いよいよ俺の登場か。どんなにイケメンか、しかと見とけよ
そうなのだ。私たちの上司は、碇という名字なのだ。碇陸翔(いかり・りくと)という二十代後半の青年。昔の記憶がフラッシュバックする。私を捕まえた元恋人の碇藤久。まさか関係はあるまいと思いつつも、気になる。でも、碇刑事は私の本当の恋人ではなかったと今はもう、そう言えるのだ。
碇刑事と関係のある青年なのか。もしかしたら、息子とか。前科者の私を見張っているのだろうか。色々考えて、ある時聞いてみた。
「碇主任って、刑事さんの親戚の方などおられますか」
すると、碇主任はバツの悪そうな顔をして睨みつけてきた。
「はあ。そんな無駄口たたく暇あったら、ちゃんと仕事してよ」
私は、その今時のキレやすい若者のような圧のある青年に、何も言えなくなった。
おかしいな。私は、あんな研ぎ澄まされたナイフの刃みたいな青年がけっこう好きだったはずなのに。
数か月が経つと、私と碇主任の関係は悪化していた。私は、ここを追われるともう後がないという思いから、なんとか仕事を続けていたが、この関係は本当に辛かった。なぜなのか、理由はわかっている。同僚のあの女性が、私が碇主任の悪口を言っていると、本人に告げ口しているからである。
苦しい。なぜこんな目に私があわなければならないのか。碇主任は正直言って私のタイプど真ん中であった。私に対してアタリが強いが、他の人には的確に場の指揮をとってくれるし、仕事に熱意も感じる。このパーキングエリアをお客様に気持ちよく使ってもらおうという気概を感じられる。優男風の見た目だが、情熱家で、棟梁肌。とてもカッコいいと思うし、こんな青年が息子だったなら、私の人生楽しかっただろうに。
「マジで勘弁してよ。真澄ばあさん。仕事ができないクセになんでそんな口だけは動かすの。噂する暇あったら、手を動かして。ホント、使えないな」
真澄ばあさん。真澄ばあさんと言ったか、この小僧。私は名前で呼ばれたのは久しぶりだよ、この小僧。
限界だ。堰を切ったように涙があふれ出す。
「私、噂好きじゃない。私だって仕事頑張っている。私、まだ婆さんじゃない。私だって生きている。私だって人間だ」
便器に涙の粒を落としながら、一生懸命磨いた。他に誰もいない早朝の時間帯のシフトの時だったので、叫んだ。
「碇主任の馬鹿野郎」
すると、私の居る男子トイレにずかずかと足音が近づいてきて、わたしが磨いているトイレの前で止まった。
「今、俺のこと馬鹿野郎って言ったか」
ひいい。と、身の縮むような思いがした。
「この、使えないクソばばぁ」
碇主任は舌打ちをして去っていった。
もう、ダメなのだと思う。ここにはいられないのだ。
幼い頃から、この言葉で様々なコミュニティから去ってきた。
未満児保育に通っていた時、保育園の時、ピアノの習い事、英語の習い事、そして小学校から。
誰のせいではない。
この言葉は母が言っていたのだろうか。今はもう使い古されて誰の言葉か分からなくなっているが。
私はこの言葉に救われながら、この言葉に依存してきた。
誰のせいではない。あの先生のせいでも、あの子のせいでもないし、あなたのせいでもないのだ、と。
逃げてきた。という人はいるが、他にどんな守り方があるのか教えてほしい。
居なくなればいい人、というものが確かに存在するのだ。
居なくならなければ、その場を壊してしまう人。居ることで、自分が壊れていく人。
「誰も見捨てない社会」というスローガンを掲げた政治家がいたような気がするが、存在すら無視される人がここに確かに居る。
存在しない者は、存在する。
この矛盾を、私は私の中で未だ解決できずにいる。
負のループにハマってしまった。しかもメビウスの形をしているため、抜け出せない。
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