優等生の抜け出しかた

しるしすい

第1話

 学校は好きだし、運動も好きだけど、最近、体育の授業というのがものすごくばからしく思えることがある。

 一ヶ月ほど前に自分たちのクラスにやってきた転校生が体育の授業に参加しているところを、名都なつは一度として見たことがない。先生がいうには「身体が弱いから仕方ない」らしいけど、そんなばかな話があるかと思う。


「なっちゃん、先行ってるね」


 着替えの早いクラスメイトの女子が、何人かで教室を出ていった。名都は机の上に学校指定のジャージを広げて、セーラー服を脱ぐでもなく、指先で胸元のスカーフをもてあそぶ。

 身体が弱いから運動ができないというのは、まあ、理解できる。そういう事情があるのであれば、たしかに仕方ないとは思う。

 しかし、周りの生徒たちからあがる抗議の声にも、名都は少し共感してしまう。私たちは真面目に頑張っているのにずるい、という思いを、自分も完全には拭い去ることができない。

 問題は、彼女らの怒りの矛先が「事情のある人」に向いていることである。

 運動ができないので、授業は見学です。そのかわりに提出してもらったレポートの内容で成績をつけます——先生はみんなの前でそう説明した。あれがいけなかったと思う。運動が苦手な生徒にしてみれば、レポートを書くだけで自分たちよりもよい成績をつけられたらたまったものではないだろう。

 身体が弱い生徒への配慮ができるなら、運動が苦手な生徒への配慮もできて然るべきではないのか。それならいっそ、最初から実技かレポートかを選択できるようにしてしまえばいいのに。

 そこまで考えて、名都は背後からの視線を感じて振り向いた。

 名都の席のふたつ後ろ。その席は、縦も横も6列ずつの並びから不細工にはみ出した形で配置されている。いかにもな「転校生の席」という感じのそこに座った彼女は、何も言わずにじっとこちらを見つめていた。

 どうせ着替える必要などないのだからさっさとグラウンドに行けばいいのに、自分の席から立とうともしない。


白根しらねさん」


 声をかけてもなお、彼女は視線以上の反応を示さなかった。

 そんなふうだからいつまで経ってもクラスに馴染めないのだ。名都は胸の内で毒づく。

 白根さんはわたしに頼りすぎだ、と思う。

 何をするにも自分についてまわって、かといって何か話しかけてくるわけでもない。何ひとつ自分から行動しようとはせず、一切を他人任せにしている。仲良くなりたいからというならまだわかるが、彼女を見ている限りそれも「学級委員だから」という理由でしかなさそうなのが余計に腹立たしい。


「行かないの?」


 白根さんの肩が小さく跳ねて、色素の薄いボブがふわりと揺れた。ちょっとした意地悪のつもりだったのに、その顔に浮かんだ表情があまりにも悲痛で、名都は思わず怯んでしまった。

 そもそも、何もかも先生が悪いのだ。

 わたしに丸投げしすぎなんだよ、と思う。学級委員だからといって、面倒なことは全部自分にまわってくるのだ。校内の案内なんかはどう考えたって教師の仕事だろうと思う。

 そうやって自分に任せっきりな割には、わざわざふたつ後ろなんて微妙な席にするのもわけがわからない。他の生徒とも仲良くなってほしいからか知らないが、世話をさせたいなら隣の席にでもしてくれればよかったのだ。そのくせ、こうして周りと馴染めずにいるのに先生からは何のフォローもない。あまりにもいい加減だ。

 ふと思った。

 もしも自分がこのまま着替えもせずに突っ立っていたら、白根さんはずっとそこに座っているのだろうか。

 そして、もしもそうなったときに叱られるのは、やはり自分なのだろうか。

 ——なんでわたしばっか。

 学級委員なんてならなければよかったかもしれない。本当に損な役回りだと思う。白根さんのことで自分が怒られるなんてあまりにも理不尽に思えて、唐突に、腹の底にささやかな反抗心がわいて出た。


「ねえ、白根さん」


 それがなんだかものすごくいいアイデアのような気がして、思わず、にひっと笑いが漏れた。白根さんは不思議そうな顔で、やはり何も言わずに見つめ返してくる。

 体育の授業など知ったことではなかった。


「いいとこに連れてってあげる」


 机の上のジャージもそのままにして、名都は白根さんの手を引いて教室を出た。

 何か言われたら「トイレに行ってくる」と答えるつもりだったのに、ここまで堂々としていると逆に怪しまれないらしい。B組からD組の教室前を通り抜けてわざわざ西階段のほうまで行くと、名都は何の迷いもなくそれを上りはじめる。

 さすがの白根さんも異変に気づいたようで、握った左手に一瞬だけ動揺するような気配がした。

 しかし名都は振り向かない。決して容赦などせず、一切歩を緩めない。階段を上りきるまでに彼女は数えきれないほどつまずいたし、それにつられて名都まで何度も転びそうになった。それでもどうにかたどり着いた。

 最上階からさらにひとつ階段を上った先の踊り場に、安っぽいアルミ扉がある。

 名都は扉に近づいて手をかける。本来であれば施錠されているはずのノブは、何の滞りもなく回った。


「着いたよ」


 いいとこ、というのは大していいところでもない。

 裏の屋上、と名都は勝手に呼んでいる。広さだけなら、生徒に人気の「表の屋上」と大差ないが、それ以外はあらゆる面で「裏」なのである。

 鍵の壊れたアルミ扉を開けると、まずその見晴らしの悪さに驚かされる。何なのかもよくわからない白くて四角い機械が所狭しと並んでいて、そのひとつひとつが、高身長で有名な体育教師の高瀬よりもひとまわり以上背が高い。おまけにその機械たちは、がたがたと身体を震わせながらぬるくて淀んだ空気を休みなく吐き出しつづけていて、近くにいるだけでなんだか健康に悪いそうな感じがする。でも、最近は少し肌寒くなってきたから、暖かいのはありがたいかもしれない。

 扉を抜けて左に曲がると、塔屋のすぐ隣には家のお風呂場くらいの小さなスペースがある。その奥には高さがほんの40センチばかりの段差があって、そこからさらに一歩踏み出すと、今度は20メートルばかりの落差がある。

 転落防止のフェンスもないが、安全性と引き換えに眺めだけはいい。グラウンドを一望できるこの場所を、名都は密かに気に入っていた。塔屋の壁に寄りかかって腰を下ろすと、段差のところに頬杖をつく。

 白根さんも名都の隣にへたくそな正座をして、そこからの眺めに目を奪われているようだった。


「あっちの屋上とは大違いだよね」


 言ってから、彼女は「表」のほうも見たことがないのではないかと気がついた。

 白根さんが不思議そうな顔でこちらを見る。こんなにきれいな顔してたんだ——と、一ヶ月も面倒を見てきたはずなのに、今さらながらに思った。


「……あのさ、もしよかったら、」


 今度一緒に、屋上でごはん食べない? そんなことを言おうとして、


「——ぁ、」


 白根さんの小さな口から、ほとんど息のような声が漏れた。

 三時間目の授業が始まるチャイムだった。


「あー、始まっちゃったねぇ」


 半ば自分に言い聞かせるように笑ってみるが、白根さんはそれを聞いてやっと事態を把握したらしい。ただでさえ白い顔からみるみるうちに血の気が引いて、目尻にじわりと涙が浮かぶ。何度か口をぱくぱくさせたかと思えば、ようやく出た声は蚊の鳴くようにか細かった。


「ど、どう、すれば、いいですか……?」

「どうって、ここにいたら?」

「……でも、授業、ある……です。あります」


 ——じゃあなんでついてきたんだよ。

 やはり白根さんには自分の意思というものがない。なんだかいらっとして、名都は頭に浮かんだ意地の悪い質問を、あえてそのまま口にする。


「そんなに体育好きなの?」


 白根さんはうつむいて、少し考えてから小さく首を振った。ぽつりと、


「体育、好きじゃない」


 はじめて本音を聞いたような気がした。


「じゃあ別に行かなくていいんじゃない」


 そう言うと、白根さんは弾かれたように顔をあげた。


「で、でもっ、先生は、」

「先生が言ったから授業に出るの?」


 かっとなって、思っていたことが口をついて出た。


「じゃあ、なんでついてきたの? わたしが言ったから? わたしの言うこと聞くのも先生に言われたから?

 人の言うこと全部聞こうとするから、矛盾したこと言われたときに何もできなくなるんでしょ? 先生の言うこととわたしの言うこと、どっちが大事なの?」


 自分でも気持ち悪いほど長くて早口で、そのうえ最後のひと言なんかは束縛の強い恋人のようで、言いきった瞬間から後悔した。

 見れば、白根さんも何も言えなくなって、またうつむいてしまっていた。


「白根さんは」


 また怒られると思ったのか、名前を呼ぶと彼女の身体は弱々しく震えた。


「白根さんはどうしたいわけ?」

「——え」


 白根さんがゆっくりと顔をあげた。そんなことは考えたこともなかった、

というような表情をしていた。


「先生の言うことも、わたしの言うことも、全部聞く必要なんてないよ。自分がどうしたいのかを大切にしなきゃ」


 たしか、白根さんはすでに十四歳だったはずである。自分のほうが何ヶ月も年下のくせに、名都はまるで人生の先輩であるかのようなえらそうなことを言ってみる。

 すると、白根さんも思いのほか素直に「うん」とうなずいた。

 名都はすっかり調子に乗って言葉をつづける。


「授業なんて、ちょっとくらい出なくても大丈夫だよ」

「……うん」


 自分だって、実際にサボるのははじめてだというのに。

 とはいえ、その言葉で白根さんの中の葛藤には一応の決着がついたらしい。はっきりと言葉にはしなかったが、いまにもグラウンドに向かって走りだしそうだったさっきまでのそわそわした雰囲気は、いつのまにかなくなっていた。気持ちも落ちついた様子で、列になってグラウンドを走るクラスメイトたちを面白そうに眺めている。

 名都は軽く伸びをして、その横顔に話しかけた。


「ねえ。あのさ、いっつも教えるばっかりだったからさ、」


 今日は白根さんのこと、聞かせてよ。

 白根さんはグラウンドに目を向けたまま、こくりとうなずいた。

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優等生の抜け出しかた しるしすい @fuyukomori

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