第四話 登ってきた王子さま

 それでもやっぱり、次の日も彼はやってきた。彼はベンチに座る私を認めると、大きく手を振って「石塔さん」と呼びかけてきた。他の誰かに見られているわけでもないけれど、恥ずかしいのでやめてほしい。でもそんなこと口に出せるわけないので、代わりに軽く会釈をする。

「また俺はそこらへんで座ってるよ。俺のことは気にせず、普段通りにやってくれれば」

彼はそう言って、昨日と同じ場所に座る。そう簡単な話でもないのだけど。そう思いながら、私は昨日の続きを読み始めた。斜め後ろの彼の存在をなるべく意識から消し去るために、途中から私も目を閉じていた。もう何十回、いや、何百回も読んでいるから、ほとんど一字一句暗記してしまっているので問題ない。自分自身の言葉を発さなくていい分、記憶の方に脳の容量を割けているからだろうと勝手に思っている。

 三十分くらいかけて五つの物語を読み終えて、私は本を閉じる。彼は顔を上げると、ゆっくりと立ち上がった。

「もう終わっちゃったのかあ。部活の筋トレはあんなに時間が過ぎるのが遅いのに。やっぱり石塔さんの声は落ち着くな」

彼は私に近づいて、そう笑いかける。私は彼から離れるように座る位置をずらしながら、目線が合わないように俯く。

「そういえば石塔さんは部活してないの?」

彼が訊く。私は頭を横に振る。

「綺麗な声してるのに。放送部とか、合唱部にも入ってないの?」

私は顔を縦に振る。今日は、彼はなかなか帰らないみたいだ。私自身について色々訊かれるのは都合が悪い。早く帰ってほしいと思っていたけれど、彼は私の反応をじっと見つめていた。

「石塔さんは、あんまり喋らないんだね」

彼にそう言われて、私はぞっとした。思わずカーディガンの袖を引っ張る。喋らない理由を訊かれてしまうのではないか。そうしたらきちんとごまかせるだろうか。お父さんに殴られていることがばれないだろうか。ばれたらまずい。なんでまずいかは分からないけれど、とにかくまずい。

「喋るのが苦手なのかな。それならしょうがないよね」

しかし、彼の口から零れた言葉は意外なものだった。私のあり方が、受け入れられるなんて思わなかった。お父さんのように殴るわけでも、先生のように無言で責め立てるわけでもない。そんな返答の形は初めてだ。もしかしたらそれが普通なのかな。私に普通なんて分からない。

「俺もよく、考えてから発言しろとか言われるけどそれ苦手だしなあ。苦手なもんは苦手だよ。でもさ」

そう言って彼は言葉を区切る。私の意識はいつの間にか彼の言葉の続きに集中していた。

「でも、もし石塔さんがいいんだったら、俺は石塔さんの言葉も聞いてみたいな。声だけじゃなくて、言葉を」

その言葉に、私は思わず顔を上げた。聞きたい? 私の言葉を? にわかには信じられなかった。私の言葉に、そんな価値があるとは思えなかった。私が「自分の」言葉を、意見を発するということは、つまりお父さんに殴られることと同じだったから。私は無意識に彼へ目線を向けていた。「どうして?」という意味の目線を。

「だって石塔さんの声が、あんまり綺麗だから。あんなに綺麗な声の人が、綺麗な言葉を持ってないわけないでしょ。綺麗な言葉を持ってるってことはつまり、綺麗な心を持ってるってことだ」

彼は片手を首の後ろに回しながら、眉を少し下げて笑った。昨日と同じ笑い方だ。私がその言葉に呆気にとられているうちに、彼の方がはっとした表情を見せた。

「あれ、なんかこれ、もしかしてめっちゃ恥ずかしいやつかな」

すると彼は、足元のリュックサックを急いで肩にかけた。そして「じゃあ石塔さん、また来週」と言って、小走りに階段を駆け下りていった。私はしばらくその場から動けなかった。


 それからずっと、彼の言葉が私の頭の中に反芻され続けていた。お父さんに殴られているときにも、朝目覚めたあとのまどろみの中にも、その言葉は私の頭の片隅を占有していた。私の言葉が綺麗だなんて。そんな私の言葉を聞きたいだなんて。その言葉をどういう風に処理すればいいのか、私には分からなかった。


 週末が明けてからも、彼は毎日必ず私の元へ現れるようになった。私が童話を音読するのを黙って聞いて、それが終わると彼は私に色々なことを話してきた。部活のこと、友達のこと、勉強のこと。今度は私の方がそれを黙って聞いて、時々相づちを打つ。その話を聞くかぎり、彼は本当に、私とは違う世界に生きる人間だった。彼は常に気の合う友人に囲まれ、優しい家族に愛されていた。そして彼も、そんな彼の世界を愛していた。彼は、本当の意味で「正しく」人生を生きていた。

 しかし彼には、その「正しさ」に驕っているような雰囲気も感じられなかった。つまり、どこまでも間違って生きている私に対しても、内心見下すような、あるいは同情するようなまなざしを向けることがなかった。彼は私を、対等な存在として自身の世界へと招き入れた。自分の言葉を話すことなく、ただ俯いて首を縦か横にしか振らない私を。

そんな彼との、聞いて聞かれての関係を続けるうちに、私は彼と共にいることを苦痛と感じることがなくなっていったように思う。お母さんのためだけにあったこの時間に、私はいつの間にか彼のための余地も作りだしていた。私は、彼が合流してから音読をはじめるようになっていた。

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