第57話 先輩の誕生日(4)

 「みんな油断してたのよ。そのひと、ケンちゃんって言うんだけど、ケンちゃんのお父さんとかも含めてね」

 「はい」

 何の油断だろう?

 「店開くのが夕方の五時くらいで、それからしばらくいるんだけど、消えちゃうんだよね、七時ごろには。ま、その時間は忙しくなってくるから、仕事しないならいなくなってくれたほうがいいって、だれも気にしなかった。家に帰って、ビールでも飲んでテレビ見て寝てるんだろうな、と思ってた。わたしも、そのころはいたほかの店員さんも、ね」

 ということは、いまはほかの店員さんはいない?

 そういうことかな?

 人生経験というのが浅い杏樹あんじゅにはわからない。

 「だから、そのいなくなってる時間に、女の子と会ってる、なんて、だれも知らなかった。想像もしなかった。それも、早浦はやうらっていって、ここから高速で、そうねえ、高速使って三十分ぐらいはかかるところ? なんか、一瞬だけ、レスラーだかボクサーだかの仕事したことがあって、そのときのファンだ、っていうんだけど、ほんとのところはわたしにはわからない」

 「それが?」

 「うん」

 つんさんは頷いた。

 「そのひとが、あなたの先輩のお母さん。でもさ」

 しんみりしたモードに入るのか、波乱の一展開二展開があるのか知らないけど、その前に、と思って、つくね汁をすすってご飯をばくっと食べるってあたりが、いやしい。

 自分でもわかってるんだけど。

 しかも、つん子さんはしっかりその杏樹の行動を見ていて、ぜんぶ噛んでしまうまで、話を止めていた。

 うむむ……。

 「いろいろあって」

 「いろいろって?」

 白菜がしゃりっとしていて、おいしい。

 それで、おうむ返しにきいてしまった。

 つん子さんが答える。

 「まずね、入籍してなかった。つまり法律上の夫婦になってなかった」

 「ああ」

 でも、事実婚というのでも、一定の法的な保護は受けられたのでは?

 一年生のときの法学の授業の断片が思い浮かぶ。

 続けて、もう、ほんとにばらばらにしか覚えてないな、一年生の授業の内容、と、自分への突っ込みが働く。

 そろそろ情けなくなるべきところだ。

 それに、あの大藤おおふじっていう先生のところに行けば、たぶんそれでは許してもらえなくなる。心しておかねば。

 あの結生子ゆきこさんでも、その日本史概論のなんとか寺――ほら、もう忘れてるよ――の話を覚えてなかったって指摘されてたじゃないか。

 いや、まあ、どんな感情も演じ分けられるそうなので、あれも演じていたのかも知れないけど。

 杏樹と仁子じんこちゃんを安心させるために。

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