頃よりもずっとずっと仲良くなれた。


 クラスが一緒になった当初は、身分が違うと思っていた。


 片やミスコン1位、片やクラスの雑草。


 接点すら持ってはいけない気がした。


 でも、運よく席が隣りになって、何かの拍子で会話を重ねていくうちに、渚波の色々な部分を知った。


 ぎこちないところ、恐がりなところ、一生懸命なところ、ちゃんと悲しむところ、料理が上手なところ。


 彼女は外見だけでなく、内面も綺麗だった。


「い、いや、おかしいかな……? うん、おかしいよね。お礼が名前で呼ぶなんて」


「おかしくはないけど……」


 渚波のことを名前で呼ぶとか、俺にとってはめっちゃハードルが高い。


 なんなら、人生で一度も女子の事を名前で呼んだことはない。


 でも、こんなお願いでいいのか?


「もっと攻めたお願いでもいいよ。デザートとか昼飯とか奢れでもいいし、それこそ物でも…………買えるもの少ないけど」


 渚波が首を横に振る。


「それでいいの。それが……いいの」


 今にも爆発しそうなほどに赤くした顔で俯く渚波。


 渚波にとってはそんな恥ずかしいことでもないはずだけどなぁ。


 名前で呼ぶなんて日常—――いや、そういえば渚波は、女友達は名前で呼べど、男友達は全員名字だったな。


 なるほど。渚波にとっては特別なんだな。


 渚波のお願いだ。聞いてあげたい。


 名前で呼び合う。普段なら恥ずかしくて絶対に呼べないけど。


 今は熱のせいで頭がぼーっとしていて、雑炊の中に入っていた生姜のせいで心も熱されて、感情がバグっている。


「じゃあ……そうしようか……澪」


 だから自然な形で言えた。


 渚波がぴくっと肩を震わせた。


 そして、渚波が顔をこちらに向ける。


「うん、今日から、改めてよろしくね……」


 頬をほんのり紅く染めた渚波の澄みきった目が、俺を捉える。


良介りょうすけくん」


 駄目だ。これは認めるしかない。


 身分不相応、絶対無理な恋。そんなのはわかっている。


 だけど俺は……彼女のことが――――


 ♦♦♦


 渚波――――いや、澪は傘を手に取り、トントンとローファーのつま先を地面につつく。


 玄関を開けると、すみれ色の夜空に星々が点々と光っていた。


「雨、止んでる」


 よかった。帰りが少し楽になるだろう。


「本当はずっとついていたいけど……」


 澪が名残惜しそうに俺の方を振り返った。


「そんな贅沢なことは言えないよ。……本当に送って行かなくて大丈夫?」


「大丈夫だよ。というか、良介くんは風邪ひいてるんだから、送ろうとしないでよ」


 ついついこっちも笑顔になってしまう顔で笑う澪。


「もっと遅い時間に帰ることもあるし。防犯ブザーも痴漢撃退スプレーも持っているし、大丈夫!」


「結構、装備してるんだね」


「…………まぁ実は、お父さんが無理矢理持たせてくるんだよね」


 困り顔を浮かべる澪。


 でも、お父さんの気持ちもわかる。


 こんな可愛い娘を持ったら、俺だってたくさん装備を持たせるだろう。むしろ足りないくらいだ。スタンガンとか、レスキューガンとか持たせる。


 いや、いっそ毎回お迎えするな。授業だって、毎日参観しなきゃ気が気でない。


「それよりも、しっかり休んでね」


「ああ、ありがとう。今日1日、澪が看病してくれたおかげで、今朝よりだいぶ良くなったよ」


 水枕や雑炊のおかげで心身ともに安らいだ。


 しかも部屋から玄関に行くまでの道が今朝より綺麗になっていた。


 たぶん掃除してくれたんだろう。


 うちの母親は家事全般が苦手だし、父親は仕事以外ダメ男で家事を全くしない。息子の俺は家事を手伝おうとしない親不孝者だからな。掃除したのは澪しかいない。


 心身の安らぎに加えて環境まで良くなったのだ。


 体調が回復するまで、あと少しだろう。


 澪は自己満足と言っていたが、俺にとってはかなり救いになった。


 本当にありがたい。感謝してもしきれない。


「よかった」


 澪は心の底から喜んでいた。


「気を付けて帰ってな」


「ありがと。良介くんもしっかり休むんだよ。体調が良くなったら……その、水族館、行こうね」


「え、あ…………いいの?」


「もちろん。チケット、まだ取っといたままだからね」


「そっか。うん、行こう」


「うん」


 女神のような優しい微笑みで頷いた。


「じゃあ、また学校でね」


「ああ、また学校で」


 澪はペッタンコな革の鞄を持って出て行く。


 俺は彼女の後姿が見えなくなってから、扉を閉めた。


「ふぅー……」


 思わずため息が漏れた。


 今日はマジで幸せだったな。


 澪が見舞いにきてくれるなんて、幸運以外の何物でもない。


 加えて、今日はぎこちなさはほとんど見られなかったし。


 俺との距離が知人から友達まで縮まったからかな。


 それにしても、澪は家事完璧だし、気遣い半端ないし、根底はイメージ通りしっかり者だったな。


 そりゃあミスコン1位にもなるわ。


 ★★★


 良介くんの家を出て、数m先の角を曲がったところで、


「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ」


 渚波澪わたしは大きく息を吐きながらしゃがみ込んだ。


「緊張したぁっ~~~~~~~~~!!!」


 人目も気にせず、再び大きく息を吐いた。


 でも、今回ばかりはあたふたするわけにはいかなかった。

 

 体調悪い時に騒がれたらたまらないはず。


 病人は安静が一番。


 だから私は、しっかり切り替えて看病することに集中した。


 …………もしかしたらボロを出していたかもしれないけど。


 それは否めないけどっっっ!!!


 というか、ほっぺ大丈夫だったかな。しょっちゅう熱っぽかったけど。


 私は自分の頬を揉みしだいた。


 —――何やってるの私っ!


 街角で自分の顔をぺちぺちしちゃったこの姿は、絶対に誰にも知られちゃならない。


 特に凛子。


 凛子にバレたら駄目。バレたら絶対茶化される。


 大丈夫だったよね。きっと。ぎこちなさとか、なかったよね。


「というか―――」


 胸が今更高鳴ってくる。


 今日、初めて2人きりで男子の部屋に入った。


 ドキドキした。


 というか、こんな場所で悩んでたら駄目!


 怪しい人だと思われて通報されちゃう。


 私は立って星々またたく夜空を見上げる。


「良介くん」


 夜空に向かって彼の名前を呟いてみる。


 また1歩、彼のもとへ踏み出せた気がした。


 歩幅が軽やかになる。 


 良介くん、早く治って、元気に小説の続きを書いてほしいな。

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