最終話 塔の下でまた、君と出会う

 それからは、特に言うべきこともない。私は遠く離れた叔母さんの家に引き取られた。叔母さんはよくしてくれたけれど、ゲスト扱いというか、よそよそしさは抜けなかった。だから高校卒業後は叔母さんの家も出て、東京で就職した。とにかく独り立ちしたかったのだ。未だに話すことは苦手だけれど、事務連絡程度の会話はこなせるようになった。必要に駆られれば大抵のことはできるようになるものだ。それはある意味で救いであり、ある意味で残酷でもあった。

 そんな風にして社会人生活も三年が過ぎたある日、仕事がちょうどキリよく終わったので、久しぶりに定時で退社することができた。そのまま帰るのももったいないような気がして、なんとなく渋谷の駅に降りた。せっかくだし映画でも見よう、そう思って、波のように人が行き交うスクランブル交差点を渡る。

その時だった。

向こうの人波の奥に、彼の姿が見えた。見間違えようもない、あの彼だ。でもそれは本当に一瞬で、すぐに見えなくなってしまう。

無意識に足が動き出す。人々の流れに逆らい、彼がいるだろう方向へ急ぐ。人混みをかき分けるたび、誰かにぶつかる。私に向けられた舌打ちの音が背中に聞こえる。でもそんなの構っていられない。ようやく人の密度が落ち着いてきたとき、やっと追いついた。

「一条、くん」

彼が振り返る。目が合う。それと同時に、彼以外の人間全員が背景へと後退した。

「私だよ、石塔若菜。覚えてる?」

彼はとても驚いているようだった。目を大きく見開き、こちらを見つめる。そして確かに頷いた。

「その、私、あの時のことを、ずっと――」

私がそう言葉を紡ぎはじめたとき、彼はふと視線を外した。そして肩にかけた鞄の中をまさぐりはじめる。その予想外の行動に、私は口をつぐんでしまった。彼はアイパッドを取り出し、その画面をこちらに向ける。


『ごめんなさい。私は言葉を話すことができません』


そう書かれた画面を掲げながら、彼は申し訳なさそうに笑う。その時初めて、私があの日壊したものの大きさを知った。


 彼は専門学校を出た後、文字上のやりとりだけで済ませられる仕事で生計を立てているそうだ。とりあえず入った喫茶店で、彼はアイパッドを使ってそのことを教えてくれた。それでも周りの人は親切で、楽しくやれている、とも彼は文字で付け加えてくれたけれど、私はそのたびに罪悪感で心が締め付けられた。彼が言葉を話せなくなったのは、絶対私のせいだ。あの時の私が、お父さんの死後すぐの上、言葉に慣れていない状況だったといえ、彼にあんな酷いことを言ってしまったせいだ。お父さんが死んだのは彼の責任ではないのに、完全に私が悪いのに。彼はそのことに負い目を感じて、トラウマになって、言葉を話せなくなったのだろう。じっくり推敲することができる文字でしか、彼の心を表現できなくなったのだろう。

 思えばあの時から今までずっと、私は彼に謝りたかった。私に言葉を与えてくれたことへの感謝も伝えたかった。そして今、その彼は目の前にいる。今がまさにそのタイミングであることは明らかだった。

 でも、口が動かない。だってそうでしょう? 彼の言葉を失わせたのは、紛れもなく私の言葉なのだから。彼があの時のトラウマから言葉を失ったように、私もまた、彼に対し言葉を言うことには恐れがあった。また彼をどうしようもなく傷つけるかもしれない。そのことは私の口を止めるのに十分だった。

 じゃあ、彼をもう傷つけないように、彼には近づかないようにすればいいのか。それも違うように思う。だって私には、彼に言葉を返す義務があるのだから。私に言葉を与えた代わりに彼は言葉を失ったのだから、私は彼にそれを返さないといけない。

 私は与えられたものをそのまま返す必要がある。文字じゃだめだ。彼が私にくれたのは、そんな冷たい、無機的なものじゃない。もっと温かくて、生きられたものだ。

 でも、それをどのようにすればいいか分からない。口に出す以外に、彼に言葉を伝える方法が分からない。私は彼の方を見る。彼は一口も飲んでいない手元のコーヒーに視線を落としていた。その凪いだ水面に、諦めたように穏やかな薄い笑顔が映っていた。


 結局私は何もできないまま喫茶店を出て、駅の方へと歩き出した。もちろん二人の間に会話はない。それは、ただの沈黙よりもさらに深い静寂だった。

 あっという間に改札前に着く。彼とはここでお別れだ。彼は一度こちらに向き直すと、まるであの頃と同じように、軽く手を振ってみせた。それだけなのに、泣きたくなってしかたがなかった。

 彼が背中を向ける。改札に向けて、ゆっくりと歩き出す。その背中が遠くなっていく―

 私はいつの間にか、彼の手をつかんでいた。あの時彼がしたように。彼は振り返る。彼の手はやっぱり温かかった。私はその手を両手でしっかりと握ると、祈るような形で、それを自分のおでこにひっつける。彼の体温が直に伝わる。


ごめんなさい、ありがとう。


こうするしかないんだ、結局。直接言葉を伝えることができないのなら、もう祈るしかない。この温かい手を通して、私の念じた言葉が彼に届くことを。

 すると、私の両手が彼のもう片方の手に包まれていることに気がついた。私は顔を上げる。彼は少し身体を屈めると、私がしたのと同じように、私の手を彼のおでこに優しく当てた。


こちらこそごめん、ありがとう。


そう彼が言った気がした。彼は手を離し、私の目を見つめて笑う。あの頃と同じ笑顔だと、そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

塔の下で 橘暮四 @hosai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ