第六話 罰

 その日はずっと、何だかふわふわした心地だった。落ち着かないような、でも安心するような。常に地面に足が着いていないみたいだ。電車に乗って家に帰って、ご飯を作って、お風呂に入って。その間ずっと、そんな調子だった。宿題をしようと机に向かっても何だかぼおっとしてしまっていて、いつの間にかもう零時前。さすがにまずいと思って、台所へ向かう。冷たい水を飲んで気を引き締めようとした。

「おい」

背中から、低い声が聞こえる。私は、一気に現実に引き戻された。

「何が面白いんだよ、さっきからにやにや笑いやがって」

お父さんがドタドタと足音を立てて近づいてくる。私の髪をつかみ、居間へと引きずり出してきた。

「何がおかしいんだって聞いてんだろ」

投げ飛ばされる。やらかした。まずい。今回は普段より大分激しい。

「あ、もしかして男か? 調子のりやがって。そんなん許す訳ねえだろうが」

脇腹を蹴られる。鈍い痛みと同時に、お腹の底から沸き上がって胸を激しく衝くような、そんな感情が表れてきた。ここ数年間ずっと、押さえつけてきた感情。不幸にならないために、目を逸らし続けてきた感情。でも。こんな状態でも、今日の彼の言葉が私の心に響いた。

「石塔さんの心を、思ってることを、もっと世界に出してほしい」

私はきっと、この感情を表に出してもいいんだ。私が思っていることを、言葉にしてもいいんだ。だって彼が、そう教えてくれたから。私はお父さんの目をにらみ返す。その目は濁っていて、私の姿は映らない。

「わたしは」

「あ?」

「わたしは、お母さんの代わりじゃない」

言えた。言ってやった。ずっと言いたかったことを、言えなかったことを、ついに――

 思考が、激しい痛みによって遮られた。左頬に今まで感じたことがないような激痛が走る。ようやく、顔を殴られたのだと気づいた。私は思わず目を閉じる。また来る、そう思って身構えたけれど、予期した更なる痛みが訪れることはなかった。数秒経って、私は恐る恐る目を開ける。それと同時に、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。家には私だけが残され、凪いだ静寂がそこに響く。私は胸に詰まっていた空気を吐き出し、天井を見上げた。何かが始まったという感触と共に、何かがどうしようもなく終わってしまったのだという予言めいた悪寒が、私の背中を伝って消えた。


お父さんが死んだことを知ったのは、その次の日の朝のことだった。近所の橋の欄干から飛び降りて、コンクリートの基礎に身体を打ち付けたのを発見されたそうだ。即死だった。そしてその欄干には、並べられた靴と共に一枚のメモ用紙が置いてあったそうだ。警察官がその写真を私に見せた。

『お前の顔は、あの人によく似ていたんだ』

なんだよもう。ふざけるな。どうして、こんなこと。

涙が止まらなかった。その理由は分からない。


その日は学校を休んだけれど、次の日は登校させられた。大人達の配慮だろう。そんなもの要らないのに。

お父さんのニュースは、学校でもそれなりに広まっているようだった。私の様子や、頬のあざをちらちらと盗み見る視線を感じた。もう全部がどうでもいい。

何も考えられずに一日を終え、私はいつの間にかあの裏山にいた。本当に、気づいたらそこにいたのだ。私は眼下の街を見下ろす。お父さんが死んでも、この世界は何も変わらず廻っているように見えた。

「石塔さん」

背後から声が聞こえた。私は振り返る。視線の先に彼がいた。彼は心配そうな顔でこちらを見つめる。

「ごめん、俺噂で聞いちゃって。今はそっとしておくべきかなとも思ったけど、やっぱり君のこと心配で」

彼のその言葉を聞いたとき、何かが私の心を一瞬で支配した。怒り? 悲しみ? 自棄? どれも違う。全部の色の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような、とにかく汚い色の感情。私はそれに突き動かされるまま、彼の元へ近寄る。あの時のように、少し腕を差し出せば手を繋げるような距離。でも、奔流のような感情がそれを許さなかった。まるで私のものじゃないみたいに、口が勝手に動く。

「あなたが、あんなことさえ言わなければ」

嫌だ。こんなこと言いたくない。汚い。汚い。でも止まらない。

「あなたが、あんなこと言わなければ、こんなことにはならなかったのに。あなたが私に言葉を与えなければ、私は幸福を知らないままでいられたのに」

最悪だ。もう何もかもが終わってしまった。いや。終わらせてしまった。

 私は彼を押しのけて階段を駆け下りる。振り返ることはなかった。

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