ほほえむアメジスト

ぴーや

ほほえむアメジスト

 なんと美しいのだろう。無垢なる青年のあの姿。命を凌駕した、得体の知れない雰囲気。この際、生きているのかいないのか、そんなことさえ、ただの誤差だった。千年に一人の先導者をも霞ませる自信のある立ち姿、恋愛がよくわからない生娘も頬に薔薇を咲かせる美貌、数多の人を惑わし、救う声。そのどれもがうまく噛み合い、そして互いを際立たせていた。


 そう世間を震撼させた正体のわからない青年は、気がつけば消えていた。今思えば、消えたのはちょうど、かの有名で、悲惨で、残酷な世界戦争の少し前だった。美しい青年が消えたことよりも、民衆はそれぞれの国が掲げたプロパガンダに夢中になっていた。熱狂に身を投じていた、いわゆるミーハーな者たちは、もう彼を覚えていない。一種の流行に青年はなっていた。概念に吸収された。


彼のことはどの文献にも残っていない。あの熱狂に本気になっていた者しか、彼を語れなかった。


 しかし、皆々口を揃えて言うのは「彼を言葉で形容するだなんて不可能だ」と言うこと。まるで合言葉のような、もしくは馬鹿の一つ覚えか。誰も彼も猫も杓子も、同じ言葉を、壊れたスピーカーのように、幾度聞かれても何度も何度も口から垂れ流す。


 なんとくだらないことなのだろうか。


 彼はすぐそこにいるのに。


 世界を見つめ、人間も魔も魔獣も何もかもを彼は眺めている。無駄に長くなった世界戦争も、格段に上がった技術力も、後に続いた八ッ国の時代も、その後の時代も、そのずっと前も。


 そのことに誰も気づかない。


 だが、ただの事実だ。それ以外に何もない。


 彼が消えて、こちらを見ていようとも、世界は廻り、絶え間なく変化する。そう、たとえ誰にも見向きされない小さな島国でも。



 天には淡い空色がどこまでも続き、母なる輝きことカサドゥが沈みかけながらも光のベールで地を優しく包み込んでいる。小鳥たちは祝福のさえずりをくちばしから紡いでいた。


 丘の上の巨大な桜の木が、風と会話している。ひらひらと宙を舞う薄桃色の花びらは、少しずつ、地面に積もっていった。


 その巨木の根元で、一人の青年が寝息を立てていた。規則正しく、安心しきっているのがわかる。蚕の繭のように白く美しい髪に、彼を守っている樹木の花弁が降り立った。木漏れ日が彼を抱きしめる。自然に愛されているみたいだ。


 遠巻きに栗毛色の鹿の親子が彼を眺める。好奇心旺盛な小鹿が近寄ろうとするが、母に止められる。桜の木にとまっている紙鳥たちは歌を子守唄のような優しいものに変えて、音の大きさも控えめにした。ゆるりと風が草木を撫でる。青年の口角が無意識下で穏やかに上がる。


 桜の丘から少しばかり離れた木漏れ日林から、幼い子どもたちの楽しそうな笑い声が木々の合間を縫って空気に溶けていく。煌めく河川は今日も変わらず、水の中に暮らす生き物を包み込み、緑の山脈では獣たちが狩りで追い追われていた。いつも通りの生態系が、平和なその国で営まれていた。


「…テイム」


 気づけば、とある少年が青年の名前を呼んでいた。いつの間にやら、その少年は桜の太い根の上に立っている。茶色の髪と瞳をもった、童顔の少年だった。


 ゆっくりと、テイムは瞼を開く。アメジストの瞳があらわになった。葉の間から降り注ぐ光できらきらしている。


 ぱちり、ぱちり、ぱちり。ゆったりと瞬きをすること三回。ゆらりと上体を起こし、目をこする。その悠々とした動きはさながら緩やかな小川のようだ。


「……おはよう。ホエン。いま、何時?」


 柔らかい、ふわふわとした、けれどもしっかりと地に足ついた青年の声。ホエンはそう問われると、テイムの隣に腰掛ける。ぱさりと草の擦れ合う音がたった。


「輝き落ちの時間」

「ぼくが寝始めたのは?」

日向ひなたの時間」

「そう」


 そよりと風が空間を駆ける。テイムの糸のような髪がそれに共鳴して揺れ動く。真っ白のシャツの中にも空気が入り込んでふわふわした。


「カフウは林で子ども達と遊んでる」

「そっか」


 非常にそっけない会話だ。熊の親子の方がもっとやさしい関係を持っているだろう。

 海とぶつかっているカサドゥの光に目を細めながらホエンはまた口を開く。


「ねぇテイム」


 それと同時にふいと白の彼に顔を向ける。テイムは喋らず、視線を向けるだけだ。答える必要がないと思ったからだろう。ホエンもそれが無視ではないことを知っている。


「テイムは僕たちよりも長く生きているんでしょ? 今まで見てきたこととか知りたい」


 ホエンの抑えきれない知的欲求が言葉となり、口から溢れ出す。


「今までみてきたこと?」

「そう」

「むかしばなしか。つまんないよ?」

「テイムにとってはつまんないんだろうけど、僕にとっては面白いんだよ」

「まだ話していないのに」


 まぁ、うん、そうだけど。ホエンは頷くが、彼の瞳は諦めていない。テイムはため息をつくと、口を開く。つまんないかもよ、と前置きをしてから、彼は語り始めた。



 ぼくね、昔、ここの外にある大陸に行ったことあるんだ。


 こことは結構ちがってて、大きなまちがあったんだ。ぼくはカバン一つでそのまちに行ったから、特に買えるものとかもなくてね。みて回るだけにしたんだ。


 そしたら急に、人間の男性が話しかけてきて。話を聞いてみれば、ぼくの容姿が綺麗だと思ったんだって。声を聞いたらもっと目をランランとしてさ、ちょっと怖かったっていうのかな? 一歩後ずさったんだっけ。


 雑誌に掲載する、見た目がきれいな人を探してたんだってさ。当時は…そういえばカメラが出てき始めた頃だったかな。なつかしい。


 それでまぁ、ぼくは一応引き受けたんだ。そうそうない機会だろうし。怖かったけど。


 そしたら、その一週間後にその雑誌がすごい話題になってたんだ。誰かとすれ違ってくたびにその話しか聞こえなくて、びっくりしたなぁ。最初の方はただの自意識過剰かなって思ってたんだけど、次第に話しかけられ始めたりしてさ。自分は話題の対象なんだなって。


 どこか他人事だった。


 ホエンは知ってるっけ、この世界の歴史。僕たちが今いる、この時間軸はぐに後期第一時代でね。ぼくがそこで雑誌に載ったあたりのは今から…どのくらい前かな、分裂・争いの時代前だから、えーっと、平和の時代か。そのころは戦争とかいう単語が忘れ去られているような時代だったんだけど、次第に国が分裂して、争って、また分裂して、っていう時代になっていったんだ。


 そしたら案の定、ぼくは忘れ去られた。


 淋しい、悲しいとかの感情はなかったよ。もとより、ぼくは注目される気なんてなかったからね。

 こんなものかな、ぼくが今すぐに言葉にできるのは。



 テイムが語り終えると、彼は一息つく。それに合わせてか、紙鳥かみどりの鋭い声が聞こえた。カサドゥが沈み終わりそうだ。橙色の光が遠くの林を突き抜けている。テイムはそれをみていたが、すっと視線をホエンに移す。


 ホエンは目を輝かせていた。


 話を聴く前の、好奇心に満ち満ちている両目ではなく、憧れや、尊敬の念を秘めた瞳だ。母なる輝きにも負けぬその眩さにテイムも驚いた。


「えっと、どう、だった?」


 戸惑いを声色に含みながら、テイムはホエンに問いかける。


「なんというか、さすがっていうか、テイムって本当に強いなって。かっこいいなって思った」


 笑顔で言うホエンをみて、ほめられた白い服をまとっている彼は、きれいな二つのまんまるいアメジストを見開いて、そのあと、ふっと顔を綻ばせて、やさしい、優しい、ほほえみを浮かべた。


 カサドゥの光が水平線と交わりきって、姿を消していった。


 平和な国は、今日も明日も、世界が終わるまで、まわり続ける。


 桜の花びらが風に誘われて舞い上がった。

 

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