第三話 髪を垂らす

 次の日、憂鬱な体育の授業があった木曜日の放課後。私はいつものように、ベンチに座って街を見下ろしていた。高校の裏手にまわると狭い路地があり、その先の階段を十分ほど登ると、裏山の頂上付近に出る。そこは少し開けていて、ベンチがひとつだけ置かれている。そのベンチに座ると、街の全体が一望できるようになっているのだ。私は高一の夏にここを見つけてから一年ほど、放課後に毎日のようにここに通っていた。誰もいない、静かな山の上で街を見下ろすと、なんだか気持ちが良い。普段私を疎外している世界を、今度はこちらから拒絶してやっているような、そんな痛快さがある。そして私にとってここは、ある意味でとても神聖な場所だった。ここでなら私は、孤独ではないのだから。ここは、私とお母さんだけの場所だから。

 私は、鞄から一冊の文庫本を取り出す。『グリム童話集』。カバーはとうにぼろぼろになって、角は所々めくれあがっている。もう十年以上使われている代物だから仕方ない。

これは、お母さんが私のために遺してくれていたものだった。私が小さい頃、寝る前によく読み聞かせてもらったグリム童話。その時に使っていたこれを、お母さんは亡くなる直前に渡してくれた。まだ幼かった私は、その意味をよく分かっていなかったけれど。

 私は、栞がとじられていたページを開く。そして、そこにつづられていた物語を、声に出して読み始めた。ゆっくりと、抑揚をつけて。せりふの所は少し大げさに。接続詞はしっかりと。私の心の中にしまわれたお母さんの声を、慎重に取り出して再現する。お母さんならここはこう読む。お母さんならここには少し間を置く。遠くて綺麗なお母さんとの思い出をなぞっているこの時間だけ、私はお母さんと共にあるような気がした。お父さんは、私だけがお母さんの唯一の面影だと思っているけれど、私は違う。この記憶が、私とお母さんを繋ぐ唯一の手がかりだった。

 言葉を紡ぐほどに、心が安らいでいくのを感じる。その喉の震えが、私がお母さんと共に「生きている」ことを実感させる。心地良い感触のまま、三つ目の物語を語り終えた頃だった。ページをめくるために口を閉じたその静寂に、かすかな足音が聞こえた。私は階段の方を振り返る。足音が止まるのと同時に、ひとりの男子と目があった。その人はうちの高校の制服を着ていた。胸元に青色のバッヂがついているから、私と同じ二年生だろう。白いカッターシャツとは対照的にその肌は健康的に日焼けしていた。少し癖がついた髪は重たげに眉にかかっていたけれど、きちんとセットされているからか清潔感がある。彫りの深い奥二重はきりりとしていて、鼻筋はまっすぐ伸びていた。まさに、明るい男子高校生という感じだ。人気のない裏山で、顔立ちの整った男子とふたりきり。一般的には女の子がうらやむような甘いシチュエーションだけれど、私はそれどころではなかった。

 声を、聞かれていた?

 まずい、こんなのばれたら一瞬で噂が立ってしまう。普段は一言も喋らない人間が、放課後一人で童話を音読している。そんなの絶好の笑い話だ。クラスにもっと居づらくなるだろうし、お母さんとの甘美な時間すら失ってしまう。それは嫌だ。でもどうしたら。とにかく逃げないと。でも、その男子は階段の前に立って動かない。やばい。やばい。

「待って。別に邪魔したいわけではないんです」

見るからに動揺した私を落ち着かせるように、その人は優しい声でそう言った。柔和な笑みを浮かべながら、両手をひらひらと振ってみせる。

「えっと、その、俺、今部活に行けないんすよ。現社の授業で赤点取っちゃって。しかも現社の杉野先生が部活の顧問で。あ、俺硬式テニス部なんすけど。杉野先生って結構厳しいじゃないすか。それで、赤点取ったやつは二週間部活禁止だーって。酷くないすか」

そう言って彼はまた笑う。いまいち話の展開がつかめない。だけど彼はまだ階段の前に陣取っているので、その隙に逃げることもできなかった。

「あ、本題からずれちゃったな。まあ、つまりそんな感じで部活にも行けず暇だったんでぶらぶらしてたんすよ。そしたらこの裏山に登れる階段見つけて。でも道中特に面白いものもなかったから引き返すつもりだったんだけど、その時に声が聞こえた。その、なんていうのかな、純粋に綺麗な声だなって」

今度は眉を少し下げて笑った。片手を首の裏に回して、少し恥ずかしそうにしていた。よく笑う人だなと思ったけれど、その表情は毎回違っていた。それだけで、この人が私とは全く違う人種であることが察せられた。

「だから本当に、邪魔するつもりはなかったんです。びっくりさせてごめん。それでなんだけど、もしよかったらさっきの続きを聞かせてくれないかな。綺麗な声ですごく落ち着くし、もっと聞きたいなって思ったから。もちろん静かにしてるし、誰にも言わないよ」

そのお願いはあまりに意外だった。自分の声を誰かに聞かせるなんて想像さえしなかったから、思考がまとまらない。それがいいことなのか悪いことなのか、判断することもままならなかった。

 しかも、私の声を、綺麗、だって。信じられない。私のことをからかっているんじゃないだろうか。こっそり録音して、学年中に拡散するんじゃないだろうか。そう思って彼の方を見ると、顔の前で両手を合わせてこちらをじっと見つめていた。その瞳は切実で、そこに嘘や嘲笑の色は見て取れなかった。というか、本当に隠し撮りしたいのならわざわざ正直にお願いする必要もない。帰ったふりをして、私が再開したところをこっそり隠れて録音すればいいだけだ。

 ここまで考えて、私はひとつの理由にたどりついた。こんなに理論武装するよりももっと強力な、彼のお願いを引き受けるべき理由がある。

 だってこの人は、お父さんと同じで男の人でしょう?

 断ったら何をされるか分からない。見た限りは優しそうだけれど、それならお父さんだって同じだ。優しかったお父さんは、お母さんが死んでから変わってしまった。

 私は酷く消極的な動機から頷く。彼はあからさまに表情を明るくした。対して私は心の内でため息をつく。お母さんのためのこの時間を、今日だけ諦めることに決めた。

 それから私は、さっきの続きから読み始めた。彼は階段の側、地面に直接座り込み、目を閉じながらそれを聞いていた。私はなるべく彼の存在を意識しないようにしていたけれど、それは案外上手くいきそうに思われた。彼はまったく音を立てなかったから。声どころか、咳払いや呼吸の音さえ抑えていた。だから、彼を視界から離してしまえばそこはいつもと変わらないはずだった。でも、彼が私の声を聞いているという感覚、彼の世界に私が含まれているというその感覚が、私を終始そわそわさせていた。

 ふたつ、物語を読み終える。普段は五つ物語を読んだら終えると決めているので、今日も同じようにページに栞を挟み、本を閉じた。私は彼の方を流し見る。すると彼はゆっくりと目を開き、口の端を持ち上げた。また違う笑い方だと思った。

「ありがとう。すごく落ち着く声だった。もしかしてだけど、毎日音読してるの?やけに慣れてたよね」

彼がそう訊く。嘘を吐くのも何だか怖いような気がして、軽く頷く。

「そっか。ならまた明日も聞きにきていいかな。もちろん、それでいいならだけど」

いいわけがない。この時間はお母さんとのふたりきりがいいのだ。でも、私はまだ男の人が信じられなかった。それに、この人だってすぐに飽きてこなくなるだろうとも思っていた。また軽く頷く。そんな私の気持ちも意図もつゆ知らず、彼は無邪気に顔をほころばせた。

「ありがとう。俺は二年一組の一条登。君の名前は?」

私は鞄から適当なノートを取り出して、その表紙に書いてある名前を見せた。

「二組なんだ。隣のクラスだね。それじゃあまた明日、石塔さん」

彼は手を振って階段を降りていく。その背中を遠く眺めながら、私は「また明日」という言葉にため息をついた。

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