第58話 先輩の誕生日(5)
「それとさあ」
つん
天井と壁の境あたりへと目を向ける。
「遠い目」というやつだ。
で、
「どうもわたしが好きだったらしいんだよね」
「へっ?」
というわけで、さっきまで考えたことがぜんぶ吹き飛んだ。
まあ、それまで考えていたことなんて、どっちでもいいけど。
それに、そんなにおかしい事態ではない。
その、ケンちゃんっていうひとは、何も仕事をしないのに店に出て来ていた。
それは、店で仕事をしているひとに関心があるからで。
つん子さんに声をかけるチャンスをうかがいに出て来て、毎日、声かけられないで撤収、とかいう流れだったのかも知れない。
「さっきさ、杏樹ちゃんがたいへんなことになってるのに止めに入るのが遅れたのは、その……」
と、ちょっとつん子さんは口ごもった。
「思い出しちゃってね。体も動かない、声も立てられない……」
もういちど口ごもる。
「ああ、いえいえいえ」
場違いだろうと思ったけど、杏樹は大げさに否定した。
「あれは、先輩とわたしの問題で、その、つん子さんに……」
そう言えば、このひと、つん子が本名のわけがないんだけど、と、こんな瞬間に思いつく。
「あ、いや、そういうんじゃなくて」
本名のわからないつん子さんが、軽く肩をすくめた。
「いきなり抱きついてきたんだよ、そのケンちゃん、それもあんなふうに、中途半端に服のとこつかんでさ。しかもお店やってる途中で、お客さんとかみんな見てるところで、だよ。それも、なんの前振りもなしに」
ああ。それなら、さっきの先輩のほうがまだ常識的だ。
少なくとも、前振りはあった。
「それでキスしようとするから、やめてください、やめてくださいって言っても、まるで通じないの。そのときはじめてケンちゃんが怖いって思った。ほかの店員はさ、ケンちゃん力持ちなの知ってるから、手、出さないし。で、けっきょく、そのころの常連さんで、剣道何段かっていうおじいさんがまあまあまあとか言って引き分けてくれて。ついでに、そのひとが、そのときお店にいたひとにビール一杯ずつ
それで、その噂は広がらずにすんだ、ということだろう。
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