よければ一緒に

飛鳥うと

よければ一緒に

 あ、え、好きじゃん。


 英 黒斗はなぶさ こくとは、突然恋心に気がついた。あまりの衝撃に歩みが止まる。吸って、吐いて。どくどくと体中の音が耳元でざわめいて、呼吸の音すらもごうごうと鳴る。なんだこれ、と呻いても答えはない。多分そう、これは、恋だ。

隣を歩いていた黒斗が急に立ち止まったのに気付いて、幼馴染――黒井 澄くろい すみも立ち止まる。

「黒斗?」

「……あ、ううん」

「汗かいてる。今日暑いもんな」

 きっちりシャツのボタンを首まで締めている澄は汗一つかいていない。しわ一つ無いハンカチで額を拭われて――鼻先をくすぐる黒井家の柔軟剤の匂いで目が覚めた。

「ありがと。……ちょっと考え事してた」

「そ。早く帰ろう。今日は冷やし中華だから」

 連れの恋が芽吹いたなんて知りもしない澄は、さっさと歩き出してしまった。

 そう、冷やし中華。夕食の話をしていたのだ。黒斗も澄も好物だ。どちらかと言えば、澄の母、黒井家の味付けが二人とも好みだったりする。母同士の職場が同じで、なんだったら大学も高校も同じらしいのだけど。とにかく、二人の間で今日は冷やし中華だと決まったようだ。

 職場――唐立区立病院での職分は違えど、長年仲良しの二人のことだ、一緒に昼食を摂ることも多い。同じ職場で同じ主婦で、互いの家庭を知り尽くしているならば話題は尽きないが、大抵はその晩の献立に落ち着くことも多い。胡瓜の安売りとかから広がって、揃いの献立に決まったのだろう。今日みたいに、昼休みに夕飯の連絡が来ることも多い。

 放課後、部活から解放されて真っ先に向かうのは、区で一番大きなからたち図書館だ。学生向けの自習室は、喋っていい部屋とダメな部屋があって、大抵は前者に入り浸っている。

 いつものように自習室で宿題をやっていると、後から澄がやってくる。隣に座って開口一番が「メール来た?」だ。黒斗の返答は「冷やし中華」で、やっぱり、と澄が頷いた。これもいつもの光景だったりする。

 自習室で宿題を終わらせて、復習なのか予習なのかパラパラと教科書を眺める幼馴染の隣で本を読む。中学生にはまだ早いと馴染みの司書にからかわれた本も、言い回しに癖はあれど難なく読める。互いにきりのいいところで終わらせて、二人並んで家に帰る。


 そんないつも通りの光景に、夕日が差し込んだ。


 道路脇、四つ角にあるカーブミラーに反射した夕日が、澄の横顔にスポットライトを当てた。と、同時に風が二人の間を駆け抜けていく。毛先が風に浚われて、眼鏡に隠された美貌が不意にあらわになった。

 澄は、有り体に言えば美人だ。それこそ幼少期には女子と間違われることもあった。分厚い眼鏡がそれを隠しているけれど、黒斗は澄の美しさをよく知っている。

 黒斗は、誰よりも澄のことを知っている自信がある。綺麗な顔も、そこにコンプレックスを抱いていることも、つっけんどんな言動の裏に優しさが存在することも、それが身内限定であることも、よくよく知っている。

 ずっと一緒にいた。学校こそ小学校の二年間しか被っていないけれど、医者と看護師のシフトに合わせて、互いが互いの家で夜を過ごすことも多かった。澄が大学に進学してからここ半年は少なかったけれど、それこそ去年まで、半年前までは毎日のように夕食を囲んでいたのだ。

 澄が大学生になって半年。少しずつ、澄の服装が変わってきた。私服は面倒だからと制服を好んでいた男が、カジュアルな私服を増やし始めたのだ。いつだって一緒に服を揃えてきたのに、今日は知らない服を着ている。似合っているけれど、高校生だった澄なら選ばないような、ひらひらしたカーディガンに薄く柄の入ったシャツだ。

 自分の知らないところで澄が変わっていく。自分だけが知っている澄のことも、いずれは誰かが知ってしまう。どうしようもない事実が、黒斗の喉を締め付けた。

 ひゅう、と音もなく息を呑む。

 知らないところで、知らない人になっていく黒井澄なんて嫌だ。

 ずっとずっと、澄の一番は自分がいい。


(ああ、俺、すみ兄のことが好きなんだ)


 唐突な答えがストンと腑に落ちて、立ち止まって。目の前を進む澄の背中がきらきらしくて、自分の鼓動がうるさくって、だらだらと流れていく汗を拭う優しさが嬉しくて。

 この手が誰かを選んだら、その人の汗も、優しく拭ってあげるのだ。どうしようもなく許しがたい妄想が体温を馬鹿みたいに上げていく。煮えくりかえるはらわた、じりじりと焼け付く肌、唐突な独占欲の爆発でぐらぐらと揺れる脳みそ。そんな、嫉妬に狂う自分を自覚して、それでもこれが恋じゃないなんて、黒斗に言えるわけもなかった。

 思い返せばずっと手元にあったような、もしかすると無かったような。今までがあんまりにも心地が良くて、分厚いヴェールが剥がれなかった、心の奥底にあった恋心が、青天の霹靂が如くあらわになった。

 どくどくと耳元でうるさい鼓動は落ち着かないまま澄の家に着いて、玄関先で手を振って別れる。たった三軒隣の家なのに、気をつけてと見送ってくれる優しさが、自分以外に向くのを許せない。

 中三の夏。英黒斗は、幼馴染への恋心を自覚した。



        ■



 家族で囲んだ夕食はやっぱり冷やし中華で、母の味を噛みしめながら、もう一人の実家とも呼べる存在――黒井家のことを思う。英家より少し夕食時が遅いから、澄はまだ本を読んでいるはずだ。もう少ししたら風呂に入る。ずっと一緒にいたからこそ、生活リズムは知り尽くしている。

 幼稚園に入る前、英家はこの地に引っ越してきた。黒斗の母、医師の英 千奈津はなぶさ ちなつと、澄の母、看護師の黒井 羊子くろい ようこによる策略である。どうせ夜勤のある仕事なのだ。家事に不安のある旦那に子供を任せるより、互いに預けた方がよほど安心できる。どちらかが夜勤ならもう一方が面倒を見る。明快で安全な、育休明けどころか十年後を想定した計画だ。

 したたかな母二人により、黒斗と澄は共に過ごすことが多くなった。小学校の登校班はもちろん同じだったので、登下校はいつも一緒だった。帰る先は母親のシフトに寄るけれど、大抵はどちらかの家に揃って帰る。

 澄が中高一貫校の中等部へと通い始めても、やっぱり登下校は一緒だった。追いかけるように同じ学校へと黒斗が入学してからは、図書館で待ち合わせるようになった。中高一貫校の中で、遅くまで開いている施設が――中高共通の施設が、そこしかなかったのだ。

 黒斗がバレー部に入ってからは、図書館ではなく体育館――部活後に合流することが増えた。部活を見学している日もあれば、ボール出しを手伝ってくれる日もあった。

 澄が大学に進学し、黒斗が中等部最高学年――三年もなった今も、やはり変わらない。時折母親に頼まれる買い物は、結局二人で行った方が楽になるし、何より一緒に帰らないと落ち着かないからと図書館で待ち合わせている。集合場所が学校の図書館から区のからたち図書館へと変わったけれど、変化らしい変化はそれくらいだ。

 小学校から数えて、実に八年半。黒斗は澄とともに帰宅している。黒斗の記憶にある限り、澄の我が儘で一人寂しく帰宅したことはないし、そもそも澄が特定の誰かを恋人にした事実もない。

 人好きのする見目をしているが、女性的であることをからかわれたり、露出狂に出会ったり、大人に声をかけられたりした過去が他者への警戒心を強めている。大勢の好む遊びや運動に興味を持たない澄は、深い仲の友人がいない。学校生活を送るには十分だけれど、五年後に覚えているかは怪しいような、そんな友人ばかりだ。黒斗に紹介するほどの友人もいなかったのか、共通の知り合いと呼べる人間もいない。

 他人に興味もなければ、恋人なんて存在に興味もないのかもしれない。

 ぐるぐると考えながら食事を終え、シャワーを浴び、短い髪を乾かして。自室のベッドに転がって、天井に向かって呟いた。

「すみ兄、恋人絶対にいないし童貞だよな。……好きな人とか、いるのかな」

 澄を捕まえるための外部障壁は、恐らく一つも存在しない。


 あるのは、黒斗の懸念だけ。


 いつの記憶かも分からない。両親曰く二歳の頃だという。

 黒斗には、将来を誓った運命の人が居るのだ。オレンジ色のワンピース、さらさらとなびく美しい黒髪。綺麗で、優しくて、でも顔は良く覚えていない。覚えているのは、綺麗な花畑で、彼女の手を握ってプロポーズをしたことだけ。

 相手が覚えているかどうかも分からない約束だけれど、黒斗の深いところに根付いている。

「……あの子、名前なんだっけ……」

 手がかりは何もない。強いて言うなら、驚くほど綺麗だったということだけ。それも、感情と記憶が根底にあるから、本来の造形も分からない。街を歩く度、おぼろげな記憶の彼女に似ている人を探し続けて十四歳になったのだ。今まで見つからなかったけれど、この先もそうだという保証はない。自分が覚えているのに、相手が忘れているなんて決めつけることも不可能だし、不誠実だ。

 どれだけ澄のことが好きだと自覚しても、彼女がとんでもなく綺麗だった感情だけはどうにも忘れられない。いっそ架空の存在であれば良かったのに。両親が証人となっている以上、運命を確信した相手は実在するし、きっとこの近くに住んでいる。

 けれど、今の黒斗には澄しか選べない。

 ずっと抱いていた運命の人への思いは、どうしたらいいのか。

 迷走する思考に溺れながら、黒斗は眠りに落ちるのだった。



        ■



 ピピピピ、目覚まし時計が鳴り、微睡んでいた意識が覚醒する。微かにいい匂いが黒斗の部屋にまで届いている。母、千奈津は朝に弱い分、とにかく早起きしてご飯の準備をした後、仮眠を取るスタイルを貫いている。今頃、台所でうたた寝しているのだろう。いつもの朝だ。

 例え黒斗の恋心が目覚めようと、日常は変わらず過ぎていく。

 黒斗は洗面所で顔を洗い、歯を磨いて、それから台所へと顔を出す。

「かーさんおはよ」

 案の定机に突っ伏していた母は、んん、と呻いて顔を上げた。いい匂いに囲まれるといい休息が取れるらしい。眠気より食い気が勝る黒斗は、母の持論が腑に落ちていない。

「おはよー黒斗。父さん今日休みだって」

「じゃあ起こさなくていっか」

「そそ。味噌汁お願い」

 言われるがままにコンロに残る鍋を覗き込んだ。ふわふわと湯気が漂っているので、温め直す必要はない。汁椀二つに味噌汁を注いで食卓へと運ぶと、すっかり起きた母が、とぽとぽと麦茶をコップに注いでいる。卓上を確認すると、卵焼きと白米、漬物が並んでいた。米は冷めてもいいが味噌汁はダメ、というのが英家の家訓である。

 母の正面は父の場所だ。二人のはす向かいである定位置に座って、手を合わせて。

「いただきます」

「めしあがれ」

 食前の挨拶をして、汁椀を手に取った。

 黙々と食べ進め、休憩として麦茶を飲む。コップが空になったので席を立ち、冷蔵庫から出した麦茶を注ぐ。ついでに空になった母のコップにも麦茶を注げば「あんがと」と軽やかな礼とともに引き取られていった。

「黒斗は気が利くねえ」

「父さんもじゃね? っていうか、俺のは教育された結果」

「そうねえ。でもあの人打算の割合が強いとこあるから。私が捕まったの、懇切丁寧に損得を説明されて頷いちゃったからだもん」

 付き合い始めた当初、父は駆け出しの営業マンだったはずだ。なかなかに売り上げも良く、期待の新人で、今のうちに選べば価値が上昇した未来よりも恋人にしやすいですよ、とかなんとか。聞く度に詳細は変わるけれど、色気のない口説き文句という点だけは変わらない。恐らく大量にメリットを並べ立てたせいで、記憶を引き出す度に万華鏡みたいに違う言葉が出てきてしまうのだ。

「いいじゃん、今仲良しなんだから」

「たくさん喧嘩したのよ。黒斗は打算で伴侶捕まえちゃだめよ」

 伴侶、と言えば。昨日自覚したばかりの恋が脳裏をよぎる。いつものようにすんなり受け流そうにも、昨晩どうにか澄を落とせないか検討したばかりである。恋人ナシ、友人も少ない幼馴染なら、どうにか既成事実を作ったり理詰めで口説き落とせないかと、それこそ両親のパターンを踏襲すれば行けそうだなんて考えていたのだ。

「あー、うん……」

 必然、返事にキレはない。そして、それを見逃す母でもない。

「あら。誰かいい人見つかったの」

「いやー、……俺さあ、ちっちゃいときにプロポーズした子いたじゃん」

 名前が思い出せなくて、と呟くと、母は不思議そうに首を傾げた。

「それならすみちゃんよ」

 やけに耳馴染みのある響きだ。なにせ毎日聞いている。母がそう呼ぶのは、幼馴染である黒井澄だからだ。運命の人は、母の交友関係に存在し、黒斗が認識していない「すみちゃん」のようだ。

 同じあだ名で複数の人を呼ぶなんて珍しいな、と思いながら、食べ終えた食器を積み重ねる。母の分も引き取って立ち上がった。流しの洗い桶に運び、ざああ、と水に沈めていく。

「母さんってすみ兄以外にもすみちゃんって知り合いいるんだ」

「あんた寝ぼけてんの? すみちゃんは黒井のすみちゃんよ」

「は?」

 そんなわけはない。だってあの子は、オレンジ色のワンピースを着ていた。髪も長くて、可憐な女の子だったはずだ。おぼろげな記憶とは噛み合わない。

 いつの間にか隣に立っていた母が、水道のレバーを押さえる。母の発言に衝撃を受けている間に、水は溜まって流しにあふれていた。

 衝撃で思うように動かない体で、黒斗は記憶との齟齬を訴えるべく言葉を絞り出す。

「あの子、ワンピース着てたじゃん、オレンジの」

「なんでそこは覚えてんの? あいつが性別気にして服着せるわけないじゃない。似合う服ならワンピースでも短ランでもなんでも買うでしょうよ」

 感情が悲鳴を上げてショートした。

 理性は、少しずつ状況を噛み砕いていく。

 澄の母、黒井羊子は少々型破りな人である。料理の隠し味とか、赤の他人への発想とか、日常にあふれた物で遊ぶ術とか、ふわふわとした見た目で人をダマして前例を作ったりとか。破天荒を内包した綿飴のような人だ。仕事では天使のような看護師だと聞いたけれど、現場を見たことはないのでデマの可能性もあるとは思っているが、今は関係ない。

 確かに、一緒に服を買いに行ったとき、男物から女物から大人向けにシニアコーナーと、店の思惑にとらわれず隅から隅までを回ったこともある。短ランは多分澄には似合わないので買わないだろうが、今も似合うスカートがあれば買ってくるかもしれない。

 ゆっくりと、冷静に考えれば、あり得ない話ではない。

「……じゃあ、おれ」

 冷蔵庫の前、麦茶を注いだその場で飲んでいる母と目が合った。

「初恋の人を、また好きになったってこと?」

「あら、好きになったのってすみちゃんなの」

 麦茶を飲み干した母は、にっこり笑って頷いた。

「どうしよ、めっちゃ嬉しい」

「嬉しいのはいいけど、そろそろ学校の準備したら?」

 母の言葉に時計を見ると、いつもならとっくに着替えている時間だった。まだ寝間着のまま、寝癖も直していない。

「まず着替えてきなさい。すみちゃんが迎えに来るわよ」

「今日は二限だから来ないよ」

「なんで知ってんのよ」

 呆れた母を背に自室へ戻る。学ランを着て、鞄に卓上の勉強道具を放り込んで、洗面所に駆け込んで頭を突っ込み水を流す。冷たい水で、物理的にも頭が冷えていく。タオルであらかた水気を取って、寝癖がごまかせたのを確認して玄関に飛び込んだ。

「行ってきます! 今日どっち?」

「羊子が夜勤だから二人ともうちでご飯」

「マジ?」

「違ってたら後で連絡するわ。行ってらっしゃい」

 笑い混じりの母に見送られながら家を飛び出した。多分、母親間でさっさと情報が回るのだろう。そんなことはどうでもいい。

 運命のあの子に、謝る理由がなくなった。

 澄を選ぶことに、躊躇する理由がなくなった。

 憧れの女神を、独占したくて堪らない幼馴染を捕まえても問題ないのだ。だってどちらも同じ人なんだから。昨晩の悩みを吹き飛ばす新事実が、朝の足取りを軽やかにした。



        ■



 放課後、からたち図書館の自習室で、いつもの席を陣取って宿題をこなす。日常を半分過ごせば朝の高揚も落ち着いてくる。とはいえ、問題は解けるが小説は頭に入ってこない。どうしようかな、とすぐ澄のことばかり考えてしまう。なんて言えば、澄を捕まえられるのか。そのことばかり考えていると、澄からの連絡が入る。


【千奈津さんから買い物メモ来た】

【なんで俺じゃないの?】

【どっちでもいいからだろ。玄関で待ってる】


 転送されてきたメッセージを確認して、今日の夕飯を想像する。たまご、米、キノコ類と野菜、なんてアバウトな指定ばかり。澄でなければ物の善し悪しが分からないから、確かにメッセージの送り先としては最適だ。

 置いたままだった本と宿題を鞄に放り込んで、忘れ物がないかを見てから自習室を出る。図書館の玄関ホールで待つ澄を見つけた瞬間胸が躍る。昨日の気付きから、澄の傍にいるとどうにも心が落ち着かない。

「おまたせ」

「ん。いこ」

「どうする? ゴーマート?」

「井上さんとこで新米買いたいし、キハダかな」

「りょーかい」

 玄関を出て、キハダ商店街の方へと足を向ける。いつもと同じ帰り道だ。だけど、恋がもたらすフィルターが幸せを増やしていく。

 恋をすると世界が変わる、なんて小説ではよくある表現だ。どうやら本当にあるらしい。

 他者への警戒心が強い澄が、自分に対して無警戒に話をしてくれる。今まで通りの澄が嬉しくて仕方がない。要するに浮かれているのだ。そんなことは分かっていて、きっと澄にもばれていて、けれど深くは聞かれない。ひどい悩みとかではないからと放置されているのだろう。そんな、必要以上に踏み入らない優しさも好きだ。

 母の指定の買い物を終え、二人で英家へと帰る。

 待ち構えていた母に食材を引き渡し、ご飯までの待ち時間はいつものように、リビングで自習室の続きだ。宿題は終わらせてしまったので、澄の様子をのんびりと眺める。本を読んでいなくても、やっぱり澄は何も言わない。珍しいな、とでも考えているのだろう。自分に害がなければ、身内の不審な挙動も放っておける性質だ。

「すみ兄、それなに?」

「情報学の基礎みたいなやつ」

「楽しい?」

「割と」

 黒斗にはちっとも興味の湧かない分野でも、澄には面白いらしい。広く浅く、何に対しても知識を得るのが楽しい性格だ。大学進学の際も、学部転向のしやすさや、学べる分野の広さを重視していたのを覚えている。

 カレーの匂いがする。ルーを溶かし始めたのだろう。新米と秋野菜のキノコカレー。旬の詰め合わせみたいな夕食は、想像するだけでおなかがすく。匂いがそれを煽っていく。早く食べたいという気持ちはもちろんある。けれど、食事が始まれば、何もしないで澄を眺めているわけにはいかない。中学生男子の食欲は、その場でだけ恋心に勝って、何合も米を平らげるまで収まらないのだ。早く食べたい気持ちと、このままずっと澄を見ていたい気持ちがくるくる目まぐるしく入れ替わっていく。

 夕飯が出来たと母に呼ばれるまで、黒斗は浮ついたままだった。

 

 結局、十合炊きの炊飯器は空になった。黒斗は予想通りよく食べたが、珍しく澄もおかわりをしていた。旬の暴力に負けた形である。千奈津のカレーは美味しい。少しの辛さが食欲を煽って、旨味の塊に追われるように食べ進めていると、いつの間にか鍋が空になっているのである。

 食器を片付けたところで、澄は家に帰ることになった。洗濯物があるとか、明日の準備があるとか、まあいつもの理由である。どうせ朝になったらまた会えるのだし、引き留める理由もない。あらかじめタッパーに分けてあったカレーを持たせて、両親によろしくと見送った。

 さて、母と二人きりである。玄関先で一息ついた黒斗に、母はくすくすと笑う。

「……あんた、馬鹿みたいに浮ついてたねえ」

「やっぱり?」

「ふわっふわしてたし、ずっとすみちゃん見てるし。世界もしかして二人きりだったりした?」

 母の言う全てに自覚があった。カレーを食べ始めてからは落ち着いたものの、図書館の帰り道からずっと、澄の存在が嬉しくて堪らなかった。医師として磨かれた母の目で見抜くまでもなく、あからさまに舞い上がっていたのだ。

「あんた、すみちゃんに告白するの?」

「する。絶対する。ずっと一緒がいい」

「プロポーズしたときと同じこと言ってる」

「俺成長してないじゃん」

 そん時の話しようか、と母が言うので、一も二もなく頷いた。黒斗が母と話すときは、大抵現実や未来の話ばかりで、昔話をすることがほとんど無い。そちらは大体父の担当で、最近は大型プロジェクトが忙しいとかなんとかであんまり顔を見ておらず、話をするどころではない。

 食卓の定位置、ではなく、父の定位置、つまりは母の正面に誘われて、大人しく座る。いつもの椅子じゃないからか、同じ椅子なのに、どこか座り心地が悪い。カレーの残り香が鼻孔をくすぐるが、満腹だから惑わされることもない。

 とぽとぽ、と麦茶を注いだコップを大人しく受け取って、母の言葉を待った。

「あんたが幼稚園に入る前にね、あたし達は寮から出ることになったのよ。父さんのいた寮は独身優先だったから早く出て行けって空気があったし、タイミングもいいかなって思って。それで、二人で引っ越し先を探してたの」

 丁度その頃、このあたりの土地を一斉に売り出して、モデルハウスを建てたり、新規の住人を呼び込んだりと、開発のタイミングだったという。

 黒井家が代々住んでいる土地で、子育てにも優しく治安のいい土地だと聞いて、二人は決め打ちのような形で出来合の一軒家を内見して回ったのだ。

 内見には時間がかかる。内外装や近所との接地面、庭の広さや水回りの高さなど見るべきところはたくさんある。幼児を連れ歩くには、厳しい物がある。

 家を数軒見て回る間、黒井家の好意に甘えて、二人は黒斗を預けたのだ。

「じっくり見て、まあここならいいねって決まったのがうちね。決まったから迎えに行くって連絡したら、もうちょっとで面白いことになるから早くおいでーって言われたのよ。何かと思って急いで指定の公園に行くじゃない?」

「……それで?」

 一応続きを急かしてみるけれど、この先の展開は分かりきっている。

「可愛いワンピースがよく似合ってるすみちゃんに、あんたがね、『おおきくなったらけっこんして!』って一生懸命言ってたの」

「ゥア……」

 まだ幼い息子が、とても幼い息子が、淡いオレンジのワンピースに身を包んだ、さらりとした長髪の、当時小学校一年生の澄に求婚していた。その現場に居合わせた衝撃はいかほどだろう。少なくとも、黒斗に想像は出来そうにない。

「全然記憶にない……」

「二歳の記憶がしっかりあったら怖いわよ。外で遊ぶなら公園ってことになって、花畑でシロツメクサの花冠作ったり、のんびりひなたぼっこしたりして、あんたがあれなにこれなにって全部聞いて、すみちゃんがぜーんぶ教えてくれるもんだから。あんた大好きになっちゃって、ひっついて離れなくなって、挙げ句の果てにはプロポーズ。もうほんと、びっくりしたわ」

 結婚なんてどこで覚えたのかと思ったら、犯人は羊子だったのだと母が笑う。

「羊子がね、『ずっといっしょがいい』っていうから結婚したらいいのよって教えてあげたわって、アレ特有の、悪気のない悪戯が発動してたのよ」

 旧友をアレ呼ばわりしたところで、母の中でのオチがついたらしい。ぐい、と麦茶を呷ってコップを空にする。おかわりをそっと注げば、ありがとう、と礼が飛んできた。

「まあ、なんかあるとあんたには婚約者いるもんねとか言ってた私も悪いんだけどね。……まさかねえ、一周回ってすみちゃんね」

 しみじみと、今度はゆっくりとお茶を飲みながら、母は優しく微笑んだ。幼少期、二人の母にそそのかされて初恋を覚えたことを知り、それが今の思い人であることを理解して、黒斗の頭はパンク寸前だ。

「なんで好きだって気付いたのよ」

 だから、秘密にしていたいようなことも、聞かれれば素直に話してしまう。

「……俺の知らない服着てて、なんかやだった」

 黒斗の切欠を、母は笑うことなく受け止めた。馬鹿みたいとかガキくさいとか、それは独占欲であって恋じゃないとか、そんな野暮なことは一つも言わない。

「告白するなら、攻め立てて落とすんじゃなくて、ちゃんと話し合った方がいいわよ」

 否定ではなく助言だけを残して、母は席を立つ。台所でコップを洗い、風呂に入ると言ってでていってしまった。去り際、ぐりぐりと黒斗の頭を撫でる様子があんまりにも満足そうで、引き留める言葉も出ない。

 残された黒斗はというと。汗をかいたまま、少しも減っていない麦茶のグラスを見つめながら、母に聞かされた過去を咀嚼している真っ最中だ。おぼろげな記憶の中の、握った手の先、オレンジ色のワンピース。その先、揺れる黒髪と、柔らかい瞳と、美しい顔立ち。それが、出会った頃の――黒斗が小学生になる前、顔を合わせた時の澄と重なって、パチンと何かがが嵌まるような感覚が走る。

 母の忠告は心の隅に留めたまま、ぬるい麦茶を飲み干して台所に向かう。数時間前、ここで一緒に食器を洗った澄のことが、なんだかもっと好きになったような、そんな気がした。

 


        ■



 澄が英家で夕食を摂った次の日は、黒斗が黒井家に行くことが多い。今日もいつものパターンだ。夕飯は羊子にリクエストしな、とふわふわしたアドバイスとともに黒斗を見送った千奈津は、布団に潜り込み、夜勤に備えた仮眠を取っている。

 毎日のように互いの家で過ごすので、着替えの心配は必要ない。どちらの自室にも互いの私服や寝間着がストックされているし、それが無くとも、下着以外なら勝手に着ても文句を言われることはない。衛生管理が徹底されているのは、両家の母の教えである。

 いつも通りの日常を過ごす黒斗は、移動教室の合間、廊下の窓から中庭を見下ろした。中庭の隅、渡り廊下の影のあたりが告白スポットであり、澄が定期的に足を運んでいた場所でもある。

 半年に一度のペースで、澄は誰かに呼び出されていた。大抵は告白であるし、その何割かが黒斗宛の伝書鳩依頼であったのだけど、そのどれにも澄は否を突きつけていた。振られた女生徒やら男子生徒やらが直接、お前がいるからか、と問うてきたのを、不意に思い出したのだ。

 澄に告白するのは大抵が同世代、つまり黒斗にとっては上の世代なので、高等部からわざわざ中等部までやってきたことになる。当然目立つので、関連する噂は黒斗の耳にも届けられた。好きな人が居るなんて断り文句を六年言い続けて卒業したらしい。実際に黒斗に詰め寄る人間もいたのだから、おそらくは本当のことである。

 今でも誰かを好きだったらどうしよう。そんなことを考えていれば、あっという間に放課後だ。

 部活は、三年生になってすぐ、四月の時点で退部した。今いる一年生は、黒斗が部員だったことを知らない者がほとんどだ。バレーを辞めた明確な理由はない。高校を外部受験する予定もなければ、大きな怪我を負ったわけでもない。自らが体を動かすことより楽しいことが見つかる予感がしたのだ。今は、人体の構造を学べたら、なんて漠然と考えている。

 放課後はいつも通りからたち図書館へ。カウンターで本を返し、そのままの流れで館内を歩く。小学生向けの文庫コーナーで見知ったシリーズの新刊はない。子供向けの本はあらかた読んだから、黒斗はもう少し奥、漫画やライトノベルの方へと向かう。漫画で分かるシリーズや、大御所漫画家の全集が並ぶ棚から二冊選んでカウンターへと戻る。ぐるりと一周して選んだ本を借り、二階へと昇る。奥の自習室は会話禁止だから、入ったことはほとんど無い。手前の、ささやかなざわめきの漂う自習室の方が、よっぽど居心地がいい。

 慣れ親しんだ自習室で待っていれば澄が来て、いつもみたいに勉強したり読書をしたり。きりがついたらどちらともなく帰る準備をして、図書館を出る。買い物の連絡がなければまっすぐに家に向かうし、あれば昨日のように、スーパーか商店街を経由する家に帰ると二人で手を洗って、食事の準備を手伝ったり、図書館の続きを過ごしたり。着替えがあるように当然シャンプーも置いてあって、まあ自分のがなければどっちを使ってもいい、なんて空気もある。羊子の洗顔を使っても怒られないが、千奈津の石けんを使うと怒られる。風呂上がりにのんびりと過ごして、帰ってきた父を迎えたり、自室に戻ってごろごろしたり。そんな、当たり前の日常。

 澄は自分のベッドの上で、黒斗は澄の部屋の中央、太陽の残り香を纏う布団の上で好きなように過ごしている。手を伸ばせば触れられる距離だ。

 自らの生活は、とても恵まれている。

 好きな人がすぐ傍にいる、満たされた日常を送っているのだ。

 けれどそれは、放っておけば失ってしまう。どんどん遠くに離れていって、気付いた頃には取り戻せなくなるような、そんな予感がする。それは嫌だ。

 だから黒斗は、口火を切った。

「すみ兄、あのさあ」

 話しかければ、生返事が降ってくる。布団の上で丸まって、それから起き上がる。黒斗は澄をまっすぐ見上げた。言葉が続いてこないのに気がついて、澄が体を起こす。黒斗を見る。目が合った。


「どうしたの」

「俺ね、すみ兄のことが好き」


 今日学校でテストがあった、みたいな。普段と代わり映えのないトーンで、黒斗は思いを告げた。

 澄の表情は変わらない。笑い飛ばすような人ではない。きちんと咀嚼しているのだ。

「友愛、家族愛、恋愛とかあるけど。どれ?」

「恋愛」

「……お前、婚約者は?」

 少し待って出てきたのは、幼い頃からの笑い話だ。そして、二人にとっては大事な話でもある。

 黒斗には婚約者がいる。黒斗の母、千奈津が散々話題に上げてきたのだ。もちろん黒井家にだって浸透しているし、相手のことを覚えていないことも含めて、澄だって知っている。

 この場で改めて話題に出すのならば、澄は知っているはずだ。黒斗が澄に思いを告げるにあたって、覚えていなかった相手のこと――『すみちゃん』のことを、片付ける必要がある。

「母さんから聞いたんだけどさ、あん時俺がプロポーズしたの、すみ兄なんだってね」

 それで、と続きを促す澄の表情に動きはない。黒斗の言葉を待っている。

「なんか俺、それ聞いて安心して。俺、ずっとあの子――すみちゃんのことも好きだし、すみ兄のことも好きで良いんだって、思った」

「うん、それで」

「改めて、俺と結婚して欲しい、……ってのは早いけど、俺を、すみ兄の一番にしてほしい」

「へえ、そう」

 その、言葉の冷たさに。照れくさくてゆるりと落ちていく視線がぴたりと固まった。反射的に上を、澄を見やる。眼鏡の奥、相貌の色は反射でよく見えない。見えなくても、それが冷えきっていることだけはすぐに分かった。

 だって、ずっと一緒にいたから。

 静かに怒る澄のことだって、よく知っている。

「黒斗は、アレが俺だって分かって安心したんだ」

「……うん」

 何かを、間違えた。けれどその何かが分からない。困惑の波に飲み込まれた黒斗は、言われたことに、頷くことしか許されない。

 

「黒斗は、なんでも教えてくれて、優しくて可愛くて、ワンピースの似合う『すみちゃん』が好きなのであって、俺が好きなわけじゃないんじゃない?」


「え」

 ちがう、とこぼれ落ちた声を冷ややかに無視して、澄は目を反らしてしまった。そのままベッドへと沈み込み、掛け布団を被って姿を隠してしまう。怒りであり、拒絶である。澄の行動に追いつけなくて、止めることも声をかけることも、立ち上がることも出来ない。呆然とする黒斗に、澄が与えたのは沈黙だけだった。

 かち、かち、かち。壁に掛かった時計の針が動く。ぼーん、遠くで柱時計の時報が聞こえる。黒井家の大黒柱とともに、この家とずっと在る時計の音だ。かち、かち、かち。澄からの返答はない。時計を見て、時間を確認して。黒斗はようやく、言葉を絞り出した。

「……すみ兄、怒らせてごめん」

 無言。

「俺、ここで寝てもいい? 帰った方が良いなら、帰るけど。……出来たらここにいたい」

 無言、無言。

「……寝るね。電気、消すから」

 無言、無言、無言。

「明日、また話を聞いて欲しい」

 おやすみ、と告げた黒斗に、やはり返事はない。あるのはふたり分の無言と、時計の針の音。それから、明確な拒絶だった。



        ■



 澄を怒らせてしまったとき、黒斗は一人で反省会をする。告白を無下にされても変わらない。

 澄は、優しくて賢くて、まるで聖人の様に見えるときがある。けれど本当は、許せるものと許せないものの線引きがしっかりしているし、内に秘めた熱量は、どこに収まっているのかが分からないほどに膨大だ。怒りはあんまり持続しなくて、爆発したら、冷めると共にに対象への興味を失い、捨ててしまう。

 それは明確に、黒斗にとって恐ろしいことだ。

 一番にして欲しいと告げたせいで、どうでもいい有象無象になってしまうのは耐えられない。

 だから、反省会をする。何を間違えたのかを確認して、きちんと謝って。それで、澄に許して貰わないといけない。

 澄は、黒斗の告白に対して「婚約者がいるはずだ」と言った。あのとき澄は小学生。一年生とはいえ、プロポーズなんて大きな出来事をそうそう忘れるわけもない。数年経って黒斗と過ごすようになり、忘れる機会が失われたのだから、尚更だ。

(……アレ、って、言った)

 過去の自分を、澄は『アレ』と称した。困惑の波が引いていき、それからふと思い至る。

 澄は、いつから女物の服を着なくなったか。黒斗の記憶が確かなら、中学に上がるときにはもう着ていなかった。小学校の半ばでもほとんど見ていなかったような、そんな気がする。

 あの頃はまだ視力が高くて、澄は眼鏡をしていなかった。今は滅多に見られない澄の素顔は、とても美しくて、綺麗で。それから、まだ体の出来上がっていない小さな澄は、可愛かった。だからこそ露出狂に狙われたこともあったのだし、女だとからかわれたこともあった。実態は知らないが、母はこっそりと教えてくれた。そういう悪い人も居るのだ、と。

 それがコンプレックスだと、黒斗はよく知っていた。


 ――知っていた、はずなのに。


(俺は、なんて言った?)

 あの子のことも好きだし、と言った。婚約者の話になる度に、でもずっと好きだ、とおぼろげな記憶に対して主張してきた。今更――本当に今更、告白されても怒るポイントではない。

 その次、「すみ兄のことも好きで良いんだって思った」と言った。求婚した過去に、今の感情を後押しされたのだと、そうとしか受け取れない言葉だ。

 これが間違いだ。澄にとって唾棄すべき過去と重ね合わせて好きだと言ってしまったのだ。自らに刺さる悪意に立ち向かって作り上げられた今の黒井澄を、澄が嫌いで仕方の無い過去の姿の延長として扱った。


 黒斗は、それに「安心した」とすら言った。

 最後通牒であるところの澄の確認に、しっかりと頷いた。


 自らで作り上げた『黒井澄』を踏みつけにした告白を、受け入れるわけも、許すわけもない。

 地雷をド派手に踏み抜いてしまった。布団という天岩戸に潜るのは当然、無言で蹴り出されなかったのも不思議なくらいだ。きっと、謝り倒してから帰宅して、また明日の朝にきっちりと謝罪するのが、正しい。ちょっとだけ気まずくなって、いつも通りに戻って、この話はおしまいになる。

 でも黒斗はここにいる。澄の部屋、その中央に、自分のために敷かれた布団の上で考えている。

 ここで間違えたら、本当に終わりだ。澄の中でどうでもいい存在になって、有象無象として背景になって、――それで、恋が散る。

 今の黒斗が好きなのは、今の黒井澄だ。一人で進んでいける強さがあり、眼鏡で隠しきれぬ美しさがあり、一番近くにいる、兄のような存在の澄だ。きらきらして、優しくて、なんでも教えてくれる、手を引いてくれる、絵本に出てくる女神みたいなあの子では、決してない。

 黒斗が抱いている感情は、憧れなんてちゃちなものではない。知らないところで変わっていくことを許せない、所有欲にも、独占欲にも似た恋だ。澄の全部が欲しい。黒斗の我が儘を煮詰めた願望だ。全部がいい。あの日のプロポーズの延長線なんて飛び越えて、遙か彼方の問題だ。

 他の誰でもない。運命でも婚約者でもない。ただ、格好よくて自慢の幼馴染の、黒井澄じゃないと嫌だ。

 あと一度だけ、言葉を伝えるチャンスがある。明日の朝。澄の頭が冷えて、黒斗の言葉を聞いてくれる、最後のタイミングだ。黒斗の将来は、数時間後にかかっている。

 振られたばかりの思い人と同じ部屋で、無神経に眠れるはずもない。何から伝えなくてはならないのか、どうすれば真意が正しく伝わるのか。

 眠たい頭で考えているうちに、運命の朝が来る。

 一生で一番長い夜が更けて、過ぎて、――無情にも明けていく。

 


        ■



 眠れずとも、だんまりと呼吸を繰り返していれば、自然に意識は遠くなる。満足のいく睡眠なんて取れるわけもなくて――取るつもりもなくて、いつものアラームで目が覚める。澄は寝覚めが悪く、いつも複数のアラームを設定しているのだけど、今日はさすがに、すぐに起きたらしい。一つ目のアラームは、二小節で途切れた。起き上がってベッドの様子を覗き込むと、充血した瞳と目が合った。澄も満足に眠れていないのだ。

「……」

「……おはよう、すみ兄」

「ごめん、……昨日、怒った」

「俺が悪いから、……すみ兄は怒って当然だよ」

 目尻の擦った痕と、掠れた声。黒斗の気付かないうちに、声もなく泣いていたのだろうか。それとも、無意識か。ぐ、とまた目元を擦った澄の手を止めようとして、はた、と手が止まる。空を泳いだ手を見て、澄も擦るのをやめた。触れて止めるには気まずくて、でも意図は伝わって。言葉がなくても通じることはあるのに、それだけでは足りないのだ。

「告白も、台無しにしてごめん。俺は、……黒斗には、もっといい人がいると思う」

 澄の言葉は、有無を言わせぬ強さを孕んでいた。黒斗がそうであったように、澄も眠れぬ間に考えたことがあるのだ。

「こっち上がって。……少し、聞いて欲しいことがある」

「分かった」

 誘われるままにベッドへ乗り上げ、壁にもたれる澄の正面、ベッドの縁からすぐのところで座り込む。黒斗が聞く姿勢に入ったのを見て、澄は話を再開する。

「さっきも言ったけど、黒斗にはもっと、いい人がいると思う」

「……いいひと」

「うん。大きくなったら結婚してって言われたときと違って、俺はもう、一ミリも可愛くない」

 澄は、枕元の眼鏡ケースを開く。出てくるのは、視力に見合わぬ分厚いレンズを抱える、野暮ったいいつもの眼鏡。

「顔の作りが整っていることに、自覚はあるよ。綺麗なものも好きだし、可愛いものも、かっこいいものも好きだ。……好きなものが似合うなら、幸せなんだって思ってた」

 無地のパジャマを纏う澄は、同じく無地のシーツの上にいる。二人の間で丸まっている布団も、カバーはシンプルな白だ。

「気に入ったワンピースを着るとさ、変態が決まって追いかけてきた。学校では女みたいって苛められて、買い物に行けば不自然に話しかけてくる大人もいた」

 綺麗な顔立ちが、女性的に見えるのがコンプレックスであることを、黒斗は知っていた。否、知っているつもりになっていただけだ。知っていなくちゃだめだからと母が教えてくれた何倍も、社会は澄に冷たかった。

「髪を切ったらストーカーが消えた。眼鏡をかけたら声をかけられなくなった。スカートをジーンズに変えたらいじめがなくなった。俺はそうして、好きなものと纏うものを分けて、いろんなことに適応してきた」

 澄がぐるりと部屋を見渡す。シンプルに整えられた部屋は、細々としたポイントに小物が置いてある。それらは母の趣味であったり澄の趣味であったりもするけれど、共通してターゲット層は女性である。

「昨日怒ったのはさ、……黒斗が好きなのは、今の俺だけじゃないんだなって、悔しかったから。結局は、ワンピースを着た可愛い可愛い六歳のすみちゃんの記憶が無きゃ告白もされない、決め手に欠ける人間なんだって思い知らされて、悔しくなった。八つ当たりしてごめん」

「……すみ兄」

 黒斗の言葉を、澄の手が制した。

「他人や俺自身が否定したから、綺麗で可愛い黒井澄は、もういないし、戻ってこない。俺より秀でた人なんてたくさん居るし、可愛くあろうとする運命みたいな人も、きっと見つかるよ」

 澄の中で一区切りついたのだろう。突きつけられていた手のひらが、ゆるりと下がっていく。

「ねえすみ兄、……俺の話も、聞いて」

「告白以外ならね。……とはいえ、そうなんだろうけどさ」

 ゆるり、澄の視線が黒斗から外れて、両膝を抱えて丸まってしまう。体の正面が見えなくなってしまったけれど、それで話を聞いてくれるなら、黒斗には十分だ。

「俺はやっぱり、すみ兄が好きだよ」

「……」

「すみ兄が傷ついて、自分を守ろうと変わったことも知ってて。全部じゃないけど、ちゃんと分かってたのに、まぜこぜに告白して、ごめん」

 まるで『婚約者だったから告白した』かのように伝わってしまったのは、浮かれて言葉を選べなかった黒斗のせいだ。母の「ちゃんと話し合え」という忠告を軽視したせいだ。

「そりゃ、プロポーズの相手がすみ兄だって分かったときはラッキーだと思ったし、運命だなとか、思ったし。それこそ安心もしたけど、違うんだよ。あん時の俺と今の俺とじゃ、抱えてる思いが全然違う。すみ兄が変わったように、俺も変わったんだ」

 ふ、と澄の口元が緩む。

「大きくなったし、強くなったし、な」

 空気を和らげようとしたのか、反らそうとしたのか。恐らく後者だろう。澄の言葉に応えそうになって堪える。このまま話題を反らされたら、思いを告げる機会は失われてしまう。

「俺は、すみ兄が俺の知らないところで変わっていくのが分かって、怖くなった。知らない服着て、知らない勉強して。……いつか知らないうちに、知らないところに行っちゃうんだって、怖くなったし、すごく嫌だった」

「母さん達に聞けば分かることだろ」

 そう、母同士の仲が良いのだ。聞けば大抵のことは教えてくれる。けれど、本人が嫌がることは決して教えてもらえない。だから、秘密にしたいことはきちんと守られる。それが保護者の義務であるし、母が、母たる所以だからだ。

「昨日、告白しようとしたのは、さ。その変化を生むのは俺が良いって思ったからなんだ。確かにプロポーズしたときは、すみちゃんが綺麗で、ずっと手をつないでいたかったんだと思う。けど、それとは全然違うんだ。全部俺が良い。手をつなぐだけじゃなくて、嬉しいのも悲しいのも、全部一緒がいい。綺麗だと思うし、ずっと手をつないでいたいけど、それ以上に俺の大切な人だって胸張って言いたいんだ」

 澄の視線が彷徨って、彷徨って――それから、黒斗を見た。眼鏡の奥に浮かぶのは、激しい怒りでも喜びでもなく、静かな感情。戸惑いではない。悟りか、諦めか。受け入れるようなその色に、黒斗は最後の一手を打つ。

「これってさ、恋かな。独占欲とか、我が儘かもしれないけど。俺はこれが恋だと思う」

「……うん」


「すみ兄が好き。ずっと俺の一番でいて欲しいし、俺を一番に選んで欲しい」


 リベンジは終わった。曖昧に、過去と混同した告白ではない。今の黒斗が、今の澄を好きだと伝えるための言葉は、これで尽きた。

 告白を聞き届けて、黙り込んだままの澄に問いかける。

「……すみ兄には、そんな人、いる?」

 黒斗の問いに、澄は静かに首を縦に振った――頷いた。

「うん、いる」

「俺の知り合い?」

「……黒斗、お前だよ」

 え、と間の抜けた声が黒斗の口の端から落ちていく。それを拾うように、澄は手を伸ばした。自然と正面から向かい合う形になる。抱えた膝は崩れ、間の布団は無残にも潰されていく。

 捕まった黒斗の腕を伝って、手の甲に触れられる。大きさを確かめるように手のひらを掬い上げたかと思えば、両手で包み込まれた。温かな体温が、じわりとふたり分混じっていく。

「俺は、黒斗のことが好きだよ。幼馴染として、兄として。……人としても、好き。全部ひっくるめて大好きだし、恋してるし、多分、愛してる」

 隠されていた思いに触れて、黒斗は呆然とする。

「でも、付き合いたいとかは考えてなかった。というか、ずっと諦めてた」

 知らなかった。想われていることも、澄が諦めていることも、知らなかった。

「なんで? 俺じゃだめなの?」

「言っただろ。俺はもう、綺麗で可愛い人間じゃないし、黒斗に相応しい人間はほかにいるはずだから、って」

 ふわり、自嘲の笑みを浮かべた澄に、黒斗が息を呑む。包まれていた手のひらが、ぱっと落とされて。布団に落ちて間抜けな音を立てる。

「そうやって諦めてきたから、急に変わるのが、本当に怖い。黒斗の望むような関係には、なれないと思う」

 黒斗が感情にまかせて走り出せる人間ならば、澄は石橋を叩いて渡る人間だ。相思相愛であると分かったとて、今まで渡れないのだと諦めていた橋の上を歩けるわけがない。本当に、進んで良いのか。変わって良いのか。それでもし、橋が崩れたら。一人で川に落ちて溺れるのではないか。そんな怯えが、澄の足を縫い止めて離さない。


「だから、俺以外の人を、探してくれ」


 澄が橋を渡れないのなら、黒斗はどうしたらいいか。

 決まっている。黒斗が迎えに行けばいい。動けると、渡れると、黒斗を選んで良いのだと本心から納得して歩き出せるまでずっと傍に居ればいい。

 一度放された手を伸ばした。澄は逃げない。ただ、諦めとともに黒斗の動向を見守っている。捕まえた澄の手は骨張っていて、可愛いより相応しい言葉がたくさんある。これは、澄が自分を選んで来た結果だ。軽く握ると、やんわりと応じてくれる。


 やっと、澄の本心に触れられた。


「すみ兄の一番は、ずっと俺だったんだよね」

 疑問と確認、どちらともとれるような問いかけに、澄は一度瞬いて、それから頷く。

「じゃあ、何も変わらないよ。それでいい」

 二人の間にある、柔らかな布団を膝で踏み越えた。正面から向き合って、目と目を合わせて、思いを込めて、握った手にも力を込めて。ここで落とす。絶対に、ここで捕まえる。そんな意思とともに、言葉を選ぶ。

「俺はすみ兄が好き。すみ兄は、俺のこと、好き?」

「うん。……俺は、黒斗が好き」

「俺には、すみ兄の代わりは居ないし、……俺の代わりも、どこにも居ないよ」

「……知ってる」

「だから、俺にして。急に変わんなくて良いから、ずっと一緒に居て」

 今はこれでいい。捕まえて、互いが互いの一番であればいい。きっとこの先、変わるタイミングはいくらでもある。進学や就職、転職とか、同棲とか、ひとり暮らしとか。いくらでも生活は変わるし、その度に関係は少しずつ変わっていく。

 ダメ押しにダメ押しを重ねた自覚はある。追い詰めた自覚も、どうにか捕まえられそうな手応えも、確かにある。

 ゆるく握った左手が熱い。

「……黒斗は、本当に俺で良いの」

「そう言ってんじゃん。俺は、すみ兄じゃなきゃだめなの」

 恐る恐る伸ばされた澄の左手に、頬を寄せてぶつかった。自分では見えないけれど、きっと紅潮しているのだろう。顔が熱い。

 躊躇いがちな指先が、頬に、肩に、膝に触れて。


「ばかだなあ、おまえ」

 赦しを、くれるのだ。


 黒斗は、澄を捕まえた。否、澄が、黒斗に捕まったのだ。

 じんわりと湧き上がる実感を、さするように背に伸ばされた手が引き上げていく。顔が、熱い。泣きそうな自分に気がついて、誤魔化すように口元を押さえた。唇に触れた指の背までが熱を帯びていて、どうしようもなかった。

「やべえ、……泣きそう」

「だろうな。そんな顔してる」

 あやすように背を撫でる手のひらと、つないだ手のひらが、澄の思いを伝えてくれる。

 澄が、選んでくれた。

 澄が、ずっと一緒に、これから先も隣にいてくれる。

 世界で一番幸せな人間であると確信できる、そんな朝だった。

 


        ■



 二人して寝不足のまま、ちょっと腫れぼったい瞼のまま過ごした日から、何日か。

 驚くほどに生活は変わらないまま、二人は過ごしている。英家で夕食を食べた翌日は、黒井家へ。その翌日は、また英家へ。黒斗と澄の間に『恋人』という肩書きが増えようと、何も変わらないのだ。

 昼休みに、母からメッセージが届く。【肉と魚】という単語だけの問いかけに魚と答え、夕飯は何になるのかを想像してみる。とはいえ、メインの食材だけで分かるならば苦労はしない。

 放課後は図書館の自習室だ。宿題を終えて、面白そうな本を探して一階をぐるりと回る。馴染みの司書に教えてもらった棚で何冊か見繕い、カウンターを経由してまた自習室へ。一冊目の半分ほどを読んだところで、遅れてやってきた澄が隣に座る。甘やかな言葉とか、そういうくすぐったいものはない。

「すみ兄、メッセ来た?」

「来た。出汁アンケだった」

「出汁?」

「味噌と醤油とキムチと豆乳」

「うーん、鍋」

「多分ね」

 本を読む黒斗の隣で、澄は一日の復習を始める。そのきりがついたなら、二人で一緒に帰るのだ。夕日の差し込む帰り道。人気の無い裏路地で、二人はそっと手をつなぐ。人の気配がすればすっと離れるような、そんな些細な触れあいだ。けれど、それでいい。

 おままごとのような恋愛から、二人は慣れていく。

 急ぐ必要は無いのだ。これからずっと、一緒に居るのだから。

 

 

 

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