第五話 恋に落ちる

 なんだか普段よりも早く一週間が過ぎて、また今日は月曜日。私は教科書を抱えて、次の授業の教室へとひとり移動していた。俯いて歩きながらも、横目で周囲に視線を泳がせる。意識しているのはもちろん彼、一条くんのことだった。彼は隣のクラスなので、廊下なんかですれ違うことがよくある。すると彼は、石塔さん、と少し控えめに手を振って挨拶してくれる。たいてい彼の隣には彼の友達がいるので少し恥ずかしいけれど、特別嫌だというわけでもなかった。一日に一、二回ほどそんなことを繰り返すうちに、私は無意識に彼の気配を気にするようになっていた。この学校という世界において、私にとって彼だけが名前を持っていた。

 本校舎の階段を上る。そして、階段の踊り場へとさしかかろうとしたその時、ふとその気配を感じた。

「登、部活禁止期間は何やってるんだよ」

それを聞いて、私は思わず足を止めた。そっと段上を見やる。一条くんと、彼と同じくらい日焼けした男子が立ち止まって話していた。私はちょっと階段を降りて、彼らから見て死角になるような場所で身を隠す。盗み聞きなんて良くないのは分かっているけれど、この場を離れる気にもなれなかった。

「んーまあ色々だよ」

一条くんの声が聞こえる。あの時間のことは言っていないようだった。

「色々って?」

「色々は色々だよ。大丈夫だって。ちゃんと今も筋トレとか基礎練はしてるし。部活禁止解けたらすぐベストコンディション出せるよ」

「それならいいけどさ。部活禁止期間って今週の水曜までだろ? そっからは毎日練習だからな。夏休みの大会も近いんだから」

そこまでの会話を聞いて、私は喉が詰まるような、そんな気持ちがした。そうだ、彼にとって私は、広い交友関係のただのひとつに過ぎない。あの裏山は、彼の世界のほんの一部に過ぎない。彼には私以外の友人がいて、コミュニティがある。むしろ、私と彼が関わることの方がイレギュラーなんだ、きっと。部活禁止期間という非日常の中で、たまたま私と出会っただけ。彼が日常に帰っていけば、私と彼の接点はなくなってしまう。しかもすぐ夏休みだ。ことさら会う理由もなくなる。夏休みが明けた頃には、彼はまた名前のない他人に戻ってしまって、私はまた誰の世界からも疎外されたひとりに戻って…。

 ぎゅっと、胸が締め付けられる。質量を持った空気が鉛のように肺に沈殿するような、そんな感覚。どうしてこんな気持ちになるのだろう。あの裏山の時間は、お母さんのためだけのものでよかったはずなのに。ひとりであることを望んでいたはずなのに。なのに。

 

なんか、やだな。


「あれ、石塔さん」

びっくりして顔をあげる。一条くんの顔がすぐ目の前まで来ていた。いつの間に。気づかなかった。盗み聞きしていたのはばれていないだろうか。そんな風に内心困惑する私を見て、彼は少し不思議そうに私の顔を見つめた。なおさら焦ってしまう。すると、ふと予鈴が鳴った。

「やば、次移動教室だ。じゃあね石塔さん、また放課後に」

予鈴を聞いた彼はせわしげに階下へと降りていった。軽く安堵すると同時に、遠ざかっていく彼の背中に、なぜだか目が離せないでいた。


 放課後、またいつもと同じように私は物語を音読していた。でも、内心はいつも通りというわけにもいかない。先ほど感じたあの感覚、あの感情が、今も私の胸に蟠っていた。私はこっそり彼の方を流し見る。彼の方は普段と変わらず、目を閉じて私の声を聞いていた。でも、この「普段通り」だってずっと続くわけではない。今日含めて、あと三日。それで、私にとっての新しい日常、そして彼にとっての非日常が終わってしまう。彼の世界に、私は立ち入れなくなってしまう。そんなことを考えているうちに、いつの間にかもう物語を四つ読み終えてしまっていた。ページを一つめくる。今日の最後の話は『ラプンツェル』。私が一番好きなお話で、それでいてちょっと嫌いなお話。

「ラプンツェル、ラプンツェル。おまえの髪をたらしておくれ」

もう何回も読んできたとおりに、私は読み進める。物語はつつがなく進行する。やがてラプンツェルと王子さまが出会って、ふたりは惹かれあう。そして魔女によって引き裂かれ、ラプンツェルは砂漠をさまよい、王子さまは視力を失う。ああ、もうすぐラストシーンだ。やがて、声をたよりにふたりは再会する。ラプンツェルの涙が王子さまの目に落ちると、潰れた王子さまの目が奇跡的にも再び開く。

「それから二人は長いこと幸せに、満ち足りて暮らしました」

最後の一文を読み終わる。この物語も、今日のこの時間も、これで終わりだ。だけど。私は終わらせたくなかった。ずっと。その両方を。

「……そして、ふたりは魔女とも仲直りをしました。三人みんなで、幸せになりました」

私がそう言うと、彼ははっと目を開けた。ぽかんと口を開いて、こちらを見つめる。何だか気恥ずかしい。

「え、ラプンツェルってそんな終わり方だっけ」

彼が言う。私は手元の本で口元を隠す。その代わり、彼の目を見つめ返す。

「これは、私の言葉」

私がそう言うと、彼は勢いよく立ち上がった。私の方へと駆け寄り、本で顔を隠していた私の手を両手で握る。きっと真っ赤になっている顔があらわになって、かなり恥ずかしい。

「すごく、いいと思う。石塔さんの言葉。やっぱり綺麗だよ。きっと君が思っているのよりも、ずっと。これからももっと聞かせてほしいし、もっと言ってほしい。石塔さんの心を、思ってることを、もっと世界に出してほしい。きっと、色んな人を幸せにできるよ」

彼はそう熱弁する。たった一言発しただけでそんなに褒められると、逆に照れてしまう。でもそれは、彼の言葉が何の衒いも含まないからこそだった。彼は私の手を握る力を強くする。はじめて握った男の子の手は固くて、大きくて、それでいてとても温かかった。

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