第59話 先輩の誕生日(6)

 「まあ。それから半年くらい、かなあ」

 つんさんは続けた。

 目線の先は壁の高いところにいまも向いている。

 杏樹あんじゅが振り返ると、そこには羽根のついていない扇風機が取り付けてあった。

 夏になると羽根をつけて使うのか、それとももう使っていないのか。

 どっちにしても、立体的なテレビと同じように、ほこりがいっぱい絡みついていた。

 もしかして、そのひとがいたころ以来、使ってないのかな。

 「そのあとも、ケンちゃん、店には出てたんだけど、ま、わたしとは目を合わせないし、ほんとしょんぼりしてたよね。そしたら、ある日、店開こうとしてるときだった。あのときのことはずっと忘れられないよ。店にはまだわたししかいなくて。外が薄暗くて、まだ店の電気つけてなくて店のなかはもっと暗くて、それでも、店の様子は半分逆光半分シルエットみたいになってわかって。そこのカウンターに前の日の新聞が投げ出したままになってたのまで覚えてる」

 「はい……」

 これが何か重大な話の前置きだということは、杏樹にだってわかる。

 日本文学概論の成績が、お情けの、いや、こんな学生二度と来てほしくないという意味の「C」だった杏樹にも。

 「そこに産科の病院から電話がかかってきてさ。すっごい急いでるのがわかる電話でね。相手は若いお医者さんだったのかな。坂上さかがみさんですか、はいそうです、いや女のひとが出るはずないでしょ、それともお姉さんですか、みたいな、よくわかんない会話で。で、いや、ここ、かっぽう坂上って店ですけど、って言ったら、やっと、坂上堅太けんたさんいますか、って言うから、ケンちゃん呼び出して取り次いだんだよ。ま、そのころ、携帯ってまだなかったからね。あることはあったけど、まだ持ってなかった。ケンちゃんも、わたしも。だから、走って行って呼んできたんだけど、ケンちゃん、電話取ってちょっと話すなり、いきなり電話をがちゃっと置いて、慌てて飛び出して行った。それでさ」

 つん子さんはそこでことばを切った。

 「二度とわたしたちの前に姿を見せなかった」

 目を閉じて、ふっと鼻から息をつき、肩を落とす。

 このひと、ほんとはそのケンちゃんが好きだったのか?

 わからない。

 「だいたい、わたしたち、っていうのはこのお店のひとのことなんだけど、わたしたち、だれも、ケンちゃんが車持ってるなんてことすら知らなかったんだよね。それで、ケンちゃん、車で高速乗って、その早浦はやうらってところで下りたらしいんだけど、よっぽど急いでたのか、それとも慌ててて自分が高速下りたことすら気づかなかったのか」

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